#28.さんかく
*
「……違うの、だから、お願い……」
腕、離して―――あたしは小さく呟いた。すごく小さな声のつもりだったけれど、誰もいないリビングには十分響いてしまったようで、
巧は慌てたように手を離した。
「悪い……痛かったか?」
「ううん……」
巧がいままで触れていたあたしの右腕は、強く掴まれていたためか、少しだけ痛んだ。だけどそれ以上に、その部分がなんだか熱くて
火照っているような気がする―――まるで、火傷をしたときのように。
「巧は、なんにも……悪くないし、その、あたしも、いつも、通りだから」
あたしは途切れ途切れに、搾り出すように言った。目を合わせられない。心臓がバクバクうるさくて、いまにも壊れてしまいそう。
「……んなん、信じられっかよ。ライブのときと明らかに違うだろ」
巧はため息とともに呆れ声で言う。怒っているわけではないことは分かっているのだけど、それでもドキッとしてしまった。
「……」
「ま、いいけど、別に。……メシのとき、また呼ぶから」
巧は諦めたように言うと、キッチンに戻ってしまった。俯いたままでも、巧がなにをしているか、わかる。途中だった洗い物を片付けて、
冷蔵庫を開けて食材を出して、食器を出して……あたしなんてそこにいないかのように、黙々と作業をしている。
巧も気を遣ってくれているんだ、と思った。あたしが巧を嫌いになってしまったと、きっと巧は思っているだろうから。
―――部屋に、戻ろう。
あたしはそうっとリビングを出て、階段を上って自分の部屋に戻った。部屋のドアを閉めた瞬間、なんだか力が抜けてしまってその場に
へたり込んでしまう。目頭が熱くなって、涙が出てきた。
……やだな、もう、こんなの。
前みたいに巧と普通に喋りたいし、少し腹は立つけれど、あの憎まれ口だって、いまはなんだか懐かしい。あたしに目線を向けて、
あたしに話しかけて―――そう思っているのに、実際は逆の態度を取ってしまう。
恋って、こんなに苦しかったっけ。「好き」、その気持ちだけでなんでもできちゃうような、それが恋っていうものじゃないの?少なく
ともあたしが知っている「恋」は、そうだ。
それなのに、いまのあたしは―――。
好きな人に自分の気持ちの逆の態度を取ってしまって怒らせて、あんなふうに呆れられて、だけど「好き」なんて怖くて言えなくて。
なんでもできるどころか、前はできていたことができない状態になっている。
「好き」―――ただそれだけなのに、どうしてこんなふうになってしまうんだろう。
*
6月22日の月曜日、あたしはいつもより30分ほど早く家を出た。
学祭のリーダー会議をすると、昨日ヤナから連絡があったためだ。ちなみにあたしは、じゃんけんで負けてしまって、運悪く内装班の
リーダーになってしまった。まあ、なってしまったものは仕方がない。
「おっ、由依子、早いな。二番乗りだ」
教室に入ると、すでにヤナが来ていた。プリントを手に持っていて、なんだか今すぐにでも会議を始められそうな雰囲気だ。
「ヤナも早いね。何時ので来たの?」
「んー、たぶん由依子の1本前じゃねえかな?もうちょっと早く来たかったんだけど、これ作ってたらついつい夜更かししちまって」
そう言ってヤナは、持っていたプリントをあたしに1枚手渡してくれた。『店の名前大募集/シフト決めます!部活・委員会などで無理
だという時間帯には×をつけてください!』―――ヤナらしい大きな字で、そう書いてあった。
「ヤナ、これ……」
「こういうのって、早いほうがいいと思って。店番も、誰もいない時間帯は俺と千葉で入れるようにはするけどさ……学祭って文化部の
ヤツ忙しいだろ?うちのクラス、文化部多いし」
学祭の本番は、7月11日と12日の土日だ。土曜日は学校内の公開日で、日曜日は一般開放日となるので、他校の人や保護者も自由に
学校に入れるようになっている。
だから、一応まだ3週間近くあるはずなのだけど……もうこんなところまで考えていたとは。やっぱりヤナって、クラスのことをしっかり
考えてくれる委員長だよね。そんなことを考えて、なんだかしみじみしてしまう。
「ん?どした、由依子。もしかして、俺のこと見直した?」
「えっ?」
「もしかして、ヤナっていーなあ、とか思った?」
ヤナはからかうような口調で言って、そっとあたしの髪に触れた。まさかそんなことをされるとは思わなかったので、びくっと身体が
震えてしまう。ていうか、ヤナ、いつの間にこんなに近くにいたの?
「あの……ヤナ」
「いーよなあ、朝の、誰もいない教室。好きな子と二人っきり」
「……え?」
「いや、できたシチュエーションだなあ、と」
冗談だよ、とヤナは豪快に笑うと、「ほら、さっさとプリント、班の人数分取って。由依子は内装班だから11枚だな」と言った。
「え……」
もしかして、からかわれた?……ちょっとだけドキッとしちゃったの、バカみたい。
「もう、ヤナ……変なからかい方しないでよ」
「……半分くらい本気だけどな」
「え?」
「さっきの由依子の驚いた顔、マジ可愛かった」
ヤナはぼそっと言うと、「さー、他の奴ら遅いから、プリントの仕分けでもしてっかなー」とあたしから離れていってしまった。
―――ちょっと、なんなのよ、もう。
あたしが呆気に取られていると、教室のドアがガラガラと開いて、「おー、ヤナも咲坂さんも早いなー」「なに、二人っきり!怪しー。
ヤナ、おまえ変なことしてねーだろうなー」と騒がしい声がした。ヤナと仲のいい千葉くんと山岡くんだった。
「変なことなんて、してるわけねーだろ。な、由依子?」
ヤナがあたしに意味深な笑みを向けてそう言ったので、とりあえず無言でコクコクと頷く。
最近のヤナは、なんだか前よりも、少し積極的な気がする。気のせいかな?あたしが意識しすぎなのかな?そうだといいんだけれど……。
男子3人で騒がしく、ああでもないこうでもないと言い合っているのを横目に、あたしは大人しくプリントの記入をすることにする。
うん、きっと、気のせい―――だよね。
――巧視点――
―――やっぱり、おかしい。
6月22日月曜日、1講目は経済学概論だった。1講目だということと、教授の話がとてつもなくつまらないということで、俺は毎週
恒例の睡魔と今日も闘っている―――はずだったのだが。
今日はぱっちりと目が覚めていた。もちろん、授業を真面目に聞いているというわけではない。考えごとをしていたからだ。
4月に咲坂家に来てからのことを思い出してみたけれど、やっぱり由依子にあんな態度を取られることはしていないのではないか、と
思う。少なくとも5月末のライブまでは普通だったし、やっぱりそのあとだよな……。結局、いままで何回も辿り着いた結論に至ってしまい、
思わずため息を漏らした。
「巧、どうかした?ため息、今日8回目だけど」
隣に座っていた同じ学部の友達が、俺にぼそっと話しかけてきたので、「バカ、数えんなよ」とぶっきらぼうに返す。
やっぱり変だ。どう考えたって、変だ。前に、ヤナのことを少し悪く言ってしまったこと―――それは謝った。詩織を家に連れていくこと
だって、最近はしていない。咲坂家に住んでいることは必要最低限の人にしか言っていないし、きちんと家に帰ってるし、晩ご飯がいらな
ければ連絡だってしている。
―――じゃあいったい、由依子のあの態度は、なんなんだ?
不可解だ。謎だらけだ。……というか、どうして俺がここまで悩まなければならないんだ?しかも、由依子のことで。いったい、どうして。
「あ、巧、9回目」
「だから数えんなって」
こいつ、よっぽど退屈してんだな、この授業に―――。腕時計で時間を確認する。まだ9時40分を回ったところで、授業はまだ、たっぷり
半分以上残っていた。
練習がなくなったと先輩からメールが入ったのは、ちょうど4講目が終わったときだった。
夏ライブに出演する予定のバンドだから、練習回数減るとマズいんだけどな……そう思ったけれど、先輩に都合が悪くなったと言われては、
どうしようもない。
『了解です。もし今週、どこかで練習取れたら、そこでもう一回合わせたいです』―――先輩にそう返信すると、携帯をポケットにしまった。
今日も俺がメシ作るかな……。夏ライブが終わったらバイト始めようと思ってるし、こんなに早く家に帰れることも少なくなるだろうから。
由依子はもしかしたら、嫌がるかもしれないけど。だけどまあ、おばさんは喜んでくれるだろうし、いいか。
「巧、今日ヒマ?飲みにいかね?」
「いや、今日はいいわ」
「えー、来てくれよ。おまえが来たら、女子の集まりがめっちゃいいんだよ」
「いや、パス」
俺は友達の誘いをあっさりと断り、カバンとギターを持って「じゃあ、また明日な」とそそくさと教室を出た。前にも一度、しつこく誘わ
れたので行ってみたが、なんだか飲み会というよりは合コンのような雰囲気で、特に楽しくもなかった。しかも、知らない女にアドレスを
しつこく聞かれて面倒くさい思いをしたので、できればあまりそういう場には行きたくないのだ。
彼女なんて、べつに、作る気ねえしな……。
無意識にそんなことを考える。詩織に出会う前の不誠実な自分に聞かせてやりたい、なんて思いながら、俺は適当に携帯をいじりながら
正門を出て、岸浜駅へ向かう。
大学から駅までは近く、徒歩で10分くらいだ。そのくせ大学の敷地は広くて自然もいっぱいあって、岸浜の街中にあるとは思えないくらい
環境が整っている。
―――今日は、天気がいいな。
なんだか気分がいい。夜は新しい曲の練習でもしておこう。時間、空いたことだし。
俺はイヤホンを耳に装着して、iPodでお気に入りの曲を探す。一人で歩いているときはいつも音楽を聴くのだ。そうすると、なんだか景色が
いつもよりぐっと綺麗に見えるから。
*
「あれ、巧さん?」
ちょうど、曲が途切れたときだった。
俺は駅のホームで、新岸浜方面の結崎行きの快速列車を待っているところだった。そこで、知っている声が耳に飛び込んできたのだ。
「……ヤナ?」
「こんにちはー。巧さん、やっぱり目立ちますねー」
ヤナは屈託のない笑顔でそう言うと、「ギター背負ってると、余計に格好良く見えるし。絵になりますねー、うん」と明るい声で続けた。
くるくると変わる表情に、愛嬌のある顔。笑うと、男の俺でも『可愛い』なんて一瞬思ってしまうくらい、人懐こく見える。
「いま、帰り?」
「はい。もうすぐ学祭準備とかで忙しくなるし、いつもは部活とかあるんで、この時間ってのは珍しいんですけどね」
「学祭?」
「あ、よかったら来ます?7月の第二日曜なんですけど。あ、でも大学生って忙しいかあ」
ヤナも半分冗談で言っているようだったので、俺は曖昧に笑ってごまかしておく。電車が到着したので、ヤナと一緒に乗り込んだ。新岸浜
までは5分で着いてしまうので、俺はいつもデッキに立つことにしている。どうやら、ヤナもそのようだ。
「……あのさ、由依子って、元気?」
「え?」
「あ、いや……なんでもない」
何を言ってんだ、俺―――。そう思って、自分が口に出したことを後悔しかけたのだが、ヤナは 「あー、やっぱ高校生とは、生活パターン
とか全然違いますよね?家であんまり会わないんですか?」と、さっきと変わらない明るい声でそう返してきた。
「あ、まあ……そうだな。あんまり会わない、かもしれない」
「ですよね。由依子から巧さんの話、そんなに聞きませんし。会ってないからなんですね」
ヤナの表情は変わらず、笑顔のままだ。だけど、どうしてだろう―――なんだかいまの言葉に、小さな棘があったような気がする。考えすぎ
かもしれないけれど。
それから俺もヤナもなんとなく喋らなくなってしまった。『次は新岸浜、新岸浜です。お降りの方は……』とアナウンスがかかって、はっと
我に返る。
「あ、もう新岸浜ですか。早いですね」
おんなじ方向だし、一緒に帰りましょうよ。ヤナがそう続けたので、俺はなにも言わずに頷いた。
新岸浜駅からの帰り道は、前にヤナに貸したCDの話や、俺がいまサークルで組んでいるバンドの話など、他愛もない話をしてそれなりに
盛り上がった。そうこうしているうちに、あっという間に咲坂家のある住宅街のエリアまで来てしまっていた。
「あ、じゃあ俺、こっちなんで」
「そっか。じゃ」
ほんとに家、近いんだな。きっと由依子とは小学校も中学校も一緒だったのではないか。俺はそんなことを考えながら、ヤナに背中を向けて
歩き出した―――いや、歩き出そうと、した。
「……あの、巧さん」
たったいま別れたはずのヤナに呼び止められる。俺はなんだろうと思いながら振り向いた。
「俺、由依子のこと、好きです」
ヤナは俺の目をまっすぐに見て、はっきりと、確かにそう言った。あまりに突然だったので、すぐには反応できない。
「ずっと前から好きなんです。だから俺、由依子のこと振り向かせたいって思ってます。……由依子が、たとえ誰のことを好きだとしても」
俺はやっぱりなにも言えずに、ただヤナの顔を見ていることしかできない。由依子はヤナのことが好きなわけじゃないのか?そんな疑問が
浮かんだけれど、口にできる雰囲気でもなく。
「巧さんに、はっきり言っておきたかったんです。じゃあ、失礼します」
ヤナはそう言って俺に頭を下げると、重そうなスポーツバッグを揺らしながら走って帰ってしまった。
―――なんなんだ、いったい。
ヤナが由依子のことをそういうふうに見ているのは、なんとなく分かっていた。だけど、俺に言っておきたかったって……どういうことだ?
「……なんなんだ」
知らないうちに、口からそう出てしまっていた。ヤナが由依子を好きだということが、俺にどう関係があるというのだろう。