#25.土曜日のこと ヤナ視点
 
 
 
 
  映画は十分面白かった、はずだった。
  結局俺が選んだのは、先週公開したばかりのアメリカのアクション映画だった。さすがに恋愛映画を由依子と二人で観るのは気が退けたし、
 そういうのはやっぱり、恋人同士が見るものだと思ったからだ。
  今日会ったときからすでに沈んでいた由依子の表情は、映画を見終えたいまもそんなに晴れているようには思えず、逆に無理して笑顔を
 作っているような気さえする。だから俺相手にそんなに無理すんなって、という言葉を、さっきから何度飲み込んでいるだろう。
  この様子だと、たぶん―――いや、絶対に、巧さん絡みで何かあったのだ。
  そうとは分かっていても、それを直球で聞くほど俺もデリカシーのない男ではないのだが。
  「……映画、面白かったね?あ、なんかお腹すかない?お茶でもしたいね」
  由依子はそう言って笑って、岸浜駅の駅ビルに入っているカフェの名前をいくつか挙げる。
  「そうだなあ。喉渇いたしな」
  気付けばもう3時を回っている。ここらで休憩して、これからどうするか決めてもいいな。
  それに、いったいなにがあったのか―――聞きたいし、な。
  「ほら由依子、はぐれると困るから」
  俺はそう言って一方的に由依子の手を握って、歩く速度を速める。「ちょっと待ってよ、もう」と由依子の慌てる声が聞こえる。
  少しだけ汗ばんだ、小さな手。そこに由依子がいることや、由依子の手を握っていることを意識すると、なんだか胸がひやりとしてしまう、
……ダメだダメだ、もっと自然にしないと。由依子に変な気遣わせるわけにいかないんだからな。
 俺はそう自分に言い聞かせると、ここから一番近くにあるカフェを目指して、もう少しだけ歩く速度を速めた。
 
 
 
 
  「だから、あたしも出すってば」
  「いいから気にすんなって。ほら、俺のほうが高いモン食うんだし」
  俺はバッグから財布を出そうとする由依子を制してさっさとお金を払い、トレーを持って空席を探した。お、ラッキー。禁煙席空いてる。
  「もう、前も出してもらったのに」
  「そうだっけか?ま、んな細かいこと気にすんなよ」
  好きな子に金なんか出させるわけねーだろ―――俺は心の中でそう呟いて、卵とハムのサンドイッチに齧り付いた。あ、おいしい。
  「……ありがと」
  由依子はぽつりと言うと、苺のタルトを少しづつ食べ始める。
  「苺のタルトにアイスティー。まさに女の子のチョイスだよな」
  「……ほっといて」
  最近気付いたんだけど、たぶん由依子は俺に“女の子”って言われるのが苦手だ。俺が女の子、と言うたびに、ほんの少しだけ顔を
 赤らめて、俯いてしまう。まあその表情が可愛いから、わざと言ってる、っていうのもあるんだけど。
  「んで、なにがあったんだよ?」
  二つ目のサンドイッチ――ツナとレタスのサンドイッチだ――に齧り付いて、俺は言った。あくまで軽く。
  「え……?」
  「今日、最初から暗いだろ。映画、すっげー面白かったのにさ」
  「え、あ……ごめん」
  「別に、謝ってほしいわけじゃねえよ」
  どうせならもっと楽しそうな顔、見たかったけどな。その言葉は飲み込んだ。その代わりに、「雨だからテンション低かっただけ、とか
 言ったら怒るぞ」と軽口を叩いておく。
  「うん……」
  「巧さんのこと?」
  俺が言うと、由依子は驚いたように顔を上げた。分かってはいたけど、やっぱりそうなのかとがっかりしている自分がいる。
  「……」
  「あのな由依子、俺は確かにおまえのこと、好きだぞ。でも、それ以前に俺たち、友達なんだからさ……困ったことがあれば、相談しろよ」
  由依子のことが好きだから、こそ―――巧さん絡みの話は聞いておきたいというか、敵のことは知っておきたいというか……そういう下心は、
 ないわけでもないけれど。
  「……あたし、妹みたいなんだって」
  由依子がタルトを食べる手を止めて、小さな声で言った。うっかりしていると聞き漏らしそうなくらいの声で。
  「え?」
  「巧にとっての、あたし。最近、っていうか、あのライブの後くらいから優しいなって思ってて……そしたらね、妹みたいだから優しかった
 んだって」
  そうだよね、巧があたしをそういう目で見てるわけないよね、と由依子は目を伏せて言った。
  「妹、ねえ……」
  まあ、わからんでもないか……。俺は自分の2つ年下の妹のことを思い出して、考えてみる。由依子と巧さんもちょうど2歳差だ。しかも
 高校生と大学生という大きな差もあるし、巧さんが由依子を妹のように思っていたとしてもおかしくはない。
  「ま、まあいいんだけどね?そりゃ、あんな綺麗な彼女がいれば、他の女の子なんて目に入らないだろうし」
  綺麗な彼女?あ、あの美人ボーカルのことか。まあ確かに、凄い美人だった。顔ももちろん綺麗なんだけど、なんというか、雰囲気が洗練
 されているというか。まあ、その辺にはめったにいない綺麗な人だというのは間違いない。
  「まあ、綺麗だったけどな」
  「詩織さんね、あたしに、巧のこと好きになってもらいたくないんだって」
  「え?」
  「前にね、詩織さんとばったり岸浜駅で会ったときに、誘われてスタバでお茶したの。そのときに、そうやって言われちゃった」
  変だよね、もしあたしが巧を好きになったって、巧があたしを好きになるわけじゃないのにね。由依子はそう言って笑う。
  「なんかね、あの二人、変なの。付き合ってるくせに、詩織さんの家に泊まりに行ったりとかしてるくせに、巧は付き合ってないっていうの。
 もうそういう関係じゃないって」
  早口でそう話す由依子の表情があまりにもつらそうで、とっさに話題を変えないと、と思う。由依子にこんな顔をさせるために、誘ったわけ
 じゃないんだし。
 
  「……由依子、それ、一口ちょうだい」
  「え?」
  「苺のタルト。いいだろ?一口くらい」
  我ながら無理やりだなあ、とは思ったけれど、まあいいだろう。その証拠に、由依子が少しだけ笑ってくれているし。
  「ヤナって、やっぱり変」
  「そうかあ?」
  変でもいいよ。由依子が笑ってくれるなら。
  俺は心の中でそう返して、苺のタルトを口に入れる。あ、おいしい。俺もこれ食えば良かったかな。
  「妹ってことは、ま、可愛いってことだろ」
  「え?」
  「まだ、由依子の家に住み始めて2ヶ月くらいだろ?これからもっと仲良くなれるって」
  俺はなにを言ってんだ、敵の擁護なんかしてどうすんだ―――そうは思ったけれど、由依子がすごく嬉しそうに小さく頷いたから、やっぱり
 これで良かったんだと思う。
  由依子にあんな顔させたかと思えば、こんな顔もさせるなんて、巧さんって罪な男だなあ。俺は巧さんの端正な顔を思い出して、思わず
 苦笑してしまう。
  「……ヤナ、ありがとね。あと、ごめんね」
  夕飯は奢るから、雑貨屋さん見に行ってもいい?由依子は小さな声でそう続けて、アイスティーを一気に飲み干した。
  「だから、奢りとかそういうのは、由依子が気にすることじゃねえんだって」
  俺は笑ってそう返す。良かった。少しは気、晴れたかな。
 
 
 
 
 「あー、うまかった」
 夕食は、由依子の希望でオムライスにした。本当に満腹だ。そりゃあそうか。由依子の食べていたものの2倍のものを頼んだんだから。
 「ヤナ、ちょっと食べ過ぎたんじゃない?お腹大丈夫?」
  由依子がそう言ってクスクス笑う。数時間前よりはずっと元気になって、いつもの由依子に戻っていた。
  「雨、上がったなあ」
  新岸浜駅からの帰り道、アスファルトの路面はまだじっとりと濡れていて、外灯の光が鈍く反射していた。この時季独特の、濡れたアス
 ファルトの匂いが立ち込めている。
  腕時計を見ると、もうすでに午後8時を回っていた。思ったより遅くなったから、由依子のお母さん――俺はおばさん、と呼んでいるんだけど
 ――に一言挨拶をしたほうがいいかもしれない。
  「でも、やっぱりじめじめしてるよね。やだなあ6月、早く終わらないかなあ」
  隣で、由依子が不服そうに口を尖らせて言う。その表情が中学生のときと全然変わらなかったから、なんだか微笑ましい気持ちになって、
 ついつい頬が緩みそうになる。
  「由依子、今日おばさん家にいる?遅くなったから挨拶してくわ」
  「えっ」
  「なんでそんなに驚くんだよ。彼氏ですとは言わないから安心しろって」
  「……そういう意味じゃ」
  それ以外に、そんなに驚く理由がないだろ?さすがの俺だって、そこまでしないって―――俺は心の中でそう呟いて、由依子の家に続く小さな
 道に入っていく。俺の家も由依子の家も新岸浜駅から近いから、便利だよなあ。そんなことをぼんやりと考える。
 「よし、着いた。おばさん、いる感じ?」
 「うーん、電気付いてるからいる、かな……」
 由依子の表情はとても複雑で、いないって言いたいけど嘘はつけないという心情がそのまま顔に出ていた。こいつの気持ちを考えるとこのまま
帰ったほうがいいんだろうけど、こんな時間まで咲坂家の大事な一人娘を連れ回しておいて、そういうわけにいかないし、なあ……。
 「じゃ、一言だけでも」
 俺はそう言って、由依子に家の中に入るように促した。そのとき―――。
 
 「あれ、由依子?……ヤナ?」
 聞き覚えのある声がした。振り向くと、相変わらず端正な顔立ちの長身の男性―――巧さんが、立っていた。
 「なんだよ、いま帰りか?デート?」
 巧さんはニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべながら俺と由依子に近づいてくる。由依子はなにも答えずに、俯いていた。
 ―――どうしよう、この状況。「はい」って言いたいところだけど、由依子の気持ちを考えるとなあ……。
 「あ、その、映画、付き合ってもらったんですよ。で、メシ食って帰ってきたら、遅くなっちゃって」
 このくらいが妥当だろう。嘘はついていないし。
 「ふーん。あ、そういや、前にヤナが聴きたいって言ってたCD、ちょうど友達から返ってきたんだけど、貸す?由依子に渡してもらおう
と思ってたんだけど、ちょうどいいし」
 「あ、いいんですか?」
 前に巧さんのライブに行ったときに、俺が聴きたいと言った、巧さんイチオシのバンドのCDのことだろう。とっくに忘れられていると
思ってたけど、覚えててくれたのか。
 「いいよ。いま持ってくっから、待ってて。……由依子」
 巧さんが声を掛けると、由依子の小さな肩がビクッと震えた。おいおい、大丈夫かよ。仮にも同じ家で生活してんだろ?これからどうする
んだよ……と本気で心配になる。
 「なにおまえ、具合でも悪いの」
 巧さんがそっと由依子に近づいて、怪訝そうな、だけど心配そうな表情で言った。
 「……ううん、大丈夫」
 「疲れたなら、さっさと寝ろよ」
 巧さんはそう言うと、由依子の頭を優しくクシャッと撫でた。俯いたままの由依子がまたビクッと震えて、「うん」とくぐもった声で返す。
 「じゃあヤナ、ちょっと待っててな」
 巧さんが家の中に入ったのを確認して、俺はなにも言わない由依子に駆け寄り、「大丈夫か?」と声を掛けた。本当に具合でも悪くなった
んじゃないかと思う。
 「うん……」
 そう言って顔を上げた由依子は、はあ、とため息をついた。緊張しているような、だけど嬉しいような……そんな面持ちだ。暗がりでも、
由依子の頬がほんのりと赤く染まっているのがなんとなくわかる。
 巧さんの由依子を見る目が、前よりも優しくなっているような気がした。なんだか、妹を見る目―――というか。生意気で、だけど放って
おけない妹を心配している兄のような目だ。
 きっと由依子も、それはわかっているのだろう。だけど、あんな風に接してもらえることがすごく嬉しいのだと思う。
 「ヤナ、お待たせ。これと、あとこれな。返すのいつでもいいから」
 家から再び出てきた巧さんは、俺にCDを渡すと「じゃ、気をつけて帰れよ」と少し笑って手を振ってくれた。由依子も「今日はありがとね」
と言って、小さく手を振ってくれた。
 
 俺はくるっと踵を返して、いま来た道をまた戻る。次の角を曲がって少し歩けば、すぐ俺の家だ。
 ―――あーあ、由依子、巧さんのこと、マジなんだな……。
 中学時代からの付き合いだけど、あんな由依子、俺は見たことがない。俺が知ってる由依子は、もう少し元気で明るくて、どこか危な
っかしくて守ってあげたくなるような……そんな女の子だ。
 そんな由依子が、あんな風に落ち込んだり緊張していたり、かと思えば顔を赤くしてみたり。参ったなあ、と思う。
 ―――敵わねえのかなあ、俺。巧さんには。
 ふとそう考えて、俺らしくない、とすぐにその考えを打ち消した。由依子を傷つけた分、今度は幸せにしてあげたいんだ。俺ができる
ことなら、なんでもしてやりたい―――大げさだけど、そんな風にすら思っている。
 由依子が、俺を好きになってくれたらいいのに―――。
 そんなにうまくはいかないことくらい、俺だって分かっている。だけど由依子の顔を見るたびに、そう感じてしまう自分がいることも
確かだった。
 
 
 
 
 
 
 
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