#26.なんだか気になる 巧視点
 
 
 
 
  「そこもう一回やろう。巧、ギターいいから、歌だけ合わせてみて」
   はい、と答えて、もう一度サビを繰り返す。今日は声の出がいい。
  「……うん、良くなった。よし、今日はここまでにすっか」
  このバンドのリーダーである3年生の先輩が、そう言ってパンパン、と手を叩いた。はーい、お疲れーという声が飛び交って、張り
 詰めていた空気が一気にほぐれる。
  「巧、すっげえ良くなったよ。これなら夏ライブまで間に合うかもな」
  2年生のベース担当の先輩がそう言ってくれたかと思えば、「おまえ1年のくせに、成長はえーんだよ、追いつかれるよ俺」とリード
 ギター担当の2年生の先輩がそんなことを言って、みんなを笑わせる。
  5月のライブが終わってすぐ組んだこのバンドには、俺以外1年生がいない。だから当然プレッシャーも大きいけれど、先輩たちに認めて
 もらえるのがなんだか嬉しくて、やりがいも感じている。
  「よーし、飯でも食ってっか。予定大丈夫かー?」
  「大丈夫でーす」
  「俺も大丈夫っす」
  「巧は?」
  「あ、俺も、大丈夫です」
  練習枠が夜の6時からだったので、もう8時を回ってしまっていた。そういえば腹減ったな。練習に集中してて、すっかり忘れていたけど。
  「今日どこ行くよ?」「ラーメン食いてー」……先輩方とそんな会話をしながらサークル室を出て、8時からの練習枠を取っていたバンド
 と交代した。
  「あれ、このバンド、詩織いなかったっけ?休み?」
  「あー、詩織今日大学も来てないから。あいつそういうところあるからなー」
  「ふーん。あいつ、美人だけどどっか変だよなあ」
  3年生の先輩方のそんな会話が耳に入って、どきっとする。いちいち反応してどうするんだ。先輩方は、誰一人として俺と詩織の関係を
 知らないっていうのに。
  「あ、巧だー。おつかれー」
  「お疲れさまです」
  3年生の女の先輩が声を掛けてくれたので、そう返す。サークル会館を出ると、生温かく湿ったような空気に身体を包まれた。今朝は降って
 いた雨が、ようやく上がったようだ。
  「巧、なに食う?ラーメンだよな?な?」
  おばさんにご飯いらないって連絡もしたし、明日は2講からだから、そんなに急いで帰らなくても大丈夫そうだな。よっぽどラーメンが
 食べたいらしい先輩の言葉に相槌を打ちながら、頭の片隅でそんなことを考えた。
 
 
 
 
  咲坂家に帰ると、リビングの明かりがまだ着いていた。あとは……由依子の部屋か。そうか、まだ10時過ぎだもんな。
  鍵を開けて家の中に入ると、ちょうどリビングから出てきた由依子とばったり会った。ピンクの薄手のパジャマを着て、右手にはグラスを
 持っている。髪は少し濡れているようだ。俺の顔を見るなり、由依子の表情が強張ったのがわかった。
  「あ……おかえり」
  「おう」
  心なしか、様子がおかしい。今日だけではなく、最近ずっとこんな調子だ。
  「じゃあ、あたし……課題やってくる」
  俺と目も合わせようとせず、二階に上がろうと階段を上ろうとする由依子を、「おい」と思わず引き止めてしまう。……なにを、やってる
 んだ俺。特に用事もないくせに。
  「……なに?」
  「あ、えーっと……その、グラスに入ってんの、なに?」
  しょうもない、と自分でも思う。もっとマシな嘘がつけないものなのか。
  「お茶だけど」
  由依子は素っ気なく言うと、階段を上っていってしまった。なんなんだよ、あれ。俺、なんかしたっけか?
  この家に来た最初のほうこそ、失礼な言動をしまくった覚えはあるけれど、最近はうまくやれていると思ってたんだけど、な……。
 
 おじさんとおばさんはリビングにいるんだろうか。2階は静かだった。俺は自分の部屋に入ると、背負っていたギターケースを下ろし、ふう、
と息をつく。
 ―――今日練習したところ、後でもう一度見ておこう。
 そう思いながら、バスタオルとスウェットを手に浴室に向かった。先に風呂に入らないと、また気付かないうちに寝てしまうから。
 
 
 
 
 ―――それにしても、変だよなあ。
 湯船に浸かりながら、俺は由依子について考えていた。ライブのときまでは普通だった。いや、ライブのあとも普通じゃなかったか?いつ
からだったか、あんなよそよそしくなったのって……。
 2つ年下の由依子のことを、最近は妹のように感じることが多くなっていた。俺には由依子と同じ年の弟の周がいるから、なんとなく周の
ことを思い出すのかもしれない。
 元気で、明るくて、少し生意気で、素直じゃなくて。だからと言って嫌な奴ってわけでもなくて、なんだか憎めなくて、可愛く思える
ような……。そんなところが、周と少し重なるのかもな。
 
  湯船から上がって、軽くシャワーを浴びて身体を洗う。鏡が曇っていることに気付いて、そうか、由依子、風呂入ったばっかりか、と思う。
 そういえばさっき、髪濡れてたし、いい匂いしたしな。顔が少し赤かったのも、そのせいか。
  ふと、由依子の使っているシャンプーが目に入った。ピンク色の可愛らしいパッケージのシャンプーとコンディショナー。確か、アイドル
 がCMやってるやつだよな、あれ。
  俺はおじさんと共同のものを使っていて、おばさんは俺たちとも由依子とも別のものを使っている。由依子の使うシャンプーはなんだか
 甘い匂いがして、大学生になったいまではあまり嗅ぐことのないような、なんというか、“女の子らしい”匂いがする。女の人ではなくて、
 あくまでも女の子という感じの。
  ……って、なに考えてんだ、俺。変態かよ。由依子だぞ?妹みたいなモンだろ。
  シャワーを出して、頭から思い切りお湯をかぶる。バカか俺は。由依子のことは、絶対にそんな風に見れないだろ。
  特に整っているわけでもなく特徴があるわけでもないけれど、目が割と大きめで愛嬌のある由依子の顔。笑った顔はちょっと可愛いんじゃ
 ないか、と思ったりもする。
  ……あいつは妹だ、うん。
  俺は一人でうんうんと頷くと、身体についた泡をシャワーで全部流した。
 さっさと上がろう。さっきからなに考えてんだ、俺は。練習、よっぽど疲れたのかな。
 
 
 
 
  『あ、巧?明日2講、暇?練習枠空いてるみたいだから、個人練やろー』
  風呂から上がって部屋に戻ってすぐ、詩織から電話が来た。「なに?」と出た瞬間こんなことを言われたので、本当にマイペースというか、
 なんというか……と呆れてしまう。
  「おまえな……今日練習サボったんだろ?」
  『練習サボったんじゃなくて、大学サボったんだってば』
  そういう問題じゃないだろ。まあどうせ、単位はきっちり取ってるんだろうし、授業も出てるんだろうけど。
  「俺、2講、授業だけど」
  バスタオルで髪を拭きながらそう答える。時計を見ると、もう11時を回っていた。
  『うーん……じゃあ4講は?』
  「4講は空いてる」
  『じゃ、4講ね。巧と組んでるバンド、もうしばらく練習してないでしょ?夏ライブはあのバンドで出たいから、練習しときたいと思って』
  練習をサボったかと思えば、こうやってサークルのことをきちんと考えているような発言をしてみたりする。さっきの先輩じゃないけれど、
 やっぱり詩織って何を考えているのかよく分からない。
  「夏ライブ、俺もう一つバンドあんだけど」
  『あー、ユースケさんたちと組んでるバンドでしょー?んー、大丈夫大丈夫。巧なら余裕だって』
  「……簡単に言うなよな」
  『本当に思ってるんだけどなあ。あれ、logは今回出ないんだっけ?』
  「バンド合戦で出たバンドでは出ないと思うけど」
  『あ、そっかー。じゃあわたしも、今回は巧と組んでるバンドだけでいいやー』
  呑気に言うなあ。6つも7つも組んでるくせに、そういうわけにいかないだろ。俺はそう思って苦笑してしまう。
  そんなに熱心に取り組んでいるわけでも、バンドリーダーになるわけでもないのに、詩織とバンドを組みたがる先輩方は多い。それは
 たぶん、詩織の歌唱力がずば抜けているというのと、ボーカルとして真ん中に持ってきたときに、その容姿のおかげで誰よりも映えるからだ、
 と思う。
  『あ、でも、クミちゃんとバンド組んじゃったんだ。詩織さんとぜひ組みたいですって何回も言ってくれたから。あー、どうしよー』
  「クミとのバンドも出ればいいだろ。詩織は、俺とのバンドだけ出るってわけにいかないんだろうし」
  俺は左手で電話を耳に当てたまま、右手でカバンの中を漁って、今日練習した曲のスコアを取り出す。もうこんな時間だしギター弾く
 わけにもいかないから、もう一回スコアだけでも見ておこう。
  『んー、考えとく。じゃあ個人練の枠、部長に連絡して取っとくね。おやすみー』
  一方的に電話をしてきたかと思えば、一方的に切る。まあ詩織は、こういう奴だ。
 
  携帯をベッドの上に放り投げ、ふう、とため息をついた。寝転がって、スコアを流し読みする。軽く鼻歌を歌いながら音程を確認。
 ……うん、こんなもんだろ。自分でも先週に比べれば良くなったと思うし。
  ―――それにしても、詩織のやつ。
  相変わらずなにを考えているのか分からない女だと思う。そして未だに、なぜそんな女を追いかけているのかわからなくなっている
 自分もいる。
  もともとは詩織がきっかけで選んだ今の大学は、とても楽しい。当の詩織とは結局、なんともなっていないのだけれど。
  詩織の家には何度か泊まりに行ったが、最近はさっぱりだ。練習も、最近は終電には帰れる時間に終わるし、やっぱりこの家にお世話に
 なっている以上は、できるだけきちんと帰ってきたほうがいいのではないかと思うようになったからだ。
  ―――まあ、いつまでもこんな関係のままずるずると引きずるわけにもいかないし、なあ……。かと言って、簡単に詩織を諦められるか
 と訊かれたら、そうでもないんだけど。
  我ながら女々しいとは思う。だけど俺の詩織への気持ちをどう整理したらいいのか分からなくて迷っているうちに、さっきみたいに急に
 電話が来てみたりとか、「今日うち来ないー?」と言われたりとか、そういうことがあるから、結局詩織への気持ちを断ち切れないでいる
 のだ。
  ずるい、よなあ……あいつ。でも俺もきっと、ずるいんだろうな。
  詩織のことを好きでいるくせに、また前みたいに、急にいなくなられたら困るから―――好きだとも、付き合おうとも、言えないでいる。
 こうやって曖昧な関係を続けていれば、いつか詩織と付き合える日が来るのかもしれない、いや、もしかしたら、俺が詩織を好きでなく
 なる日が来るのかもしれない……そう思っているのだ。だからやっぱり、俺もずるい、のだ。
 
  なにか飲み物を取りに行こうと部屋の外に出ると、由依子の部屋から明かりが漏れていることに気付いた。まだ起きてるのか。
  ―――どうしたんだ、って訊くのもなあ。なんだか違う気がするし。
  俺は由依子の部屋のドアを、なんとなくぼうっと見つめていた。はっと我に返って、なにをやってるんだと思い直す。
  女って、なに考えてんだかわかんねえよなあ。なにかあるなら言ってくれたらいいのに……。
  「……ホント、意味わかんねえ」
  俺はぽつりと毒づき、そっと階段を下りてキッチンに向かう。なんだか目が冴えてしまったから、コーヒーでも淹れてスコアの見直し
 をしよう。集中してしまえばきっと、由依子のことも詩織のことも、どうでもよくなるはずだ―――。
  コーヒーメーカーをセットして、コーヒーが入るまでの少しの間、ソファに座って黙って待つことにする。リビングの壁時計は、まも
 なく12時を指すところであった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  シュガーベイビィTop Novel Top
 
inserted by FC2 system