#24.あたしを見ていなくても
*
「あれ、由依子ちゃん。おかえりー」
その日、家に帰ると、なぜか玄関先に詩織さんがいた。
「え……」
「あ、びっくりしてる?だよねー」
詩織さんは相変わらず綺麗だった。手のひらを口に当ててからからと笑って、「勝手にお邪魔してごめんね。巧、スコア探すって部屋に
戻ったきり帰ってこないの」と続けた。
「あ、いえ……。あの、中に入ってますか?」
あたしは上擦った声のまま、詩織さんにそう訊く。詩織さんがここにいる理由はわかったけれど、あまりにも突然だったので、まだ胸が
どきどきしている。どういう顔をしていいのか、わからない。
そういえば、巧のこと好きだって自覚してから詩織さんに会ったの、初めてかも……。はあ、ますます意識しちゃうなあ。巧、早く戻って
こればいいのに。
「ううん、いいのいいの。お構いなく。それより由依子ちゃん、ライブ来てくれてありがとね」
そう言って詩織さんがニコッと微笑む。文句のつけどころがない、完璧で美しい笑み。それなのに、なぜかあたしの胸がチクッと痛む。
「あ、いえ……その、楽しかったです。詩織さんも巧も凄くて、びっくりしました」
「うちの軽音、けっこうレベル高いからね。巧はあのライブのおかげで、組むバンドが増えちゃって大忙し」
「そう、なんですか……」
なんでだろう。詩織さんと話していると、いつも胸の奥がざわざわする。それはたぶん、巧のことを好きだって自覚するずっと前から。
「だから帰れない日もあると思うけど、心配しないでね」
ずきん。さっきよりもずっと鋭い痛みが胸を刺す。
「……はい。母にも、そう伝えておきます」
あたしはローファーを脱いで、「じゃあ、失礼します。2階に上がったら巧に声掛けてみますね」と続け、そのまま詩織さんの顔を
見ずに階段を上った。
あのまま詩織さんと喋っていたら、なんだかすべて悟られてしまいそうだった。あたしが巧を好きだっていうこと―――詩織さんには、
知られたくない。
巧の部屋のドアの前まで来て、すうっと深呼吸をした。そして、コンコン、と控えめにノックをする。
「はいー?」
「あたし、由依子。入っていい?」
「ああ」
恐る恐るドアを開けると、あちらこちらに高く積み上げらた本やら雑誌やらがあった。ちょっとでもバランスを崩すと部屋中に散乱
して、本当に足の踏み場がなくなってしまいそうだ。
「……詩織さん、けっこう待ってるの?」
「ああ、かれこれ30分くらい」
巧は散乱している紙を一枚一枚手に取りながら「これじゃねえや」「あ、これも違う」とぶつぶつ呟いていた。どうやら、まだスコア
探しの最中らしい。
「探すの、手伝う?あんまり待たせるのも悪いと思うけど」
「マジ?……あ、これもちげえや」
「どこから探せばいいの?」
「そっちの山から。まだ見てないから」
巧はそう言って、部屋の端のほうにあるいくつかの本の山を指差した。ところどころから紙がはみ出ている。
「……なんて曲?」
「“ナイトシアター”って曲。たぶん一まとめになってると思う」
あたしははあ、とため息をついて山を崩し始める。これはかなり難航しそうだな……。
「……巧、一回、詩織さんに帰ってもらったら?いつまでかかるかわかんないんじゃない?」
「いや、ここまで待たせたんだし、いい。詩織も待ってるって言ったし」
ほんと、巧と詩織さんの関係ってわけわかんない。あたしはスコアブックや音楽雑誌に挟まっている紙に一枚一枚目を通しながら、
ちらっと巧の横顔を盗み見る。髭を剃り忘れているな、と思う。それに、寝癖も。今日は全休だったんだろうか。それで、これから練習?
さっき携帯を見たら、5時はとうに過ぎていた。これから練習っていうことは、終電か、また泊まり……かな。
こればかりは巧の生活だからあたしには関係のないことだけれど、できれば泊まりは嫌だな。だって泊まるとしたら、またきっと詩織さん
の家だもん。考えただけで胸が詰まりそうになる。
「あっ」
いま、“ナイトシアター”ってあったかも。あたしは手元の紙をもう一度見直す。あ、やっぱりあった。“バンドスコア ナイトシアター”。
「巧、あったよ。これ?」
「マジ?!」
巧はあたしの手からスコアをひったくって、ざっと目を通し「あったー」とため息をついた。心底嬉しそうな顔。
「いや、助かった。マジで助かった。練習、ギリ間に合うわ」
巧はそう言うと、ギターを背負ってあたしの頭をぐしゃぐしゃと掻きまわすように撫でた。それだけで、心拍数がものすごい速さになる。
「由依子、サンキュな」
そう言って笑うと、巧は、走るように部屋を出て、物凄い速さで階段を駆け下りていく。「あ、見つかった?」「由依子が探してくれた」
という会話が聞こえて、そのあとすぐに玄関のドアがバタン、と閉まる音がした。
巧の部屋に一人ぽつんと残されたあたしは、その場に座り込んだままでいた。滅多に入ることのない巧の部屋。脱ぎ捨てられたTシャツや、
スタンドに立て掛けられたギター――2本持っているらしい――、ノートや教科書や、CDがたくさん詰まっている棚。全部が巧のものなんだと
思うと、胸がきゅっと苦しくなる。
「……最近、なんか優しい、よなあ」
ぐしゃぐしゃにされた髪を直すこともせず、ただ、巧の手の感触だけを思い出していた。わけもなく泣きそうになる。
やだな、あたし。巧は詩織さんと付き合っているのに。詩織さんのものなのに。
毎日、好きっていう気持ちばかりが募っていく。会えなかった日でさえ。誰もいない巧の部屋の前で立ち止まっては、切なくなって、
苦しくなって。
今日はいつ帰ってくるの?それとも、帰ってこないのかな。詩織さんの部屋に、また泊まるのかな。嫌だな。
どうして詩織さんなんだろう。あんなに綺麗で、非の打ち所のない人。巧にあんなに切なそうな顔をさせるのは、きっと詩織さんしかいない。
そのとき、鞄の中で携帯が震えて、思わずびくっとした。表示されている名前は―――梁江将郁。
「……もしもし」
『あ、由依子?ごめん、今日学校で聞き忘れてたから』
「なにか、あった?」
あたしは立ち上がると、そっと巧の部屋を出た。このまま巧の部屋にいても苦しくなるだけだから。
『今週の土曜、どうなったかなって』
ああ、そういえば―――と思い出す。テスト前に、ヤナに映画行こうって誘われてたんだっけ。気付いたらもうあさっての話だ。
「うん……」
『どうする?行ける?』
電話の向こうの、ヤナの表情を想像する。きっといま、緊張しているんだろうな。声がいつもより張り詰めているもん。きっと携帯を固く
握りしめているはずだ。
「うん……」
あたしは無意識に生返事をしていた。巧の大きな手のひらを思い出していたのだ。かすかに香水の匂いがした。おそらく、いつも巧が愛用
しているものだろう。
『そっか。よかった』
ヤナは本当に嬉しそうな声で言った。そのとき、あたしははたと気付く。さっきの生返事が、「行けるよ」と返事をしたことと同じであった
ことを。
電話の向こうのヤナに気付かれないように、あたしは静かに息を吐いた。まあ、いいか。どのみち行ったって行かなくたって、きっとなにも
変わらない。こんな気持ちで、ヤナには申し訳ないけれど、だけど―――。
一人でいたら、巧のことばかり考えてしまうから。
『じゃあ、1時に新岸浜駅で待ち合わせしよう。西改札のほうな』
「うん、わかった」
ヤナといたら楽しいし、きっと気が紛れると思うし。
『なに見るか、考えておいて。……あ、でも、恋愛モノはできれば勘弁』
あたしは軽く笑って「わかった」と答える。ヤナと恋愛映画かあ……うまく想像できない。
ヤナの声が、あたしの耳を通り過ぎていく。あたしはベッドに寝転がりながら、天井をじっと見つめる。
胸が痛い。
『じゃあまた明日な』
ヤナがそう言って、電話が切れた。知らず知らずのうちに会話が成立して、終わっていたらしい。
嫌だな、もう。気にしたって、巧はあたしのことなんて見ていないというのに。
*
6月13日土曜日は、あいにくの雨降りだった。
新岸浜駅前は、色とりどりの傘をさした人々でごった返していた。あたしはお気に入りの小花柄の傘を閉じると、新岸浜駅の西改札口
を目指した。
腕時計を見ると12時50分だった。おそらくヤナは、まだ来ていないだろう。
巧は朝から出かけていた。どこに行ったのかは知らないが、珍しくギターを持っていなかった。詩織さんと会うのかな、となんとなく
思っている。
―――巧くん、由依子とだいぶ仲良くなったみたいじゃない。
昨夜、あたしがお風呂から上がると、リビングからお母さんの声が聞こえてきた。
―――はい。なんか、妹みたいに思えてきました。俺、弟いるんで、似たような感じがします。
―――それはよかったわ。弟さん、周くん、だっけ。元気?
―――元気ですよ。生意気なんで、けっこうケンカしますけど。
―――あら、ちーちゃんも大変ねえ……。
妹みたいに、思えてきました―――。
最近優しいなって思った理由って、それだったんだ。あたしはその場に立ち尽くして、そんなことを考える。
バカだよなあ、あたし。巧があたしに恋愛感情なんてないこと、ずっと前から知っていたじゃない。巧が好きなのは、詩織さん、
ただ一人。
いくらあたしに優しくたって、それは巧が、“妹みたいに”あたしを思うようになったから―――。
「由依子!」
ふいにヤナの声がして、あたしは現実に引き戻された。声のした方を見ると、ヤナがこちらに向かって走ってくるのが見える。
「ごめん、待った?」
「そんなに。さっき来たところ」
ヤナの顔を見た瞬間、なぜか安心して力が抜けるような気がした。気を抜くと泣いてしまいそうになる。
「……由依子、具合でも悪いのか?」
あたしの顔を覗き込んで、ヤナが怪訝そうに言った。
「え、どうして?」
「泣きそうな顔してっから」
ヤナは苦笑いしながら言って、あたしの右手をぎゅっと握る。そして、「元気出せよ。雨降っててあんまりテンション上がらないかも
しれないけどさ」と続けた。
……ヤナは、優しい。その優しさについ甘えたくなって、涙が出そうになるのをぐっとこらえる。
ダメ。いまヤナに甘えたら、あたし、絶対―――ヤナに気持ちが傾いてしまう。
「とりあえず、映画、見に行こうぜ。な?」
あたしは無言で頷く。そして、二人で歩き出した。もちろん右手は、ヤナにぎゅっと握られたままで。