#19.オープニング/May 30―Live,Love Opening
 
  
 
 
 「あれ、おまえ、結局明日来んの?」
 お風呂上り、あたしがキッチンで麦茶を飲んでいると、あたしがお風呂に入っている間に帰宅したらしい巧が、思い出したふうに
訊いてきた。
 「行くって言わなかったっけ」
 「いや、言われてないわ。まあ俺、最近いなかったからな」
 巧は明日のライブの練習で忙しいらしく、最近は家に帰ってこないこともしばしばだった。
 あたしはというと、また詩織さんのところに泊まってるのかな、とか、身体壊さないかな、とか、たまに巧と顔を合わせるたびにそんな
ことばかり考えていた。
 家にいないからこそ、巧のことばかり考えてしまう。どこで何をやっているかもわからないのに。
 「で、誰と来んの」
 巧が冷蔵庫から取り出したサイダーの蓋を開ける。プシュッという音が、やたら大きく耳に響く。
 「……ヤナと、行く。前にうちにお見舞い来てた」
 「ああ、あれか。おまえの彼氏」
 ふと見ると、サイダーは半分以上減っていた。よくもこんなに短時間で、しかも一気に炭酸を飲めるよなあ、とどうでもいいことを思う。
 「だから、彼氏じゃないって」
 「ま、どうでもいいけどな。気をつけて来いよ。場所は分かるか?けっこう変わった場所にあんだけど」
 「うん」
 本当は、“KISHIHAMA Q Hall”なんて行ったことも見たこともないから、当然場所もわからない。だけどあたしの心には、巧の
「どうでもいい」という言葉が小さな棘みたいに刺さっていたから、巧に場所を訊く気にもなれなかったのだ。
 ……ま、どうせヤナが知ってるよね。バンド組むとかって言ってたし。あたしは、明日のライブをやたら楽しみにしていたヤナの嬉しそうな
顔を思い出す。
 「18時オープンで、18時半スタートだから。ま、スタートまでには来いよ」
 「わかった」
 「で、詩織から伝言なんだけど」
 詩織、という名前に無意識に脳が反応して、思わずびくっとしてしまう。やだな。あたしが詩織さんを意識する理由なんて、ないはず
……なのに。
 「明日オープニングバンドで歌うから、ぜひ由依子に見て欲しいって。ま、あいつのバンドは見ても損しねえと思うけどな。上手いのは
事実だし」
 由依子って、久しぶりに呼ばれた。ただそれだけのことで頬が熱くなって、あたしは巧の言葉にただ黙って頷く。
 「……ん、じゃあ、最初から行くね。巧のバンドは何番目?」
 「俺は3番目とラストだな。飽きたらラスト見ないで帰ってもいいから」
 巧は飲み干したサイダーのペットボトルをゴミ箱に放り投げると、「じゃ、風呂入って寝るわ。明日リハあるし」と言って、キッチンを
出て行こうとしてしまう。
 「あ、巧!」
 あたしが思わず呼び止めると、巧はゆっくりと振り返る。なんだよ、と不思議そうな表情をして。
 「あ……えっと……その、せっかくだし、ラストも見てく、と思う」
 なに詰まってんだ、あたし―――。最近本当に、巧とちゃんと喋れなくなってきているような気がする。
 「……ま、演る側としては、そっちのがありがたいけど」
 巧は満更でもなさそうな顔をして、「じゃ、明日な」とキッチンを出て行ってしまった。
 「なによ……何だかんだ言って、あたしが見に行ってあげるの、嬉しいんじゃないの」
 思わず声に出して呟いてしまう。巧はいつも不機嫌そうな顔をしているから、たまに笑ったりあんなふうに嬉しそうな顔をされると、どう
していいかわからない。
 心臓、ドキドキしてるんだけど―――なんなのよ、これ。
 あたしははあ、とため息をついて、部屋に戻ることにする。明日の服、決めとかなくちゃ。あと、ヤナにメールして、時間とか決めないと……。
 なぜかはわからないけれど、緊張している自分がいる。詩織さんのバンドも巧のバンドも見れるんだもん。ああ、楽しみなんだか憂鬱なんだか
わからないや。
 明日という一日が、あたしにとって大きな変化をもたらすように思えてならなかった。好きになっちゃだめ、そう思えば思うほど、あたしは
やっぱり巧のことばかり考えてしまう。
 
 
 
 
 「お、由依子。やっと来た」
 いつもよりもしっかりとワックスで髪を立てているヤナが、あたしに大きく手を振っている。
 「ご、ごめん……髪、ちょっと失敗しちゃって」
 5月30日、土曜日。巧のライブ当日。
 17時に新岸浜駅で待ち合わせのはずが、腕時計を見るともう17時10分を回ったところであった。一応ヤナに“遅れる”という内容の
メールはしたけれど、それでも待たせてしまったことに変わりはない。
 「ま、電車は次の乗れば間に合うけどな。髪、可愛い可愛い」
 ヤナはあたしの顔を見てにっこり笑うと、定期を出して改札をくぐり抜ける。あたしも慌ててバッグから定期を出して、ヤナのあとを追った。
 今日の髪型は、いわゆる“ゆるふわ系”って感じで、いつものあたしとは少し雰囲気が違う。肩をすこし過ぎるくらいの長さの髪を太めの
ヘアアイロンで巻いて、服もフェミニンなものでまとめた。ちょっと頑張りすぎかなって思ったけど、どうせ岸浜に遊びに行くなら、と自分で
自分を納得させた。
 ……べつに、巧のためでもヤナのためでもないもん。なんて、誰にともなく言い訳してみたりして。
 「……ほんと、可愛い、な」
 ホームで電車を待っていると、ヤナがぽつりと呟くようにそう漏らした。
 あたしは最初、ヤナが何のことを言っているのかが理解できなくて、ぽかんとしてしまった。だがすぐにその意味を理解すると、今度は顔が
熱くなって、どう返していいかわからなくて困ってしまう。
 「由依子さ、なんで今日、そんな可愛くしてきたわけ?」
 「えっ」
 「俺のため?……それとも」。
 ヤナが冗談めかして言ったその言葉の続きは、ホームに滑り込んできた電車の轟音で聞こえなかった。しかし、あたしには分かった。ヤナが
なにを言いたかったのか。
 ―――巧さんの、ため?
 聞こえなくてよかった。聞こえていたら、あたしはどう答えるのかに困ってしまっただろうから。
 きっとあたしは、どちらでもないと答えただろう。無難かつ、何の答えにもなっていない答え。それはそのままあたしの気持ちで、巧とヤナ、
どちらに惹かれているかなんてあまり考えたくない。
 「足元気をつけろよ。今日は土曜だから、すっげえ混んでるな」
 ヤナは何事もなかったかのように言う。この人はたぶん、見て見ぬ振りをするのが得意な人だ―――と思う。きっとヤナだって、あたしが答えに
詰まることくらいわかっているはずだ。
 二人で電車に乗り込む。“KISHIHAMA Q Hall”は、岸浜駅から地下鉄で3駅目だから、わりとすぐ着いてしまうそうだ。何度かそこに好きな
バンドのライブを見に行ったことがあると、ヤナが昨日言っていた。
 「岸浜着いたら、なんか食ってくか。俺、すっげえ腹減った!」
ヤナがいつものように明るく言う。その屈託のない笑顔が、なぜかあたしの胸を軽く締めつけた。
 
 
 
 
 岸浜駅でマックに寄ってから、あたしたちは“KISHIHAMA Q Hall”へ向かった。思っていたよりも規模の大きなライブハウスだったから、
あたしは「ほんとにここ?」とヤナに何度も訊く。
 「だから、R大の軽音ってけっこう有名なんだって。人数も多いし上手いし、自主制作でCD出してるバンドもあるくらいなんだから」
 「へえ……」
 ってことは、巧も詩織さんも、それなりに実力があるんだ。小さい頃に何年かピアノを習っていただけのあたしにとっては、楽器なんて全然
縁のない世界。ギターやベースが弾けるということに対して、ただただすごいなあ、という感想しか出てこない。
 「あ、お客さんお客さんー。ユースケ、ほら、お客さん来たって!」
 あたしたちが受付に近づくと、茶髪の綺麗なお姉さんが“ユースケ”と呼ばれた人の肩をばしばしと叩く。
 「いってえなあ……ちょっとは手加減しろよ。お客さん、二人?」
 ……わあ。恰好いい。
 巧みたいに整っている顔というわけではないけれど、くるっと振り向いた“ユースケ”さんは、ワイルドな感じで、巧とはまた違う種類の
“イケメン”だった。さっきのお姉さんといい、R大の軽音楽部は美形揃いなのだろうか。
 「かーわいいなあ、高校生?うちの大学志望?」
 「いや、そういうわけでは……」
 「なんだ。まあ、今日のライブは特にレベル高いから、楽しんでって。特にオープニングとラスト。もうね、圧巻だから」
 「……はい」
 オープニングとラスト―――詩織さんと巧のバンドだ。レベルの高いR大の軽音楽部の人にこうやって言われるってことは、よっぽど凄いの
だろうか。
 「へえ。オープニングとラストねえ……なに演んだろ。プログラムにはコピーバンドって書いてるけど」
 「……オープニングは、詩織さんのバンド。ラストは巧のバンドだよ」
 ライブハウス内は薄暗くて、なんだか空気が悪い。それに、うるさい。おそらくR大の軽音楽部の人たちだろうけど、あちこちで煙草を
吸ったり大きな声で話をしている。お客さんと見られる人たちも何人かいるけれど、あたしたちみたいな高校生は、いない。大人ばかりだ。
 「詩織さんって?」
 「あ……えっと、巧の……彼女、かな……?」
 「ふーん」
 ヤナが興味なさげに相槌を打つ。あたしは周りをきょろきょろと見回してみるけれど、巧の姿も詩織さんの姿も見当たらない。もうすぐ
始まるから、もしかしたら詩織さんはスタンバイしているのかもしれない。
 「巧さん、何番目に出んの?」
 「3番目とラストかな」
 ふいに、周囲のざわめきが止んだ。ぴりっとした空気が伝わってきて、ああ始まるんだと分かる。あたしの隣に立っている女の人が、
「最初、詩織のバンドでしょ?すごーい、見るの楽しみ」と喋っていた。それを聞いて、なんだかあたしまでどきどきしてくる。
 
 ステージに人影が現れると、会場にいた人たちはいっせいに沸き立った。ステージ上はまだ暗いけれど、真ん中に立ったボーカルの
女性は、他の人とは明らかに違う存在感を際立たせていて、ああ詩織さんだ、とすぐにわかった。
 ステージのライトがパッと明るくなるのと同時に、演奏が始まった。詩織さんのボーカルと、キーボードの静かだけれど力強い音が
目立っている。サビに入るとギターの音が強くなったけれど、それでも詩織さんのボーカルは負けていない。それどころか、ギターの
音よりも詩織さんのボーカルのほうがずっと大きい存在感を放っていた。
 ―――凄い……。
 それしか言えなかった。隣に立っているヤナも、ぽかんとしたような表情でステージ上を見つめている。きっとヤナも、あたしと同じ
感想しか言えないだろう。
 凄い、凄い、凄い……。声も歌唱力も存在感も、全て。あの細い身体のどこから、あんな声が出てくるのだろう。とても素人の、大学の
軽音楽部のレベルとは思えなかった。
 気が付いたら曲は2曲目に入っていた。あ、これ、知ってる。1曲目とはまた違う雰囲気の、わりと有名な曲だった。これもまた、凄い。
さっきの曲とはがらっと雰囲気を変えて歌っているのがわかる。
 詩織さんはギターを持っていないから、両手でマイクを握って歌っている。ステージのライトがちょうど詩織さんの後ろから当たって
いて、その光がまた、詩織さんを特別なものに見せている。
 ほんと、綺麗なひと……。
 全ての演奏が終わるまで、あたしは詩織さんから一度も目を逸らすことができなかった。ふと我に返ったのは、周りから盛大な拍手の
音が聞こえてきたときであった。
 
 「……や、すげえなあ」
 「うん……」
 「凄い美人だし、凄い声だし、凄い歌唱力だし。あの人何者だよ」
 詩織さんのバンドが演奏を終えると、ヤナは興奮冷めやらぬといった感じで喋り始めた。「いや、ほんとに凄い。マジで。そこら辺の
インディーズバンドよりずっとすげえよ、あれ」。ヤナの言葉は耳から耳を通り抜けて、どこか遠いところに行ってしまう。それでも
相槌だけは打っていた。
 ―――巧の彼女は、あの人なんだ。
 本当に本当に凄い人。きっと誰も、あの人には、勝てない……。
 「由依子?」
 ヤナの声にはっとする。あたし今、何を考えてた?
 「……どうしたんだよ。泣きそうな顔、してる……」
 ヤナの声が少し震えていた。表情はわからない。ああ、薄暗くて良かった。あたしは今、どんな顔をしているだろう。だいたい想像が
つくから、絶対に見られたくない。
 2番目のバンドの演奏が始まる。ああ、次は巧のバンドだ、と―――あたしはヤナに「なんでもない」と返しながら、そんなことを考えていた。
 
 
 
 
 
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