#18.未来/Shall we go to the “Live”?
*
「俺が売りつけたいのは、これなんだけど」
そう言って巧が鞄から取り出したのは、2枚の小さな色紙だった。名刺くらいの大きさで、材質は色画用紙のようにざらざらしている。
文字はどうやら手書きのようだ。
「……これが、プラチナチケット?」
「いや、さすがにプラチナチケットは言い過ぎた。でもとにかく、俺は由依子にこれを買ってもらいたい」
巧がその“プラチナチケット”なるものを強引に押し付けてきたので、あたしは渋々それを受け取る。名刺サイズの黄色い紙には、綺麗
とは言い難い筆跡で“R大学軽音楽部 春のバンド合戦”と大きく書かれていた。
「……巧の大学の軽音の、ライブ?」
「まあ、平たく言うと、そういうことになる」
平たく言わなくたってそうでしょ―――あたしは心の中で呟いて、そのチケットをもっとまじまじ見てみる。
“5月30日(雨天決行)”、“会場・KISHIHAMA Q Hall”、“チケット代・¥500(ドリンク代別途¥500)”、“出演バンド・
logが未だにわかりません、ミスタードーナツ、drop☆out、ナルコレプシー etc...”
「大学生って……」
あたしの口からは、思わずそんな言葉が零れてしまった。バンド名、こんなんでいいのか?“logが未だにわかりません”とか、バンド名と
して通用するわけ?思わずそう突っ込みたくなってしまう。
「いや、なんかふざけてるみたいに思えるけど、俺ら真剣だから。先輩たちのバンドとか、ほんとすごいし」
そう言われても、このチケットからは真剣さの欠片も感じられない。
「マジで困ってんだって。一人ノルマ10枚でさ、あと2枚売れば終わりなんだよ。来ても来なくてもいいから――そりゃ、来てくれたら
嬉しいけど。とりあえず、おまえに2枚売りつけたいわけなんだよ!」
「……はあ」
もう、ため息しか出ない。あたしは真剣に力説している巧から目を逸らして、もう一度、その“プラチナ・チケット”とやらを見てみた。
「どうだ?いや、500円で高いってなら、1枚300円にしてもいいぞ?んで、もう1枚を誰かに売れよ。で、そいつと一緒に来い」
……そんな、無茶苦茶な。だいたい、大学の軽音楽部のライブを一緒に見に行く友達なんて、あいこくらいしか思いつかないし。
「頼むよ、残ってんのおまえだけなんだよ。俺を助けると思って。ほら、じゃあ俺、当分朝メシ作るし」
そういう問題じゃないんだけどな。そうは思いつつも、こんなに困ってるんだし、買ってあげてもいいか、という気もしてきてしまう。
「由依子。な、いいだろ?この俺が、こんなに頼み込んでんだから。あ、俺のサークルの友達のイケメン、紹介してやろうか?」
「……ごめん、それはいらない」
こいつはいったい、あたしをなんだと思っているのだ。あんたに紹介してもらわなくたって、彼氏なんて自力で作ります―――その言葉を
飲み込んで、あたしは「べつに買ってあげてもいいけど」と小さい声で言った。
「え、マジで?」
「300円にしてくれるんでしょ?まだ2週間以上先の話だから、誰か誘ってみる」
「マジで?……ヤバい俺、由依子のこと、初めて可愛いと思った」
可愛い、という響きに少しドキッとしながらも、あたしはそれを悟られないように努力する。
「……買うの、やめてもいいけど」
「いや、嘘!……あ、嘘ではないけど……。どっちでもいいから、とりあえず買ってくれ」
どこまで失礼なやつなんだ、この男は。あたしは苦笑しながら鞄から財布を取り出して、巧に600円ちょうどを渡した。巧は「いや、
本当に助かった。サンキュー」と言って、あたしに名刺サイズの黄色い紙を2枚、手渡してくれた。
「よし、これで先輩に怒られないで済む。んじゃ、俺、寝るわ」
「それは良かったね。じゃ、おやすみ」
あたしは巧とのやり取りでなんだか疲れてしまって、英語の予習を中断して寝ることにする。英語の教科書やらノートやらを鞄にしまおう
とした―――そのとき。
「……あ、由依子。おまえ、最近、詩織に会った?」
「え……」
どきっとする。突然詩織さんの名前が出てきたということにも、さっきとは打って変わって真剣になった、巧の表情にも。
「いや、詩織が……由依子ちゃんってやっぱり可愛いわねー、って言ってたから、会ったのかと思って」
―――巧のこと、好きになっちゃ駄目だからね。
詩織さんの言葉を思い出す。やだ、やっと忘れかけてたのに。鮮明に蘇る、そのときの詩織さんの表情や口調は、思い出すたびにあたしを
ひやっとさせる。
「会った……けど、岸浜駅でばったり会って、挨拶しただけ……」
声が少しだけ掠れてしまった。巧、変に思ってないだろうか。それにしても―――どうして嘘なんかついてるんだろう、あたし。
「そうか。詩織、おまえのこと、なぜか気に入ってるみたいだぞ。今度3人で飲もう、なんて、ふざけたこと言ってた」
それだけを言い残して、巧はあたしの部屋を出て行ってしまう。あたしの反応などなにも必要としていない、ただの呟きのようだ。
……なんで寝る前に、あんなこと言うのよ。あたしの手は、英語の教科書を持ったまま止まっている。なぜか嘘をついてしまった自分。
あたしの話をしている詩織さん。詩織さんがあたしの話をすることについて、巧はどう思っているのだろう?
無意識のうちに、机の上に置かれた黄色い紙に目がいった。巧の大学の軽音楽部のライブ。……っていうことは、詩織さんも出演するのだろうか。
きっとすごく歌が上手なのだろう、と想像する。あの印象的な声で、聴いている人の耳をくすぐるような声で、いったいどんな歌を歌うのだろう。
……あーあ、嫌だなあ、もう。できたら詩織さんとは関わりたくないし、巧と詩織さんの関係についても、興味を持たないままでいたいのに。
なぜか、そう、本当になぜか―――気になってしまう。詩織さんにああして釘を刺されたら、なおさら。
*
「ごめん、あたしその日、親戚の結婚式」
「そっかあ……」
次の日、さっそくあいこをライブに誘ってみたのだが、あえなく玉砕してしまった。
「R大の軽音部だったら、ちょっと見てみたかったけどね。結構すごいんでしょ?」
「よくわかんないけど……。昨日の夜、巧に売りつけられて」
「へえ。由依子、一人で行ってみたら?」
「嫌に決まってんでしょ。大学の軽音部だよ?すっごい怖そうだし、絶対一人では行きたくない」
……なんて断言してみたはいいものの、あいこ以外に、ライブに誘うほど親しい友達なんていないしなあ。
巧はとりあえず、ノルマ分のチケットを売り終えればいいわけだったのだから、あたしがライブに行かなくたって大した気にはしない
だろう。巧がライブに来て欲しいと言ったのではない。あたしが、巧のライブに行きたいのだ。
なんで?って訊かれると困るんだけど。さして理由も思い浮かばないし、強いて言うなら「興味がある」っていうだけだもの。
「じゃ、用心棒でも連れてったら」
「はい?」
「あそこにいるじゃない、ちょうどいいのが」
そう言ってあいこが指差したのは、いつも通り男子とじゃれあっている―――ヤナ。
「なに言ってんのよ。どうしてあたしがヤナと、巧のライブに」
「いいじゃない。巧さんと梁江、一回会ってるんでしょ?面白いじゃん、それはそれで」
「面白くないでしょ、まったく」
「ねえ由依子。あたしはね、由依子の意思を一番に尊重するわよ。だけどね、由依子と梁江をくっつける手助けくらいはしたいと思ってるわけ」
「……あいこさん、ちなみに訊きますけど、あたしとヤナをくっつけるっていう発想はどこから」
「それは訊かないで」
あいこはビシッと言って、「だって、このままだとあんた、イケメンのほうに行っちゃうでしょ」と信じられないようなことを口にした。
「えっ」
「だいたいあたしは、イケメンのライブに行くのもあんまり賛成してないんだからね。彼女いる男を好きになったって、泣くのは由依子だよ」
「ちょっと待って、あたしがいつ巧を好きだって……」
「言ってないけど、あたしにはわかるんだからね。何年友達やってると思ってんの」
あいこは怒ったように一気に捲くし立てると、ふうとため息をついた。
「巧さんと梁江、どっちのことも気になってるのはいいよ。だけど巧さんを選んだら、困るのは由依子。ヤナのことを好きになれば、
絶対、幸せになれると思う」
あいこはそう言ったあと、無理強いはしないけど、とぼそりと付け足した。
見透かされてる―――?そう思うと、鼓動が速くなってきた。まったくわかっていない自分の気持ちが、あいこにはわかってるの?あたしが、
巧を好きになるって?
混乱する。詩織さんにもあいこにも、どうして“あたしが巧を好きになる未来”が見えてるのだろう。あたしは自分自身のことが全然わから
ないのに。ヤナを選ぶ未来も、巧とヤナを選ばないっていう未来もないの?あたしはやっぱり、巧を―――。
「……なんて言っても、やっぱりあたしは、梁江を応援してるんだけどね」
あいこは呟くと、おもむろに立ち上がって、男子とじゃれあっているヤナにどんどん近づいていく。「ちょっと梁江、これあげる」「え?
皆瀬?なにこれ」「いいから」……そんな会話が聞こえる。
「R大学軽音楽部、春のバンド合戦……?」
不思議そうに呟いたヤナの声が耳に届いて、あたしは慌てて手元のチケットに目をやった。2枚あるはずのチケットが、1枚しかない。
「ちょっと、あいこ……」
「それ、由依子のイケメン同居人が入ってる軽音部のライブだって。由依子と行ってきたら」
あいこが挑戦的な態度でヤナにそう言ったのに対し、ヤナは目を丸くしながら「えっ、あのイケメンの?すげえ、イケメンがバンドやって
んの?」と、なんとも的外れなことを言っている。
「由依子、ぜひ梁江にって言ってたよ」
……あいこのやつ!
あたしは思わず立ち上がってしまう。だけど立ち上がったところで、なんて言っていいのかわからない。
「……由依子、これ、いいの?」
梁江が驚いたような表情であたしを見ている。その表情には少しだけ喜びも混じっているような気が……しなくも、ないような……。
「いい、っていうか……」
ここで良くないって言うわけにもいかないでしょ。あたしは心の中でそう呟く。
「いや俺、バンドとかちょっと興味あって、松山たちと組むかって、ちょうど言ってたところで」
「あ、そうなの……」
「だから、行きたいかも。その、勉強になりそうだし」
ここであたしは、自分たちがいかに教室のど真ん中で会話をしているかに気づく。周りを見渡してみれば、教室にいる人たちはほとんど
みんな、あたしとヤナの顔を不思議そうな表情で見比べているのだ。
……ここで「だめ!」なんて言ったら、いくらなんでも、ヤナがかわいそうだし。
「うん……」
あたしは無理やり笑みを作って、力なく頷いてみせる。やっぱりヤナは、嬉しそうだった。
*
「ちょっとあいこ、どういうつもり!」
帰り道、あたしはあいこを睨み付けながら怒っている。どういうつもりかはなんとなくわかるけれど、それにしたって、ちょっとやりすぎだ。
「どういうつもりって、梁江に一緒に行ってもらいたかったんだもん」
あいこはチュッパチャップスを舐めながら、涼しい顔をしてそう答える。
「それにしたって、ちょっと強引じゃない?」
「たまには強引にいかないと。由依子って案外悩むほうじゃない?」
ね、と言われて、あたしは一瞬言葉に詰まってしまう。それはそうかもしれないけど、それが今回のことと、どう関係しているというのか。
「由依子、自分の幸せを一番に考えて」
少し黙ってから、あいこがゆっくりと口を開いた。
「いいよ、別に。由依子が巧さんのことを好きなら、それで。だけど、今なら戻れるでしょ?巧さんとヤナ、どっちも気になってる段階
なんだから。戻れるなら戻って欲しい。あたし、由依子にはもう、泣いてほしくないもん」
あいこの言葉に、どう返していいのかわからない。あいこはあいこなりに、あたしのことを考えてくれているのだ。
「梁江、本当に由依子のこと、好きだよ。絶対幸せにしてくれると思う」
気づいている。あいこは、あたしが巧のことをいつも気にしていること、わかってる。
そして、このままだと、あたしがどんどん巧に惹かれていってしまうってことも―――。
「梁江を選んでとは言わない。でも、梁江を見てって、それだけは言いたい」
あいこはそう言ってあたしに笑ってみせると、「そういえば、今日の2時間目のさ……」と違う話題を持ち出した。今日はもう、この
話題はおしまいらしい。
巧を選ぶ未来。ヤナを選ぶ未来。どちらも選ばない未来。
どちらにより惹かれているかなんて、そんなことは考えたくない。だけど―――。
自分の未来が、少しずつ転がり始めているということに―――あたしはこのとき、図らずとも気づくことになってしまったのだ。