#20.Sweetless
 
 
 
 
 『えーっと……このバンド名言うの、恥ずかしいんすけど』
 マイクを通した巧の声は、なんだかいつもと違って聞こえた。低くて耳に心地よい声が、マイクによってなんだか増幅されているような。
 『だってお前が言ったんだろ!俺数学はできるんすけどー、logだけは苦手なんすよねーって』
 『ちょっ、それ言わないで下さいって!』
 ステージ上で繰り広げられる巧と先輩らしきベーシストの会話は、R大軽音楽部の人たちにはウケているようであった。でも、正直言って、
あたしやヤナみたいな部外者には全然意味が分からない。
 ……なんか、いつもと全然違う感じ。別人、みたい。
 服装も髪型もいつもと変わらないのに、ステージ上に立っている巧はあたしのまったく知らない人みたいだった。バンドのメンバーの
人たちと比べても圧倒的な存在感を放っている巧は、先ほど見た詩織さんを思わせる。やっぱり似たもの同士って惹かれるのかな……なんて、
どうでもいいか。
 『……初めまして。“logが未だにわかりません”ってバンドです。ライブ初参戦です。どうぞよろしく!』
 巧がそう言ったのを合図にしたかのように、演奏が始まった。底から響くようなドラムの音に、巧の奏でる静かなギター。こうしてギターを
持っていると、巧、本当にサマになってるな……。薄暗いステージ上でライトを浴びている巧の姿に、あたしは思わず見惚れてしまいそうに
なった。
 それに、歌声がいつもの声と全然違う。いつもは低めなのに、今はいつもより少し高くて掠れたような、特徴的な声。歌も上手だし、凄いな、
恰好いいな……。
 サビに入ると、会場の人たちが一気に沸き立った。周りが手拍子を始めたので、あたしとヤナもなんとなくつられて手拍子をする。身体が
いつの間にかリズムに乗っていることに気付いたのは間奏に入ってからで、それくらい、あたしはステージ上の巧に釘付けになってしまって
いたのだ。
 
 『……ハイ、とりあえず1曲目でした。俺、超このバンド好きなんで、みんなにも楽しんで聴いて貰えたら嬉しいです。そしたら、2曲目
聴いてください!』
 1曲目が終わると巧がまだ息の整っていない声で一気に喋り、それからまたすぐ2曲目が始まった。1曲目とは打って変わったロック
ナンバーで、周りの手拍子がさっきよりも速い。
 「巧最高!超かっこいーよー!」
 あたしの隣に立っていた女の人が、大きな声で叫ぶ。すると巧はこっちを見て、にっこり笑いながら指で拳銃を作って撃つ真似をした。
あたしに向けてしたわけじゃないけれど、これは……うん、なんだかドキドキしちゃうなあ。恰好いい人がああいうことすると、本当に
サマになるのね。
 「超かっこいいじゃん、巧さん。芸能人みたい」
 ヤナがあたしにそう耳打ちする。あたしはステージ上の巧から一瞬でも目を離すのがなぜだか怖くて、ヤナの顔を見ずに「うん」と
だけ答えた。
 それから巧はノンストップで3曲目、4曲目を歌い終えて、そのバンドは演奏を終えた。あたしはステージ上から巧が消えた後もしばらく
ぼーっとしてしまって、ヤナに肩をとんとんと叩かれても最初は気付かなかった。
 「やっばいなー、巧さん。すっげえ良かった。あのバンド、超俺の好みだわ」
 「そっかあ……」
 「俺、ちょっと話しかけてこよーっと」
 今日、このライブ会場に来てからずっと緊張していたみたいだけれど、ここに来てやっとヤナの社交性が発揮されそうだ。
 ステージを下りた巧にさっそく話しかけに行ったヤナを横目に、一人残されてしまったあたしは所在なげに周りをきょろきょろと見回して
みる。
 「あれ、由依子ちゃん?」
 聞き覚えのある声がして振り返ると、そこには詩織さんが立っていた。先ほどのオープニングバンドでの存在感を見せられたあとだった
から、あたしは思わず身を竦ませてしまう。
 だが詩織さんはそんなあたしの様子には当然気付くはずもなく、「ね、オープニングから来てくれてたでしょ?見かけたんだけどね、準備
とかあって声掛けれなかったの」と嬉しそうに言った。
 「あ、あの……」
 「巧、凄く良かったでしょ?正直言って、原曲よりいいかも、なんてね。巧って顔も恰好いいし歌も上手いから、本当にサマになっちゃう
んだよね」
 「あ、はい……」
 「最後の曲とか、好きよ、わたし。一番巧にぴったりなのよねえ。たぶん本人も、それ分かってて選曲したんだろうけど」
 「あ、あのっ!詩織さんも、すっごく、すっごくよかったです!」
 やだ、思ったより大きい声出ちゃった。周りにいる人たちがあたしをじろじろと見ている。「なに、詩織の知り合い?」「高校生?」……
などなど。やっぱり詩織さんはここでも注目の的なんだろうな、ということが分かる。
 「ありがと。……あ、クミちゃん。この子ね、巧の従姉妹の子なの。ジュースかなんか出してあげて」
 あたしに向けてにっこりと綺麗に微笑むと、詩織さんはちょうど横を通った“クミちゃん”と呼ばれた女の人にそう言った。その人は
「あ、はい。高校生ですか?じゃ、酒はマズいですよねえ」と笑いながら言って、会場を出て行ってしまう。
 「……詩織さん、あの」
 「あ、ごめんね。従姉妹なんて言って。同居してるなんて言ったら、変な誤解を生むかなって思って。巧、ただでさえキャーキャー言われ
てるし、ここの人たち、噂好きだから」
 詩織さんが悪戯っぽく笑う。そう言われては、もう黙るしかない。
 「ね、一緒に来てる男の子、彼氏?」
 「えっ」
 「巧と意気投合したみたいよ。なんだか可愛い男の子ね」
 詩織さんはすっかり話し込んでしまっている巧とヤナを指差して、くすくすと笑う。見ると、ヤナがなにかを熱心に語っており、巧がその
相手をしている、という感じだ。
 「あの……彼氏じゃ、ないです」
 「あら、そうなの?一緒に来たから、てっきりそうかと思ってた。ちょっと安心したのになー」
 詩織さんの穏やかな口調に、かすかな棘を感じた。なんなのだろう、と思ってなにも答えないでいると、「やだなあ、冗談だってば、冗談」
と詩織さんが笑う。
 「なんでも真に受けちゃだめよ。まあ、それがきっと、由依子ちゃんのいいところなんだろうけどね」
 巧、打ち上げで遅くなると思う。もし終電逃したらうちに泊まってもらうから、心配しないでってお母さんに言っておいてね。詩織さんは
そう言うと、「そろそろスタンバイしなくちゃいけないから、またね。ラスト、巧のバンドだから、見てってね」と付け加えて、人波に消えて
しまった。
 「えっと、巧くんの従姉妹ちゃん?ハイこれ、彼氏さんの分も」
 さっきの“クミさん”が、紙コップに入ったオレンジジュースを2つ持ってきてくれた。あたしは「ありがとうございます」と頭を下げて、
すっかり巧と話し込んでいるヤナのところに向かう。
 
 「おう由依子、来てくれてサンキュな」
 巧はあたしを見つけると、片手を挙げて挨拶してくれた。それからすぐにヤナのほうに視線を戻して、「だから最高だよ、早くニューシングル
出ないかなって思ってんだけど」と言う。さっきのバンドの話だろうか。
 「いや、マジ最高です。アルバム買って聴いてみます」
 「俺も聴いてみるわ、そのバンド。知らなかったなー、そんなに良かったなんて」
 ……あたしには分からない世界があるらしい。なんだか巧とヤナが仲良くしている光景って、複雑だな……。あたしはそう思いながら、
「さっき、軽音の人がくれた」とヤナにジュースを手渡した。
 「ラストのバンド、さっきのとはちょっと雰囲気違うけど、是非聴いてって」
 「はい、もちろんです!なに演るんすか?」
 「見てからのお楽しみ」
 巧は壁に立て掛けてあった黒いギターケースを背負うと、あたしの頭をくしゃっと撫でて「おまえも、ラストまでいろよ」と言って笑った。
 「……うん」
 「んじゃ俺、ちょっとメシ食ってくっから。あとでな」
 巧が出口に向かって歩いていく。遠ざかっていく巧の後ろ姿を、無意識に見つめる。なんだか息が詰まりそうになって、大きく深呼吸した。
身体に悪そうな空気を目一杯吸い込むと、ふうと大きく息をついた。
 ―――恰好いい。
 ギターを背負った大きな背中。さっきあたしの頭に乗せた手のひらは、いったいどれくらいの大きさなのだろう?少し下げたジーンズに、
長袖のTシャツの袖をまくって、シルバーのアクセサリーを腕につけていた。何でもないようなことが、たぶん、巧の格好良さを引き立てて
いるのだろう、と思う。
 「……子、由依子!」
 「えっ」
 「おまえ、いつまでボーッとしてんだよ。大丈夫か?空気悪いから、いったん外出るか?」
 「え……と……」
 「ごめんな、一人にして。巧さんと曲の趣味、すっげえ合っちゃってさ」
 「ううん……。ちょっと、外出ようかな。ラストまでまだ時間あるし」
 「だな」
 ヤナは頷くと、人混みのライブハウスの中を出口に向かって歩き出す。ヤナの背中。巧より小さい。当たり前だ。身長だって、巧よりは
随分と低い。細身なのに意外と筋肉質の身体は、部活で鍛えたからだと前に言っていた。
 「……由依子?」
 「あ、ごめん。いま行く」
 「バカ、あんま見惚れてんじゃねーぞ」
 ヤナはニヤッと意地悪っぽく笑うと、あたしの手を取って再びスタスタと歩き出す。前に手を繋いだときよりも違和感があったけれど、
その手を振りほどくことはできなかった。
 
 
 
 
 ラストの1曲目は、穏やかなギターから始まった。
 さっきのバンドとは違って、歌詞のひとつひとつを噛み締めるように歌う巧がとても印象的だった。1曲目はギターを使わないからで
あろう、巧のレスポール・ギター――その名前はヤナが教えてくれた――は、スタンドに立て掛けてある。
 会場にいる人たちは、マイクを両手で握ってまっすぐ前を見て歌う巧から目が離せない。もちろん、あたしもその中の一人だ。
 1曲目が終わると、静かな拍手が巻き起こった。大切な曲を、大切に歌ったのだと思う。
 おそらく、1年生ボーカルのバンドがラストを飾るなんて異例なのだろう。中学でも高校でも、1年生というのはとにかく後回しに
されてしまう。しかし巧のバンドがラストを任されたというのは、おそらく周りからの期待や信頼があってのことで、いまここにいる巧は、
確かに誰よりも会場の人たちを惹きつけていた。
 2曲目はポップスのような明るい曲だったので、手拍子が入ったり掛け声が入ったりと盛り上がった。
 「……この曲も、ギター使わないんだな。このバンドのときは、歌に集中してんだ、巧さん」
 ヤナが独り言のようにぽつりと言う。確かに、さっきのバンドも凄く良かった。だけどこのバンドは、良いとか良くないとかそんなの
じゃなくて……なんていうか、確かに伝わってくるものがあるのだ。うまく言葉には出来ないけれど、巧はきっと、この曲を歌うことに
よって伝えたいなにかがあるのだろうな、そう思わせるものが。
 
 『……ラストを飾らして頂きます、“無名バンド”です。まあ、めちゃめちゃ緊張してます。頑張ります』
 巧の声は、確かにさっきよりも上擦っていた。かすかに震えているような気もする。
 それを汲み取ったのか、軽音の人たちは「イケメン来たー!」「待ってました!」「そろそろ名前付けてやれよ、このバンド!」など、
冗談を言って巧たち“無名バンド”を笑わせている。
 『えっと……このバンドは、俺が軽音入ったら絶対組もうって思ってたバンドです。俺がギター始めるきっかけになったバンドなので、
まあ、なにか嫌なことがあったらいっつもこのバンドの曲弾いてます』
 巧の喉が動いているのが見える。何度も何度も唾を 飲み込んでいるのだ、きっと。相当緊張しているらしい。
 『それくらい、好きです。でも、俺ら……ってか主に俺の、拙い演奏を聴いてくれるみなさんのほうが、もっと好きです』
 巧が言うと、「俺も好きだぞー」「一日でいいからおまえになりたいぞー」という声が飛び交って、あたしは思わず笑ってしまった。
周りの人たちに愛されてるんだなあ、巧。
 『で……まあ、いろいろ考えた結果、割と大人しめの選曲になってしまいました。全部俺の大好きな曲です。それでは3曲目、聴いて
ください』
 ドラムから始まったその曲は、歌い出しからあたしの胸を熱くさせた。有名な曲だったので、あたしでも知っている。いい曲だとは
思っていたけれど、巧が歌うと、格段にいい曲に聴こえた。
 なにか特別な思い入れがあるのだろうか。大切に大切に、なにかを包み込むように歌っている―――と思う。涙が出てきそうになって、
慌てて手の甲で抑えた。
 
 4曲目―――ラストの1曲を無事歌い終えると、巧は会場の人たちに向かって深々と頭を下げた。あたしは喉が熱くて、目頭も熱くて、
なぜか出てきそうな涙を堪えるのに精一杯で、巧の姿をまっすぐ見ることが出来なかった。
 ―――なんて、素敵……なんだろう。
 陳腐な表現しか浮かばない自分が恨めしい。伝えたい。ちゃんと言葉にして伝えたい気持ちがあるのに、どうやって伝えればいいのかも、
誰に伝えればいいのかもわからない。
 甘くてほろ苦い感情が、心の底から湧き上がる。あたしはこの感情を知っている。胸をちくちく刺すこの痛み。頬の熱さ。まっすぐ巧の
目を見れない、理由―――。
 少し掠れたような特徴的な声が、まだ耳に残っている。あたしはぎゅっと目を閉じた。そして、確信する。
 ああ、あたしは、巧のことが好きなんだ―――と。
 
 
 
 
 
 
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