#17.プラチナ・チケット
 
 
 
 
 「で、彼氏はいつ帰ったんだよ」
 夕飯ができた、と巧に起こされたのは、午後6時半を回ったころであった。一日中寝ていたせいかだいぶ具合も良くなったので、
夕飯はリビングで食べることにした。
 「え?」
 「だから、おまえの彼氏だよ。俺、帰ったの全然気づかなかったし」
 ……やっぱヤナのこと、あたしの彼氏だって勘違いしてる。あたしは巧の作ってくれた煮込みうどん――人参やらほうれん草やらが
大量に入っていて、とても身体に良さそうだ――を啜りながら、「だから違うって」と非難するように言った。
 「だから照れんなって。だいたい、彼氏でもねえ男が一人で見舞いに来るわけないだろ」
 「……家近いから、プリントとか持ってきてくれただけだって。本当にただのクラスメイトだし」
 「ふーん」
 彼氏でもない男が一人で見舞いに来るわけない、か……。あたしはお花見の日のあいこの言葉を思い出す。あたしにとって、ヤナは
ただのクラスメイト。ヤナにとっても、あたしはただのクラスメイト。中学時代みたいな仲に戻ったのは最近だし、お互い恋愛感情なんて
持っていない。……うーん、本当に?
 「余計なお世話かもしんないけど、彼氏でもねえ男を簡単に部屋に入れんなよ」
 ヤナと自分の関係について自問自答していたあたしの耳に、巧の声が鋭く飛び込んできた。さっきとは打って変わって冷たい声に、
あたしはひやりとする。
 「……だから、ただのクラスメイトだって」
 「ただのクラスメイトを部屋に入れた挙句、ベッドなんかに座らせんなって言ってんの。俺が帰ってこなかったら、おまえ、襲われて
たんじゃねえの?」
 「ちょっ……」
 巧の突拍子もない言葉に、あたしは危うくうどんを喉に詰まらせるところだった。
 「男ってそう生き物だからな。いくらおまえみたいに色気のない女でも、さっきみたいな状況だったら危ねえぞ」
 ……ちょっと、失礼じゃない?いや、ちょっとじゃない。かなり失礼だ。しかも、この言い方だと、あたしだけじゃなくてヤナのことも
非難してるようじゃない。
 「あのね。ヤナはそんな人じゃないし、だいたい、あたしのことだってそういうふうに見てないし」
 「だから、そういうのがまずいんだって。おまえは恋愛経験ないからわからねえだろうけど」
 巧のそのセリフにカチンと来て、あたしは思わず「アンタと一緒にしないでよ」と口走っていた。そのときあたしは、一度だけ聞いて
しまった巧と詩織さんの電話の内容を思い出していたのである。
 「……は?」
 「巧だって……詩織さんの家に泊まったりしてるでしょ。付き合ってもないのに」
 ―――馬鹿か。……んなにおまえのこと、何度も抱けるかよ。
 苦しげな巧の声。巧を好きになっちゃ駄目だからねと言った詩織さんの声。二つか三つ年上なくらいで、なによ、偉そうに。確かに
あたしは恋愛経験がほとんどないけれど、ここまで言わなくたっていいじゃない!
 「……俺のことは関係ねえだろ」
 「そうかもしれないけど、なにも、そこまで言うことないでしょ。あたしは確かに恋愛経験もないし色気もないけど、ヤナのことまで
悪く言わないでよ」
 一気に言い終えて、つい最近まで大嫌いだったヤナの弁護をしている自分に驚いた。真っ赤に腫れているだろうあたしの喉は、じんじん
痛んでいる。
 「あーハイハイ、悪かったよ。好きな男のことけなされたら、誰だって怒るよなあ」
 巧は馬鹿にしたようにフッと笑うと、「じゃあ俺、風呂入れてくるから。食器、そのままにしといていいぞ」と立ち上がって、お風呂場に
消えてしまった。
 
 ―――なによ。なんであんなにあたしのこと、馬鹿にすんのよ。
 頭がズキズキと痛む。ああやだ、また熱が上がってきたみたい。なにかを考えようとすればするほど、頭の中がぼんやりと霞みがかって
いく。
 ……最悪。巧なんて、やっぱり顔がいいだけの男だって。ほんと、性格悪いんだから。
 あたしは巧になにも言わずにリビングを出て、ゆっくりと階段を上っていった。その間に、ふとしたことに気づいてしまう。
 さっきの巧の表情。あたしが詩織さんの話題を出しただけで、すぐに曇ってしまった巧の表情だ。
 ―――どんだけ敏感なのよ。っていうか、なんで付き合ってないのよ。両想いなのに。お互い惹かれあっているくせに。
 巧と詩織さんが両想い、ということに、なぜかあたしは違和感を覚えてしまう。事実は文字通りなのにも関わらず、だ。
 やっぱりあの二人、わけわかんない。あたしには全然理解できないもん。付き合っていない理由も、付き合っていないのにそういうことを
できるっていう理由も。
 ……馬鹿らしい。こんなこと考えてないで、さっさと寝よう。明日はちゃんと学校、行かないと……。
 熱があるのでお風呂に入るのはあきらめて、明日の朝にシャワーを浴びることにする。頭の中がさらにぼうっとしてきて、あたしは布団に
入るとすぐに眠りに落ちてしまった。
 
 
 
 
 『由依子へ 朝メシ作っといた 先行く 今日は遅い 巧』
 なにかの暗号ですか?と突っ込みたくなるこの文面。雑だけれど端正なその文字は、紛れもなく巧の書いたものである。
 いまは朝の6時20分だ。巧、何時に出たわけ?もしかして始発かな。珍しいな、こんなに朝早く出てくなんて。
 昼間あんなに寝たにも関わらず、昨夜も熟睡できた。そのおかげか、身体はすっかり軽くなっている。目が覚めてすぐに熱を測った
けれど、36度5分まで下がっていた。
 キッチンを覗くと、お味噌汁の入っているお鍋と、だし巻き卵と焼き鮭がそれぞれ3人分用意されていた。意外にマメなんだよなあ、
こういうところ。自分の部屋はあんなにぐちゃぐちゃなくせに、食器の片付けとかはきちんとやるし。ますますわけのわからない男だ。
 はあ、とため息をつきながら、あたしはお味噌汁を沸かす。食卓テーブルに目をやると、さっきの巧のメモが目についた。捨てることを
なぜか躊躇ってしまって、あたしはそれをそのままパジャマの胸ポケットに突っ込む。 
 今日も遅いんだ。夕飯はどうするんだろう。食べてくるのかな。なにか作っておいたほうがいいのかな。……って、巧のことなんか
どうだっていいんだってば。早くご飯食べて、支度しないと。
 まだまだ痛みが残る喉に、お味噌汁を流し込む。今日は英語の小テストだったな、なんて他愛もないことを考えながら。
 
 
 
 
 「あ、由依子!もう大丈夫なの?」
 「うん。昨日メールありがとね」
 教室に入ると、あいこが心配そうな顔で真っ先にあたしに駆け寄ってきた。
 「熱下がった?まだ声、ちょっと変だけど」
 「うん、熱は下がったから大丈夫だよ」
 「よかったあ。昨日、本当はあたしが由依子の家に行きたかったのに、プリントとか全部梁江に取られちゃってさ」
 あいこが冗談ぽく言って、ふいに声を顰める。「んで、どうだったの?梁江、部屋まで来たの?それとも、玄関で追い返した?」
 思わず教室の中を見回したけれど、ヤナはまだ来ていない。あたしはほっとして、小さな声で「一応、部屋まで来たけど」とあいこに言う。
 「え?!うそっ。ね、なにもなかったの?!」
 「あいこ、声大きい!」
 「あっ……」
 あいこが慌てて自分の口を塞ぐ。そんなあいこを見て、いま塞いでどうすんのよ、と思う。
 「……で、なにもなかった?大丈夫?」
 「逆に訊くけど、いったい、あたしがヤナになにをされるっていうのよ」
 昨日の巧といいあいこといい、なんだってのよ、もう。あたしとヤナの関係、勘違いしてない?
 「だって、密室に二人っきりでしょ?なにもなかったの?梁江、由依子のこと好きなのに?」
 「だから、好きじゃないって」
 「昨日だって、俺が行くってムキになって凄かったんだから。家が近いからとか学級委員だからとか言ってたけど、あれは絶対、
由依子のこと好きだからよ」
 あいこ、なんだか楽しんでない?やっぱり好きだって、と一人でうんうん頷いているあいこを尻目に、あたしはなんと返せばいいのか
わからない。
 「告白されんのも時間の問題よねえ。……あ、そういえば、まさか同居人とバッタリ、なんてことはなかったでしょうね?」
 「えっ」
 「梁江とその……なんだっけ、巧さん、だっけ。鉢合わせしたなんてことないよね?」
 「……うーん……」
 それがそのまさかなんです、と言おうとしたときだった。「あ、由依子来てる!」と背後から大きな声がした。声の主は、振り向かな
くてもわかる。
 「あ、噂をすれば梁江」
 「ちょっと、あいこっ」
 「なになに?俺の噂してたわけ?まさか、悪口とかじゃねえだろうなあ」
 ヤナが悪戯っぽく笑いながら、あたしとあいこに近づいてきた。もともと愛嬌のある顔が、笑うともっと可愛くなる。ヤナは「あー、
超重かった」と言いながら、重たそうなスポーツバッグを自分の机の上に置く。
 「すっごい重そう。なに入ってんの?」
 あいこがヤナのスポーツバッグをちらっと見て、訝しげに言う。
 「教科書と、弁当と、あとポカリの2リットルペット」
 「そんなもん持ってくるから重いんじゃないの」
 「今日部活だからな。俺、水分補給量が半端じゃないんだよ」
 そして、くるっとあたしのほうに向き直って「で、風邪は治ったか?」と言う。「一日で治るわけないでしょ。熱は下がったけど」と
返すと、「だよなあ。まあ、早く治せよ」と言って、男子たちの輪の中に入っていってしまった。
 
 「……で、鉢合わせしたの?」
 あいこが再び声を顰めて、さっきの話の続きを始める。「ヤナ、今日の小テスト賭けようぜ」「一番点数悪かったやつが全員分のジュース
奢れよ」。男子たちの元気な声が聞こえてくる。
 「……うん。ヤナがちょうど来てるときに、巧があたしの部屋に顔出してった」
 「マジで?うわー、梁江、可哀想。きっとショックだったよ」
 「ショックだったのはあたしだよ。巧がうちに住んでること、あいこ以外に言うつもりなかったのに」
 「いや、梁江はかなりショック受けてるね。だってその人、超イケメンなんでしょ?で、誰あの人とか訊かれた?やっぱり」
 「うん。全部話す羽目になった」
 好きになったりしないの?とヤナに訊かれたことを思い出す。あのときあたし、なんでかドキッとしちゃったんだよね。最近、詩織さん
にも似たようなことを言われたからかもしれない。
 「ね、由依子。あんたまさか、そのイケメン同居人のこと、好きになったりとかしないよね?」
 「えっ」
 これで3人目だ、と思う。どうしてみんな、揃いも揃ってそんなことばかり訊くわけ?
 「いや、だってさ。そんな人と一つ屋根の下って、意識しないほうがおかしいでしょ。由依子の恋愛恐怖症も克服されてきた頃だろうし、
危ないかなーって」
 「……そんなの、あるわけないじゃん」
 動悸がかすかに速まる。だから、そんなわけないんだってば。あたしが巧を好きになる?どうして?
 「それならいいんだけど。あたし、実を言うと、由依子と梁江にくっついてほしいんだよね。中学の頃、両想いだったのにうまくいかな
かったから、今度こそはって思ってる」
 「……」
 あいこがあたしにしか聞こえないような小さな声でそんなことを言ったから、あたしは答えに詰まってしまう。
 「ま、一番大事なのは由依子の気持ちだけどね。あたしはいつでも由依子の味方だし」
 そのときちょうど教室に担任の先生が入ってきて、あたしたちは自分の席に戻らなければならなくなった。席について、ふうと一息つく。
 中学時代からずっと仲のいいあいこ。さすがだな、あたしのことなんて、なんでもお見通しなんだ……。
 巧のことを訊かれてもヤナのことを訊かれても、答えに詰まってしまったあたし。そんなあたしの様子を、あいこは見逃さなかった。だから
あんなふうに会話を切ったのだ。一番大事なのはあたしの気持ち、だなんて。
 あたしはあいこの存在を頼もしく感じながらも、自分の気持ちがいったいどこにあるのか、自分がいったいなにを考えているのかがわから
なくて、ホームルームの間もずっとそのことばかりが頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
 
 
 
 
 まだ寝るなよ!もうちょっとだけ起きてろよ!―――巧からそんな意味不明のメールが届いたのは、その日の夜10時半ごろであった。
 なんだこれ?あたしはその短い文面を何度も読み返した。最初は間違いメールかと思ったが、よくよく考えてみたら、やっぱりこれは
あたし宛てのメールのようだ。
 今日遅いって行ってたくせに、まだ寝るなよってどういうことよ。よっぽど大事な用でもあるのだろうか。どのみちまだ寝ようとは
思っていなかったから、別にいいんだけど。
 『わかった。でも、12時には寝るからね』と返信して、あたしは机に向かうことにする。どうせ暇なら、英語の予習でもやっておこうと
思ったのだ。そういえば明日当たるし、ちょうどよかったかもしれないな。
 
 トントン、とノックの音がしたのは、あたしが英語の予習をもう少しで終えようとしていたときだった。時計を見ると11時半近くに
なっている。
 「はい?」
 ドアを開けると、そこには巧が立っていた。いつも通り恰好いいけれど、少し疲れているようだ。そういえば今日、すごく朝早く出かけた
んだっけ。おそらくそのせいだ、と思う。
 「……起きててくれてありがたい。すげえありがたい。もう少しその優しさに甘えたいと俺は思うんだが」
 「はあ?」
 いったい何の話をしているんだか分からない。巧は「まあ、とりあえず部屋ん中で」と言ってあたしの部屋の中に強引に入ってきた。
 「由依子、折り入って頼みが」
 「……はあ」
 もう、間抜けな声しか出てこない。巧があたしに頼み?しかも、こんなに畏まって?
 「俺、おまえにプラチナチケットを売りつけたいと思うんだけど」
 次に続いた巧の言葉に、あたしは「はあ」とも言えなかった。なぜかというと、あまりにも話が見えないからである。
 
 しかし、この“プラチナチケット”が、あたしの気持ちを大きく左右するきっかけになることを―――そのときのあたしは当然、知る由も
なかった。
 
 
 
 
 
 
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