#16.風邪とクラスメイトと同居人と
*
……38度5分、かあ。
あたしは布団の中で、深くため息をついた。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、やけに眩しく感じる。
一昨日くらいから、どうやら風邪っぽいなとは思っていた。喉がすごく痛いし、身体もだるい。布団の中にいるのに、寒気がするし。
今日は学校行けないな、これじゃ。今日は週初めだから、数学の小テストがあるはずだ。それに、生物のプリントも提出しなきゃ
ならないし。……とことん、ついてない。
「由依子ー、いつまで寝てんの。もう7時になるわよ」
お母さんがノックもせずにあたしの部屋に入ってきた。いつも6時には起きてるから、おかしいと思ったのだろう。
「ちょっと、由依子ってば。夜更かしでもしたわけ?」
そう言いながらお母さんは、なかなか起き上がらないあたしの顔を覗き込んできた。それから怪訝そうな顔をする。
「あれ?由依子、なんか顔赤くない?」
「……風邪、引いたみたい」
「あらあ」
お母さんが呑気な声で言って、手のひらをあたしの額にくっつける。そして、「結構熱あるわね。学校にはお母さんが連絡しといて
あげるから、今日は寝てなさい」と言った。
「仕事は?」
「今日は午後からだから、お昼、お粥かなんか作るわ。とりあえず寝てなさいね」
「うん……ありがと」
お母さんが部屋から出て行くと、あたしはまた布団にもぐりこんだ。寒い。とにかく、寒気がする。喉が痛い。それに、なんだか喉が
渇いたような気もする。
熱なんて久しぶりに出したな。最後に出したの、いつだっけ……ああ、高校受験が終わったあとの春休みだ。もう1年以上も前になる。
そんなことを考えていると意識が朦朧としてきて、だんだんと眠気が襲ってくる。さっき目を覚ましたばかりなのに、あたしは再び
眠りの世界に落ちていった。
*
ピンポーン、という音であたしは目を覚ました。
喉がからからに渇いている。頭がどんよりと重たくて、身体を起こすことさえも億劫だ。あたしはやっとのことで起き上がると、枕元の
時計を見た。15時30分。お昼を食べてから3時間は眠っていたことになる。
「頭、重い……」
あたしが頭を抱えていると、再びピンポーン、という音。お母さんはもうとっくに仕事に出かけてしまっているし、巧だってまだ帰って
きてないだろうし。
「誰よ、こんなときに……」
誰だったとしても居留守を使うつもりではいたけれど、あたしは部屋を出て階段をそっと下りていった。その間にも3回目のチャイムが
鳴る。宅配便とか回覧板にしてはしつこいなあ、と思いながら、インターホンを覗いた。
―――えっ?
ぼんやりとしていたあたしの頭は、インターホンに映っていた人物を見た瞬間に覚醒した。思わず自分の目を疑ってしまう。
インターホンに映っているその人物は、もう一度ためらいがちにチャイムを押した。困ったような表情を浮かべている。
あたしは慌てて玄関に走って――具合が悪いから頭にガンガン響いたけれど――、ガチャッと玄関のドアを開ける。
「あ、由依子!何回押しても出てこないから、死んでんじゃないかって本気で心配しただろ!」
「ヤナ……どうして」
なんでヤナがここに?っていうか、何しに来たの?まさかお見舞いとか?……それよか、あたしのいまの恰好……。
「ギャー!」
「え、え?!なんだ?どうしたんだよ、いきなり!」
あたしは叫ぶと、頭が痛いことも喉が痛いことも、熱があることも忘れて、慌てて階段を駆け上った。最悪だ。寝起きの顔に寝癖だらけの
頭に、しかもパジャマの上に何も着てないし、挙句の果てにはノーブラ。
具合悪いのによくこんな体力が残ってたな。自分に呆れながらも、あたしはブラジャーを着けてパジャマの上にカーディガンを羽織った。
ゆっくり階段を下りていくと、ぽかんとしたような表情で玄関に立ち尽くしているヤナが見えた。
―――ああ。あんな姿を見られるくらいなら、居留守使っちゃえばよかった……。
あたしは泣きそうになるのを堪えて、「部屋散らかってるけど、上がって」と言った。喉が痛いせいか、変な声になってしまう。
「あー、えっと、お邪魔します……」
複雑な顔をしたヤナが、ビニール袋を持ってあたしの後についてくる。なにがあるかわからないのだから、部屋はこまめに掃除しておくものだ。
あたしはしみじみとそう思う。
閉めっぱなしだったカーテンを開けると、明るい光が部屋に差し込んでくる。あたしがベッドを整えてそこに座り、ヤナは床に置いて
あったクッションの上に座った。
「……その、ごめん。てっきりお母さんが出るもんかと」
「お母さん、仕事だから……」
「そっか……」
妙な沈黙があたしたちを包む。喉が痛いからあまり喋りたくないし、汚い部屋にヤナを入れたことも後悔しているし、寝起きの姿を
見られたことも嫌だけれど、ヤナが来てくれたこと自体は嬉しい。
「あ、あの……熱あっても食えるもん、買ってきたんだけど」
「え?」
「プリンとヨーグルトと、リンゴと……あと、午後の紅茶のストレート。ちなみに2リットル」
ヤナはそう言いながら、部屋の真ん中にある小さなテーブルの上にそれらを並べていった。
「こんなにたくさん……」
「別に、今日中に消化しなくても大丈夫だからさ。その、とりあえず……ごめん。こんなときに部屋に上がりこんで」
「あ、ううん。あたしこそ……わざわざ……」
ありがとう、と言うのがなんだか照れくさくて、あたしは言葉を濁してしまった。鼓動が速くなっている。ヤナが来てくれたこと、それは
本当に嬉しい。だけど寝起きの顔を見られたくなくて、あたしはつい俯きながら話してしまう。
「……由依子、顔見して」
「えっ」
「さっきなかなか出てこなかったから、本当に心配したんだからな。だから、死んでないっていう確認」
ヤナが笑いながら言う。見たらわかるでしょ、あたしはそう言いながら、少しだけ顔を上げた。ヤナとばっちり目が合ってしまう。あたしは
なんだか恥ずかしくなって、すぐに逸らした。
「なんで逸らす?」
「……なんとなく」
「相変わらず面白いなあ、由依子は」
頬が熱い。ヤナが来てから、熱が上がったかもしれない。そんなことを本気で考える。汗ばんだ手でカーディガンの裾をぎゅっと握って
いると、「そういや、プリントとかも預かってきたぞ。皆瀬が行くっていうのを無理やり、俺が取り上げて」と言いながらヤナが鞄から
プリント類を出した。白紙のままの数学の小テストもある。
「……無理やり、取り上げたの?」
「え、あ……いや、俺のほうが家近いし、しかも今日部活休みだったし。取り上げたわけではないけど」
ヤナが慌てたように言ったので、あたしは可笑しくなってぷっと吹き出してしまう。実際にはそうじゃないのかもしれないけれど、脳裏にヤナと
あいこがプリントを取り合いしている場面が浮かんでくる。
「なんだよ。いまの、笑うとこかよ」
「笑うとこ笑うとこ」
「由依子、超元気そうじゃん。心配して損した」
ヤナは言葉とは裏腹にほっとしたような表情を浮かべて、「せっかく買ってきたし、どれか食えよ。あ、でも俺、リンゴ剥けないけど」
と言った。あたしがプリン食べたいと言うと、わざわざあたしのところにまで持ってきてくれる。
「そんなに重病人じゃないし、蓋くらい自分で開けるけど」
「いいからいいから」
ヤナはなんだか楽しんでいるようだった。しかも、いつの間にかあたしの隣に座ってるし。ちょっと近すぎじゃない?また頬が熱くなる。
やだ、本当に、熱上がっちゃうって……。
「はい、あーんして」
「えっ」
「いや、これはさすがに冗談だって。そんな、マジに驚くなよ」
ヤナはそう言うと、「はい」とあたしにプリンとプラスチックのスプーンを手渡してくれた。「変なこと言わないでよ」と言って、
あたしは黙々とプリンを食べる。あ、おいしい。こういうものって、食欲なくても食べれるんだよね。不思議。
「な、由依子……」
ヤナがなにかを言いかけた瞬間だった。トントン、と部屋のドアをノックする音が聞こえて、あたしはプリンを口に運ぶ手を止める。
「はい?」
「あ、俺だけど。なにおまえ、熱出したって?」
ノックの主がてっきりお母さんだと思っていたあたしは、その声を聞いた瞬間に凍り付いてしまった。
「あ、えっと……」
「なあ、生きてる?ちょっと開けるぞ」
「え、いや、あのっ……」
あたしの言葉にならない叫びはあっさりと無視されたらしく、ドアが静かにカチャッと開いた。そこに立っていたのは、思ったとおり
隣の部屋に暮らす同居人だ。
「……あ、悪い」
巧はすぐに、ベッドに座るヤナの存在を確認したらしく、苦々しい表情でそう言った。あたしはどうしていいのかわからず、「いや……」
などと曖昧な返事をすることしかできない。
「熱、あんの?」
「うん……さっき計ったら38度くらい」
「彼氏にうつすなよ。あ、もちろん俺にも」
「……わかってるわよ。しかも、彼氏じゃないし」
「照れんなって。おばさん、今日遅いだろ?おまえこんなんだし、俺がメシ作るから。お粥なら食える?」
「お粥、お昼も食べた……」
「じゃあ煮込みうどん。食える?」
「うん……」
あたしは巧とヤナの顔を交互に見比べながら、やはりどうしていいのかわからなかった。ヤナは「誰この人?」といったような表情で
巧を見ているし、巧はヤナのことをあたしの彼氏だって完全に勘違いしてる。
「由依子の彼氏、さっさと帰ったほうがいいぞ。うつされたら、元も子もないし」
巧はぶっきらぼうにヤナにそう言うと、「じゃ、夕飯できたら呼ぶわ」と部屋のドアを閉めた。あたしがゆっくりと振り向くと、ヤナは
開口一番に「あの人、誰?」と訊いてきた。
―――梁江には、由依子んちに男が住んでるの、黙っておきなさいよ。
数日前のあいこの言葉が、ふいに脳裏に蘇る。
ああ……さっそくバレちゃったよ。あいこ以外には絶対に秘密にしようって、思ってたのに……。
*
「同居人?」
「うん……親同士が友達で、1ヶ月前から、うちに住んでる」
ヤナが気になって仕方がないというので、あたしは巧がなんでうちに住んでいるのかを洗いざらい話す羽目になってしまった。
「いや、由依子に兄ちゃんいるなんて聞いたことないし、さっきはほんとに驚いた。しかも超かっこいいし」
「顔だけよ、顔だけ……」
「あんな格好いい人、俺初めて見た。モデルとかじゃねえの?てか、いつか雑誌に載ったりしそう」
「そのうち載るんじゃないの」
詩織さんと二人で、街で見つけたベストカップルとかいうコーナーにでも。あたしは心の中でそう付け加える。
「……なあ、好きになったりしねえの?」
「え」
突然の質問に、あたしは固まってしまった。どくん、と心臓が大きく跳ねる。
「あれだけ恰好いい人が同じ家に住んでんだぜ?好きになったりとか、しねえの?」
「巧……その、彼女、いるし」
なんで動揺してんのよ、あたし―――。それをヤナに悟られないようにと、あたしはなんでもないようにそう言うのに必死だ。
「あ、だよなあ。あんだけイケメンだったら、彼女いないほうが変だし。な、美人なの?やっぱし」
―――由依子ちゃん。巧のこと、好きになっちゃ駄目だからね。
ここ数日、詩織さんのこの言葉ばかりが何度も何度も頭の中で響いている。あたしはこの言葉の意味を必死に考えようとして、でも
馬鹿らしくなって途中で止めてしまう。あたしがなんで巧のこと好きになるのよ。辿り着く結論はそれだ。
「……由依子?」
「あ、えっと……巧の彼女の話だっけ。すっごい美人だよ。見たらびっくりするよ、たぶん」
あたしは必死に明るく言う。本当は彼女でもない。だけど、すっごい美人なのは本当。
惚れ込んでるのは巧のほうだって思っていた。だけど詩織さんだって、結局は巧のことを好きだし手放したくないのだ。詩織さんに
会ったあの日、あたしはそれをほぼ確信してしまった。
「そっか。まあ、イケメンの彼女なんて、そんなもんだよな」
ヤナはあっけらかんとそう言うと、「俺、そろそろ帰るわ。長居してごめんな」と立ち上がった。壁時計を見ると、もうすでに午後
4時半を回っていた。
「あ……今日、ありがと。わざわざ」
「いやいや。明日は学校来いよ。由依子いないと寂しいし」
「そんな、大袈裟な」
そう言いながらも、ヤナの言葉を嬉しく感じている自分がいた。あのお花見以来、あたしとヤナの関係は中学時代、もしくはそれ以上に
まで近づいてきているような気がする。
「あの人に、一応声掛けたほうがいいかな」
「あ、たぶん部屋にいるから。いいよ、そのまま帰っちゃって」
「じゃ、俺はこれで。ちゃんと寝ろよ。言い忘れてたけど、皆瀬も心配してたからな」
「うん。ありがとね」
玄関まで来なくていいというので、あたしはヤナが帰ると部屋のドアを閉めた。しばらくしてから玄関のドアがガチャン、と閉まる音が
して、ヤナが帰ったのがわかった。
カーテンを閉めてベッドに寝転がったけれど、なんだか眠れない。寝すぎたせいだろうか。それとも、考え事をしているせいだろうか。
―――とりあえず、ヤナは彼氏じゃないって、巧に言わないと。
風邪を引いて寝込んでいるのに、あたしはそんなことを必死に考えていた。それと、巧がうちに住んでいることがヤナにバレちゃった
ことについても。
……考え事してたら、余計に熱が上がりそう。とりあえず寝よう。夕飯まで、あと1時間以上あるし。
ヤナが買ってきてくれたものをテーブルに放置したまま、あたしは必死に眠りの世界に入っていこうとする。だけどなかなかうまく
いかなくて、さっきと同じことばかりをぐるぐると考えてしまっていた。