#02.新しい春には災難が降ってくるU
*
「ただいまー……」
あーあ、明日からどう生きていこう。いろいろ考えたけど、やっぱりつらいよね。
「おかーさん、いるー?」
リビングやキッチンを覗いてみるけど、誰もいない。今日は仕事が休みのはずだから、買い物にでも行ってるのかな……。
あたしは黙って階段を上がる。疲れた。ほんとうに疲れた。今日あったこと、ぜんぶ嘘であってほしい。
もしかして今日の夢って、現実に起こることの前兆だったわけ?最近はあんな夢、めっきり見なくなってたし。
自分の部屋に入ろうとしたところで、隣の部屋からゴソゴソと物音が聞こえた。隣の部屋は空き部屋のはずだ。
―――なに?
心臓がドクドクと音を立て始めた。まさか、泥棒とか……?だってこの部屋、使ってないよね。物音がすること自体、おかしいよね。
「お、おかーさん……?」
そんなわけはないと思いつつ、ドアの向こうに話しかけてみる。物音がぴたっと止んだ。
なにも返事がない。……ってことは、お母さんじゃない。え?誰よ、もしかして、ほんとに泥棒……?
頭の中がパニックになりかけて、とりあえず逃げようと思い立ったとき、その部屋のドアがガチャッと開いた。その音を聞いたとたんに
心臓が縮み上がって、なぜかあたしは振り向いてしまった。
「あ、あのあの、うち、金目の物はないんで、いや、ホントに!だから……」
「は?」
低い声だった。なんとなく若い男のような気がする。あたしは目を開けて、おそるおそるその男の顔を見てみる。
「あれ、アンタが由依子?ふーん、岸浜西ね……」
「え、なんで、名前……」
その男は、あたしの予想をはるかに超える容姿をしていた。ひと目でかっこいいと思ってしまったのだ。思わず見上げてしまうくらいの
長身に、整った顔立ち。なんでこんな人が、うちに……?
「なんでってお前、聞いてねえの?俺、今日からここでお世話になるんだけど」
「……はあ?」
お、お世話になる?どういうこと?え、なに?どういうこと?
「うわー、間抜けな顔。ていうか、可愛い女子高生と一つ屋根の下っつうから期待してたのに、たいしたことないじゃん。騙されたー」
その男はこれ見よがしに深いため息をついて、頭をがしがしと掻いた。そして、「まあとにかく、俺は今日からここに住むから、よろしく」
とぶっきらぼうな口調であたしに言って、部屋に引っ込んでしまった。
―――え、なに?いま起こったこと、現実?
一人取り残されたあたしは、いま目の前で起こった嵐のような出来事を信じられずにいた。
まず、あの男はなんなのか。なにやらものすごく失礼なことを言われた気がするけど、なんであたしが、あんなことを言われなきゃいけないのか。
―――俺、今日からここでお世話になるんだけど。
さっきの男の言葉を思い出して、動悸が激しくなっていく。……ちょ、ちょっと待ってよ。ってことはあの男、うちに住むってこと?しかも、
あたしの部屋の隣に?
お母さん、そんなこと、一言も言ってなかったよ?あたし、こんなの聞いてない!
「ちょっと!」
やっと状況を半分くらい理解できたあたしは、あの男が引っ込んだ部屋のドアを勢いよく開けた。
「うるせえなあ、なんだよ。ノックくらいしろって」
「あ、あたし、こんな話聞いてない!ていうか、アンタ誰よ!なんでうちに住むわけ?!」
「……質問は一つずつしろ、わけがわからん」
その男は当然のような顔で荷解きをしながら、あたしの顔も見ずに言った。
「……アンタ、誰」
「失礼だな。年上に向かってアンタはないだろ」
「はあ?」
「俺、今日から大学生なんだけど」
そんなこと、知るか!と心の中で突っ込みを入れながら、あたしは「名前は?」と訊いた。こいつはあたしの名前、なぜか知ってるみたい
だったけど。
「荻原巧。巧って呼んでくれていいから」
その男―――荻原巧は、そのとき初めて顔を上げた。相変わらずぶっきらぼうな口調で無愛想だけど、やっぱり、すごく綺麗な顔してる。
色白で、目は切れ長で、鼻の形も口の形も完璧。顔だって小さいし、背も高いし。髪の色も明るすぎないし、髪型も作りすぎてなくてラフな感じ。
外見的にはほんとに完璧かも。
「……なにおまえ、俺に見惚れてる?」
「えっ」
巧の声で、あたしはハッと我に返った。
「まあ俺、女に見惚れられるのはわりと慣れてんだけど」
巧は笑いを押し殺したような顔で、そんなことをさらっと言ってのけた。こんなセリフを吐ける男が、日本中にいったい何人いるのだろうか。
あたしは思わずそんなことを考えてしまう。
「……み、見惚れてなんか」
「でも俺、おまえは勘弁だな。驚いたときの顔が超間抜けだから」
そう言って巧は、くくっと低く笑った。巧の言葉を聞いた瞬間、あたしは全身の血が逆流しそうになるのを感じる。
あたしはなにも言わずに後ろを向いて、そのまま巧の部屋を出た。ドアをわざと大袈裟に閉めて、急いで自分の部屋に戻った。
―――なんなの、あの男!最低!あたし、絶対やってけない!
あんな最低なヤツと、一緒に暮らすなんて。絶対に無理。絶対に絶対に、無理!
学校に行っても家に帰っても、最低な男がいるなんて。なんなの?あたし、神様に恨まれるようなこと、なにかしたっけ?
外見的には完璧、性格は最低。あたし、そういう男が一番嫌いなのよ。ただでさえ、男なんか嫌なのに。
あたしに降りかかった、第二の災難。
それは他でもなく、荻原巧がうちにやってきたことであった。
*
「わざと黙ってたのよぅ。由依子、驚くかと思って」
夕飯のとき、お母さんに「どうして黙ってたの!」と抗議すると、あっさりとそんな答えが返ってきた。
あまりに気の抜けた答えに、あたしは一気に脱力してしまった。ああ、そう……。お母さん、年のわりにお茶 目だからね。うん。
ちょっとした悪戯心だったのよね、うん……。
「驚かれすぎて、俺がびっくりしました」
「あらー、そうなの?巧くんがあまりにもいい男だから、驚いちゃったんじゃない?」
「いやいや、そんなことないですよ」
……よく言われますって顔に書いてあるっつうの。当然のようにあたしの隣に座ってご飯を食べている荻原巧に、あたしは心の中で毒づいた。
「それにしても巧くん、ちーちゃんにそっくりねえ。ちーちゃんね、若い頃から、本当に美人だったのよ」
ちーちゃんとは、お母さんの親友の荻原千鶴さんのことだ。“ちーちゃん”という人には何度か会ったことがあるし、話も聞いたことが
ある。千鶴さんは地方に住んでいるから頻繁には会えないけど、電話やメールのやり取りはよくしているみたいだった。
この春から巧が岸浜の大学に進学することになったので、お母さんが巧をうちに住まわせることを提案したらしい。まったく、余計なこと
しなくていいのに。
「巧くん、どう?こっちには慣れた?」
「はい、だいぶ慣れました。神川のほうに比べたらだいぶ都会なので、まだ一人で出かけると迷いそうですけど」
「今度の休みにでも、由依子に案内してもらったらいいわ。ね、由依子?」
「え……」
なに言ってんのよ、お母さん。こんな奴と二人で出かけるなんて冗談じゃない。
「はい、そうします」
巧はあたしの顔も見ないで、そう言ってお母さんににっこりと微笑みかけた。
……こいつ、相当ネコ被ってる。あんなに態度がでかいのは、あたしの前でだけってこと?
あたしは居心地の悪い思いに包まれながら、いままでで一番おいしくない夕飯を急いで食べて、さっさと自分の部屋に戻った。
「……子、由依子……」
ん……誰かに呼ばれてる?お母さん……じゃない。だってこれ、男の人の声だもん……。
「……早く起きろ、風呂だってよ」
低い声がする。あたし好みの声。低いのによく響くような、存在感のある声だ。
「……だれー?」
すこしづつ目を開けると、ぼやけていた輪郭がだんだんはっきりしてきた。目の前にいる人の顔も、はっきり……。
「……ぎゃー!」
あたしは自分でも驚くような大声を出して飛び起きた。すぐ目の前に、荻原巧の顔があったのだ。
「うるさい。そんなに叫ぶな」
「な、なんで……勝手に……」
「だっておまえ、ノックしても起きねーんだもん。俺、先に風呂入ったぞ」
「だからって、勝手に入んないでよ!」
床には服やらマンガやら雑誌やらが散らばっている。ああ、最悪だ。よりによって、一番汚いときの部屋を見られるとは。
「いいだろ、べつに。おまえを取って食うほど飢えてないから、安心しろ」
「……」
この男、つくづく最低だ……。ていうか、そういう問題じゃないでしょ。自分だってノックしろって言ったくせに。
「てか、『だれー?』って……おまえ、いくつ?小学生?」
巧は肩を震わせながら笑っている。あたしは頬が熱くなるのを感じた。
「……寝ぼけてたの、しょうがないでしょ」
「いやー、面白いわおまえ。見てて飽きない。からかい甲斐がある」
こいつ、あたしには言いたいこと言うわけね。いったいどれだけ失礼なことを言えば気が済むんだか……。
あたしが黙ってベッドから降りて部屋を出て行こうとすると、「あ、そうだ」と巧に呼び止められた。
「……なによ」
「さっきおばさんが言ってたこと、実行する必要ねえぞ」
「は?」
「おまえに案内してもらうってヤツ。俺を案内してくれる女は他にいるから」
巧は珍しく真顔でそんなことを言って、部屋を出て行った。
……な、なによ。俺はモテますって言いたいわけ?こっちだって、アンタを案内するなんて願い下げよ。
あたしは、すとんとベッドに腰を下ろした。あの男、理解できない。なに考えてるのか、全然見えない。あんなわけわかんない男と、
これから一緒に暮らさなきゃなんないわけ?
これからの自分の生活を想像して、あたしはどっと疲れてしまった。学校に行ったら梁江将郁がいて、家に帰ったら荻原巧がいる。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。どうしたらいいんだろう。あたし、これから―――。