#01.新たな春には災難が降ってくるT
*
―――由依子?ああ、あいつはただの友達だって。付き合ってるなんて、んなことあるわけないだろ。あいつ、女じゃねえもん。
「……夢?」
4月8日の午前6時、あたしは飛び起きて、枕元でけたたましく鳴り響く目覚し時計を止めた。
額にびっしょりと汗をかいていたから、手で拭う。まだ心臓がドキドキしていた。なんてリアルな夢なんだろう。
「イヤな夢……」
あたしはそう呟きながらベッドから下り、カーテンを開ける。外には、憎らしいくらいの快晴が広がっていた。
―――なんだってのよ、もう。なんで今日に限って、あんな夢を見なきゃなんないわけ?
あたし、咲坂由依子は、今日から高校2年生になる。ちなみに、通っているのは岸浜西高校。学力レベルとしては中の上ってところの、ごく普通の高校。
そんな高校で、ごく普通の生活を送っている。彼氏いない暦は16年。さっき夢に出てきた男が原因で、ちょっとした男性恐怖症になっていたりする。
今日から新しいクラスになるから、少し不安になってるのかな。だから、あんな夢を見たのかも。
「由依子ー、早く支度しないと、遅れるわよ!」
下からお母さんの声が聞こえて、あたしは慌てて部屋を出る。電車に乗り遅れて始業式から遅刻、なんて、さすがにマズいもんね。
朝ご飯を食べるころには、もうさっきの夢のことなんて忘れていた。思い出す価値も必要もないと思い込んでいた。
*
「あ、由依子、おはよう」
「うん、おはよ」
あたしの親友――だと思う、たぶん。少なくとも、あたしはそう思っている――である皆瀬あいこは、いつも早めに駅に到着している。
新岸浜駅はいつも人でごった返しているけど、今日は特に人が多いように思えた。どこの高校も、今日が始業式なのかもしれない。
「そういや由依子って、文理選択、結局どっちにしたわけ?」
「文系にした。あいこは?」
「あたしはもちろん文系よ。理系なんて無理だって」
他愛もないことを話しながら、ホームで電車を待つ。それにしても、ほんとに混んでるなあ。どうせ電車に乗っているのは一区間、5分間だけだから、
人が多くても我慢できるけど。
「じゃ、あいこと同じクラスになれるかもね」
「文系って何クラスだっけ?5クラス?」
「そうそう。理系が4クラス」
1年のときは運良くあいこと同じクラスだったから、今年もまた一緒になれるといいなあ。
「あ、やっと電車来たよー。最近、よく遅れるよね」
あいこが怒ったように言ったから、あたしは思わず笑ってしまった。あいこって怒りっぽいんだよね、実は。
「いいじゃん、遅刻するわけじゃないんだから」
そう言い返して、二人で電車に乗り込んだ。ここまでは、ごく普通のいつもの風景であった。
―――そう、ごく普通の、いつもの風景であったはず、だったのに。
「ちょっと、なによこれ!」
20分後、あたしは高校の玄関前に貼りだされたクラス割を見て、悲鳴といっても過言ではないような声を上げていた。
「由依子、落ち着いてよ」
「これが落ち着ける?!なんで9クラスもあんのに、こいつと同じクラスになんのよ!」
「……それはまあ、運だから」
あいこが困ったようにあたしをなだめようとする。だけどあたしの怒りは収まらない。ありえない。ありえないありえない!こんなの
絶対にありえない!
まず、あいこと同じクラスになれたのは良かった。今回のクラスで卒業まで過ごすから、あいことは3年間同じクラスということになる。
文系だから男子は少ないけど、かっこいい人、いればいいよね。そんなことをあいこと話しながら、男子の名簿を見ていく。ふーん、全然
知らない人ばっかり。そんなことを話しながら最後まで見ていったところで、あたしの体は一瞬にして凍りついたのだ。
梁江将郁―――。
中学生だったあたしの心に深すぎるくらい深い傷をつけた、最低で最悪で、あたしがこの世で一番大嫌いな男―――。
「やだやだ、あたし、絶対にやだっ!」
「由依子、気持ちはわかるけど……いろんな人、見てるって」
「だってやなんだもん、あたし、あいつだけは嫌なの!一生、顔も見たくないの!」
「そんなこと言ったって……」
あいこが困り果てている。ごめん、あいこ。こんなあたしを見捨てないで、他人のフリをしたりしないところが、あいこの優しいところだよね。
「由依子、とりあえず教室行こ?ほら、女子はいい子ばっかりなんだし。男子は少ないんだから、大丈夫だって」
「あいつと同じ教室にいなきゃなんないのが嫌なの!」
中学のときの記憶が、鮮やかに蘇ってくる。あのことがあってから、毎日学校に行くのが嫌で嫌でたまらなかった。それでも中学3年生の
1年間、一度も学校を休まなかったあたしは偉いと思う。
「もう、由依子……」
「おーい、クラス見えないんだけどー。誰だー?こんなところで騒いで……」
ふいに、背後から声をかけられる。直感で誰の声だかわかってしまった。背筋が凍りついて、その場から動けなくなってしまう。
「ってアレ?由依子だ」
「や、梁江……」
あいこが真っ青になって、動けなくなっているあたしの腕をぐいぐいと引っ張る。あたしは梁江将郁の顔を見たとたんに膝の力が抜けて、
その場に座り込んでしまった。
中学のときから変わってない。口調も、声も、ぜんぶ。同じ高校に来たのは知ってたけど、いままで幸運にも一度も会わなかった。
「由依子?なに、具合でも……」
「触んないで!」
あたしの腕を掴もうとした梁江の手を思いっきり叩いて、あたしはあいこの腕を引っ張ってその場から逃げた。もう二度と会わないと思って
たのに。絶対に会いたくないって……。
頬に流れる冷たい感触に気付いて、あたしは手の甲で何度も何度も拭った。あんな奴のせいで泣いている自分が情けなかった。
「由依子、あたしと同じクラスなんだし、がんばろうよ。大丈夫だって」
2年4組に続く廊下をゆっくりと歩きながら、あいこがそう言いながらあたしの頭をポンポン叩いてくれた。
「……学校、来たくない」
「そんなこと言わないでよ。梁江なんかのせいで学校来れなくなったら、由依子、アンタ馬鹿だよ」
「……そりゃ、そうだけど……」
それ、頭ではわかってるけど。……でも、嫌で嫌で仕方ないんだもん。怖いんだもん。2年間も梁江と同じクラスだなんて。また傷つけられる
かもしれないって―――。
「由依子には酷かもしれないけど、あの分だと、梁江、なにも気にしてないよ?アンタだけが気にしてるの、悔しいでしょ?」
「うん……」
「じゃあ由依子だって、なにもなかったような顔してなくちゃ。あんな男、見返してやんなさい」
あいこは2年4組のドアをガラッと勢いよく開けて、「おはよー」と大きな声であいさつした。何人か知っている子がいたから、あたしも
「おはよう」とあいさつをする。
自分の席に着いて、ふうと一息ついた。そうだよね。あいつのこと、いつまでも気にしてるほうがバカみたいよね。
中学3年生のときの話だもん。引きずってるあたしがおかしいんだって。だいたい同じクラスだって、喋らなきゃいい話じゃない。大丈夫大丈夫……。
「―――由依子」
一番聞きたくない声が隣からして、あたしはまた凍りついた。
「あの、さっき、悪かったな。いきなり……」
「……由依子って」
あたしは梁江の顔を見ないで机の上に視線を落としたまま、固い声で言った。
「由依子って、呼ばないで」
その一言を口にするだけで、胸が苦しくて苦しくてどうにかなりそうだった。あたしは席を立って、あいこの席に向かう。
―――やっぱり無理だよ。あたし、耐えられないかも。
春、新しい環境で、新しい生活の幕開けのはずだったのに。
あたしの心の中は、嫌な思いでいっぱいだった。これから2年間、どう過ごせばいいんだろう。
このときのあたしは、さらに新たな波乱が待っているとは予想もしていなかった。
その波乱が発覚するのは―――。
4月8日水曜日、つまり今日の、午後の話である。
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