#03.咲坂家の夕食
*
「はあ?同居?!」
「あいこ、声大きい!」
次の日、新岸浜駅のホーム。あいこの大声に、周りにいた人たちが何事かとあたしたちをじろじろ見ている。
「ごめん……その、驚きすぎて」
「あいこにしか言わないから、絶対に黙っててよね」
「それはわかってるけど……。男と同居って、由依子のお母さん、なに考えてんの?」
「自分の親ながらわかんない」
電車が到着したので、あいこと二人で無理やり乗り込む。新岸浜の前の南沢って駅でたくさん人が乗ってくるから、新岸浜になると本当に
混んでるんだよね。
「しかも、話聞く限りだと、なんか性格悪そう」
「うん。ぜーったい性格悪いよ。あたし、同じ家に住んでうまくやってける自信ないもん」
「大変だねえ、由依子。学校行っても敵がいるし」
あいこの言葉に、あたしは大きなため息をつく。そう。そうなんだよね。学校に行ったら梁江がいるんだ。なぜか席は近いし。今日も
話しかけられたらどうしよう。
「もう、嫌になってきた……」
「そんなこと言わないで。あ、もう着くよ」
あいこがそう言った途端、『次は岸浜、岸浜に止まります』というアナウンスが聞こえた。……ああ、頭痛い。こんなに学校行きたくないの
って、中学3年のあのとき以来かも。
「ほら、がんばろ!ため息ついたら、幸せ逃げるよ」
……あいこさん、あたしの幸せ、もう全部逃げたと思うんですけど。
あいこのやたら明るい声に、あたしは心の中でひっそりとそう反論した。
*
「おう、由依子」
あたしが自分の席に着こうとすると、梁江将郁は満面の笑みでこちらに手を振ってきた。
こんな至近距離で手ぇ振ってどうすんのよ、と心の中で突っ込みを入れながら、あたしはなにも言わずに席に着く。信じられない。
いったいいつまでこの席なわけ?
「無視すんなよ。感じ悪ィな」
「……由依子って呼ばないでって、言ったでしょ」
あたしは携帯をいじりながら、梁江の顔も見ずに言った。あたし、こいつの顔見るだけで泣きそうになるんだもの。
「どうしたんだよ、おまえ。中学ん時、俺と仲良かったの、忘れた?」
「……忘れました」
そう言って、あたしはあいこの席に行こうと席を立った。
「ちょっと待てよ。なんなんだよおまえ、わけわかんねぇ」
梁江はあたしの腕をしっかり掴んで、イライラしたような声でそう吐き捨てた。
「わけわからなくて結構よ。あたしだって、わかってもらおうなんて思ってないし」
声が震えないようにするので精一杯だった。喉の奥が熱くなるのを感じて、あたしは梁江の腕を思い切り振り払う。
「……んだよ、わけわかんねぇやつ」
梁江は苛立ったように言って、自分の席に戻る。あたしはホッと胸を撫で下ろした。
―――それにしても。
これから毎日、こんな調子なんだろうか。梁江の顔を見たら、嫌でもあのことを思い出してしまう。そしたら、条件反射で泣きそ
うになる。
「由依子、大丈夫?」
あいこが心配そうな顔で駆け寄ってきて、こっそりとあたしにそう耳打ちした。あたしは黙って頷く。
あのときのトラウマは、自分で思っていたよりも、深いみたいだ。
あたしは不貞腐れた顔で携帯をいじっている梁江の横顔を見て、そんなことを思っていた。こいつはあんなこと、覚えていないん
だろうけど。
*
「お、やっと帰ってきた。おばさん、今日遅いってよ」
午後5時過ぎに帰宅してリビングに入ると、荻原巧がスウェット姿で、ソファーに座りながらテレビを見ているところであった。
……そうか。家に帰ったら帰ったで、こいつがいるわけか。あたしも前途多難っていうか不運っていうか、自分の運命を呪いたく
なるよ、うん。
「あ、そう」
スウェット姿なのにこんなに格好いい男は初めて見たなあと思いながら、あたしは鞄をソファーの上に投げるようにして置いた。
「おいおい、おまえ、女だろ?すげえガサツだな」
「大きなお世話よ」
洗面所で手を洗いながら、大きな声で言い返す。学校でもどっと疲れて、家に帰ってからも疲れるなんて冗談じゃない。巧の相手は
適当にしておこうっと……。
「んで、今日のメシはなんだ?」
「……は?」
洗面所から出て、鞄を持ってリビングを出ようとしたときであった。巧があたしの背中に向かって、そんなことを言ったのは。
「おばさん、帰りが10時頃になるから、メシは二人で食えって。おじさんもいつも帰り遅いんだろ?」
「そうだけど……」
「そんならさ、メシはもちろん、由依子が作るんだろ?俺は居候の身だし、台所をごちゃごちゃいじるなんて申し訳ないもんなあ」
そう言って、巧は意地の悪い笑みを浮かべた。
お父さんはいつも帰りが9時か10時になるし、お母さんも仕事の関係で帰りが遅くなることがしばしばある。そんなときあたしは、
有り合わせの食事で済ませていたのだが。
……そうか。巧がいるんだ。ってことは、巧の分も作らなきゃいけないってこと?
あたしは深いため息をついて、「いつも、有り合わせで済ませてるけど」といかにも憂鬱そうに吐き出した。料理が嫌いなわけじゃない
けど、巧に自分の料理を食べさせるのは嫌だ。なぜかって、文句を言われそうだから。
「別にいいよ。食えるもん作ってくれれば」
「……あたしの作ったの食べるの嫌だったら、なんか買ってきたらいいんじゃないの?」
巧の言い方にカチンときたあたしは、思わずそう言い返していた。
「嫌なんて誰も言ってねえだろ」
「いくらガサツなあたしだって、ちゃんと食べれるものくらい作れるわよ」
あたしはそう言って、リビングを出た。残された巧が「んだよ、かわいくねえ女」と呟くのが聞こえた。なによ、どうせかわいくないし、
ガサツよ。そんなの自分が一番わかってるって。
自分の部屋に入ろうとしたとき、自然と隣の部屋に目がいった。ドアが開け放しになっているのだ。
巧の部屋には、エレキギターが立て掛けてあった。アンプもある。なんだかよくわからない線が、ごちゃごちゃと床を這うようにして散ら
ばっていた。
―――ふーん、ギターねえ。あの顔でギターなんか弾いてたら、女の子、たくさん寄ってくるんだろうなあ。
そんなことを考えながら、部屋に戻って着替えた。どんな事情であれ、男の人に料理を作ってあげるのは初めてだから、少し緊張している。
「……あれ、普通に食えんじゃん」
30分後、食卓に並んだチャーハンと野菜炒めに少しずつ手をつけて、巧が驚いたように言った。
「申し訳ないくらい有り合わせの夕食だけど」
一人だったら、野菜炒めも作らないけどね。そんなにたくさん食べるほうじゃないし、チャーハンだけで十分だもん。
「いや、普通にうまい。なんだ、俺、もっとマズいの期待してたのに」
「……どういう意味よ」
あたしが怒った顔で野菜炒めのお皿を下げようとすると、巧が慌てて「いや、なんでもない」と言った。その姿が少し可笑しい。
「でも、いつもよりおいしいかも。一人のときよりは気遣って作ったから」
チャーハンも野菜炒めも、程よい味加減だ。我ながらうまくいったな、と心の中で喜んでみる。……よかった、失敗しなくて。失敗したら、
確実に巧にどやされるもんね。
「夕飯が一人のことって多いのか?」
「うーん……どうだろ、週に2回くらいかな。お母さんも、結構残業が多いから」
「これから、どうする?」
巧はもうチャーハンを食べ終えてしまって、野菜炒めに箸をつけている。「全部食べてもいいよ」とあたしが言うと、なにも言わずに
頷いた。意外と健啖家なんだ、この人。
「これからって?」
「それなら、最低週2回は俺たち二人で夕飯食うんだろ?ずっとおまえがメシ作んの?」
「あ、それもそうだよね……」
ずっとチャーハンと野菜炒めばかり作ってるわけにいかないよね。あたし、料理のレパートリー少ないから、それは困るなあ。
「まあ、俺もサークル関係で夕飯いらないこと多くなるけど」
「サークル、もう入ったの?入学してすぐなのに」
あたしはチャーハンを食べ終えたので、席を立ってキッチンにお皿を運ぶ。まだ洗わなくていっか。あとで、巧にまとめて洗ってもら
おうっと。
「……ああ、もう決まってたから」
少しだけ、巧の声色が変わった気がした。なんだろう、訊いちゃいけないことだったのかな。
まあいいや、とあたしは冷たい麦茶を二つのグラスに注いで、一つを巧に渡す。「サンキュ」と言って、巧は一気にその麦茶を飲み干し
てしまった。
「なに入ったの?」
「軽音」
巧は短く答えて、食べ終えたチャーハンと野菜炒めのお皿をキッチンに下げた。それから麦茶が入っているボトルを持って、食卓テーブルに
戻ってくる。
「あ、もしかしてギター?」
さっき見た、巧の部屋を思い出す。ギターのことなんて全然わからないけど、なんだか高そうなギターだったような気がする。
「見たのか?」
「ドア閉めてなかったから、ちらっと見えたの。ギター弾くんだ?」
「……まあ、大した上手くないけど」
意外な反応だった。自分に相当な自信があるはずの巧がこんな言い方をするなんて、思ってもいなかったからだ。“言っておくけど、
俺はプロ並みにギター上手いぞ”とか、もしくは“おまえに関係ねえだろ”とか。そういうふうに言われるとばかり思っていた。
「へえー。あ、でも、夜中にアンプでガンガン音鳴らさないでね。近所迷惑になるし」
「わかってるよ、んなこと。ちゃんとヘッドホンあるっつの」
巧は苛立ったように言って、「じゃ、ごちそうさま」と席を立った。そのままリビングを出て行こうとする。
「ちょっと、食器くらい洗ってよ!」
「疲れたから、おまえがやって」
巧は、今度は俺がメシ作っから、と言い残し、そのままリビングを出て行ってしまった。
―――な、なんなのあいつは!人にご飯作らせといて、食器まで洗わせる気?!
腹は立ったが、かと言って、こんなことでいちいちあいつに突っかかる気にもなれない。あたしはあきらめて、自分と巧の分の食器、
それにフライパンを洗うことした。
それにしても、急に機嫌が悪くなったなあ。さっきまでは結構機嫌よかったのに。
もしかして、あたしがギターのこと訊いたせいかな?でも、同じ家に暮らしていればいずれわかることなんだし、そんなに怒ること
でもないよなあ……。
あたしは頭の中に疑問符をたくさん浮かべながら、黙々と食器を洗った。
このときの巧が不機嫌だった理由を知るのは―――もう少しだけ、後の話である。