#44.静かな衝撃 姫桜視点
 
 
 
 
 「……どういう、こと?」
 いちばん最初に沈黙を破ったのは瑛治だった。
 私はただ俯くしかできなかった。駅の雑踏も、なにも聞こえない。瑛治の、呆気に取られたようなその声だけが、私の耳の中に入って
きた。
 「どういう、って……そのままの意味だよなあ、香坂」
 日向は相変わらずの呑気な声で、私に言う。だけど私は答えることもできず、ただ唇を噛んで、ぎゅっと手を握ることしかできない。
手のひらに、爪が食い込んで痛い。だけどそうしていないと、立っていられないような気がした。
 「俺は、姫桜に訊いてるんだ」
 瑛治はいつもよりすこし上擦った声で、日向にそう言った。
 「香坂がなにも答えないから、俺が代わりに」
 「あんた、関係ないだろ」
 瑛治がぴしゃりと言い放つ。日向が関係ないはずないってわかってるはずなのに。
 「いや、関係ある。だって俺、香坂のこと好きだし。彼氏とかいても、関係ないし。……あ、彼氏って、そういや、おまえか」
 「……やめて」
 私はようやく、声を絞り出して言った。ずっと黙っていたから、なんだ変な声が出た。掠れているような上擦っているような、いつもの
自分の声じゃない、声。
 「日向、帰って」
 「姫桜……」
 瑛治が驚いたような顔で私を見る。なぜか胸がずきんとした。瑛治の顔を見るのが辛い。
 「早く」
 私は顔を上げ、まっすぐ日向を見つめて、言った。日向はというと、いつも通り、余裕綽々といった感じだ。
 「冷たいなあ、香坂」
 日向は笑って、ふいに私の腕を掴んで、自分のほうに引き寄せる。やめて、という間もなかった。
 「キス、させてくれたくせに」
 私の耳元でそう囁くように言うと、黙って出口のほうに歩いていく。おとなしく帰るつもりらしい。
 「……姫桜」
 瑛治が、静かに静かに、私の名前を呼んだ。いつもとは全然違う口調だったから、ひやっとする。
 私がなにも答えないでいると、瑛治は、帰ろうか、と消え入りそうな声で言った。足が震えて、がくがくした。鼓動が速くなっていく。
 瑛治は私より先に、出口に向かって歩き出した。私は少しの間そこを動くことができなかったから、後から慌てて瑛治を追う。
 ―――私、どうしたら、いいんだろう。
 ただ漠然と、そう思った。これからどうなるんだろう。私はどうしたらいいんだろう。瑛治に、なんて言えばいいの?
 なにも言わない瑛治の背中を、ただ追った。学生やサラリーマンの人たちでごった返す南沢駅前を、なにも話さず、一定の距離を保って、
黙々と歩く。
 
 悲しくて、胸が張り裂けそうだった。
 なにも言ってくれない。いつもみたいに歩幅を合わせてくれることもしない。手も繋がない。いまの状況じゃ当たり前のことなのに、
ひどく寂しく感じる。
 「……瑛治」
 小さな声で呼ぶと、瑛治はかすかに振り向いた。夏の午後5時過ぎは、まだ日が高い。今の季節は、7時になっても明るいのだ。
 だからだろうか―――。
 振り向いた瑛治の顔が、すごく傷ついているように見えたのは。夏の夕方の強い陽射しに、さらされているからだろうか。
 だからいつもよりも余計に、表情が浮き彫りになっているのだろうか。そうであってほしい、と思う。
 こんなときにさえ、私は瑛治の背中を、いつもみたいにじっと見つめていた。思っていたよりもずっと広い背中。背は、私よりずっと高い。
髪は柔らかめで、いつもワックスできちんと整えている。だけど今日は、すこし乱れていた。
 ―――ねえ、どうして、なにも言ってくれないの?
 私からなにか話し始めるなんて、到底無理なことだった。私は瑛治に心の中でそう問い掛けて、なんだかわからないため息をついた。
 
 
 
 
 「……なにがあったんだ?」
 雑踏の南沢駅前を抜けて住宅街に近づきつつあるころ、瑛治はふと足を止めて、静かにそう言った。
 「訊きたいことは、たくさんあるんだ―――あいつは誰なのかとか、あの電話は何なのかとか。だけど、俺がいま、いちばん訊きたいのは」
 右頬、と言って、瑛治が振り向いた。私の右頬を、じっと見つめる。
 「どうしたんだ?なんで、隠すんだよ」
 私はまた、右頬に無意識に手をやっていた。慌てて手を下ろす。どうしたらいいのかわからなくて、また足が震えてきた。
 「姫桜、なにがあったんだ?」
 「ごめん……なさい……」
 私は俯いて言った。それしか出てこない。
 「なんで謝るんだよ。謝るようなこと、したのか?」
 瑛治はきつい口調で、畳み掛けて質問してくる。怖い。瑛治、本気で怒ってる。どうしよう。私、なにも言えない。だって、謝るようなこと、
したんだもの。
 私は小さく、首を縦に振った。認めるのは嫌だし、怖いけれど、嘘をつきたくなかった。
 「……姫桜、ここ」
 瑛治は私の右頬にそっと触れて、言った。キスされた?と。
 気付いてる。短い言葉だけど、瑛治はその言葉になにかを賭けているような気がした。根拠はないけれど、絶対にそうだ、と思う。
 “なにか”というのは、私たちのこれからだ。首を横に振るか縦に振るか、それだけで決まる。簡単なこと。
 だから、ここで私が認めれば、ほんとうに、おわってしまうのかもしれない―――。
 
 「―――ごめんなさい」
 私がそう言ってかすかに首を縦に振ると、瑛治はひどく傷つけられたような顔をして、「そっか」と言った。
 「……なあ、姫桜」
 瑛治はそれから再び歩き出す。私はまた慌てて追いかける。心臓がおかしくなりそうなくらい、どくんどくんと鳴っている。
 「たかがほっぺにキス、って思うんだけど」
 妙に軽い口調だった。瑛治がわざと明るく話そうとしているのがよくわかったから、たまらなくなって、私は顔を伏せる。
 「どうしてだろうな。なんで、別にいいって言えないんだろうな。どうして、許す気に、なれないんだろうな……」
 「瑛治……」
 涙が溢れてきた。さっきから我慢していたのに、涙は、せき止められずに流れてきた。瑛治の痛切な声を聞くのが、とてつもなく、
とてつもなく、つらい。
 「姫桜と付き合ってるってこと、すっげえ、幸せだって思ってたから。……だから、俺さ、こんなこと受け入れられるほど、大人じゃ
ないんだ」
 瑛治はすこしづつ言葉を区切りながら、そう言った。ぽつりぽつりと、ひとつずつ言葉を搾り出すように。
 それから瑛治は、ごめん、と呟いた。俺、もう帰るな、と。
 引き止めることなんてできなかった。いまの私に、引き止める権利なんて、ひとつもない。
 瑛治はすこしづつ、確実に、私から遠ざかっていった。瑛治は足が速いから、あっという間に見えなくなってしまった。
 
 ふいに、生ぬるい風が吹きぬけた。おわってしまったのかな、なんて、他人事みたいに思った。
 
 
 
 なんてことをしてしまったのだろうと改めて思ったのは、家に帰ってからだった。
 夜ご飯も喉を通らなかった。なにも考えられない頭でシャワーを浴びて、気付いたら、ベッドの上でうずくまっていた。どうしたらいい
のかわからなくて、瑛治が毎日のようにくれたメールを、ただひたすら読み返す。
 『勉強大変だけど、がんばれよ。体壊すなよ』、『今日の放課後、暇?駅まで迎えに行ってもいい?』、『じゃ、おやすみ。寝坊すんなよ』
……こうして見ると、本当に、短文ばかりだ。思わずくすっと笑ってしまう。
 ああ、瑛治って、私のこと、こんなに考えててくれたんだなあ―――。
 そう気付いて、また涙が溢れてくる。なんてことをしたんだろう。私をこんなに大切にしてくれている人に、なんてひどいことをしたんだろう。
 今さら思い返したって、もうどうにもならない。瑛治はきっと、私のことを許してはくれないだろう。
 まだ付き合ってわずか2ヶ月の私たちにとって、“たかがほっぺにキス”は、大きなことだ。他人から見たらきっとバカみたいに小さい
ことなんだろうけど、私たちにとったら、とても大きくて、致命的な―――。
 それに、私―――瑛治に、あんな、顔させた……。
 見たこともない表情だった。いつも元気で笑ってる瑛治に、私は、あんな顔をさせてしまった。
 なんてことを―――本当に、なんてことを―――。
 何度も何度もそう思った。鳴るはずのない携帯を握りしめてベッドに横になったけど、当然、一晩中眠れなかった。
 胸が張り裂けそうに痛い。こんなことは初めてで、どうしたらいいのかわからなくて、ひたすら泣いた。そして、ごめんなさい、と呟く。
自己嫌悪に陥る。なんてことをしてしまったのだ、と思う。それの繰り返し。
 瑛治を傷つけてしまったというのは紛れもない事実で、その事実は、私の胸に重く圧し掛かった。
 傷つけてしまったくせに、いや、傷つけてしまったからこそ、連絡なんてとてもできなかった。メールや電話で謝れば済むようなことじゃない。
 それに瑛治はきっと、私の顔も見たくないし、声も聞きたくないはずだ。
 
 
 ごめんなさい、を繰り返して、眠れない夜が明けていく。
 夏だから、日が昇るのも早かった。午前4時ごろ、私は重い体を起こして、鏡を覗き込んでみた。予想通りのひどい顔。
 それでも、今日は火曜日だから、学校に行かなくてはならない。日向と顔を合わせなくちゃならない。
 
 私はそっと部屋を出て、階段を下りた。少しでも目を覚ますために、シャワーでも浴びよう。
 これからのことを、考えなくちゃ。もうすこし頭を冷やしてから、だけど。これからどうするのか。きちんと冷静に、考えなくちゃ……。
 夏の早朝、私はシャワーを浴びながら、どうしようかな、と寂しく呟いた。
 
 
 
 
 
   
 
 
 
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