#45.錯乱
 
 
 
 
 「うわ、瑛治……おまえ、その顔……」
 翌朝、教室に入ったときの梓の第一声はそれだった。
 「オス、梓」
 俺はそれだけ言ってさっさと自分の席に着き、机に伏せる。自分の顔の酷さは、出掛けに鏡で見てきたので十分わかっている。
 「オ、オス……って、そうじゃねえだろ!オイコラ、瑛治!」
 梓はなにやら一人で突っ込んで、伏せている俺の頭をばしばしと叩く。
 「痛いからやめろよ」
 「昨日、なにがあったか教えてくれたらやめてやる!」
 それから梓は、「あーあ、髪もヒドいな……本当にどうしたんだ、瑛治」と小さく呟いた。
 俺は、髪にはそこそこ気を遣っているほうだと思う。毎日欠かさずワックスで髪を整えてくるのは中学のときからの習慣だから、こんなに髪がめちゃめちゃな状態で学校に来るのは、もしかしたら小学校のとき以来ではなかろうか。
 「梓、痛いって」
 「俺は、おまえが心配でしょうがねえんだよ。だからほら、さっさと教えろ。俺が髪、やってやるから」
 頼んでないって、という言葉を飲み込んで、俺は渋々顔を上げた。梓はまったくいつも通り――髪型も完璧だし、両耳にはピアスが2つずつ光っている――だが、表情だけは暗かった。本当に俺を心配してくれているらしい。昨日も、なにも言わないで帰っちゃったしな。
 「どれがいい?」
 そう言って梓が鞄から取り出したのは、3,4種類のワックスだった。ケースの色が一つずつ違う。なんだよこいつ、いつもこんなにワックス持ち歩いてんのか?
 「じゃ、これ」
 俺は自分がいつも使っているのと同じ、緑色のケースのものを指差した。梓は「おう」と返事をして、蓋を開け、ワックスを指で掬う。
 「なんだよ梓、ホントにやってくれんのか?」
 さすがに教室のど真ん中だし、恥ずかしいぞ。俺はそう思ったのだが、梓は大真面目な顔をしていた。本気である。
 「俺、美容師志望だから」
 「マジ?」
 「マジ」
 初めて聞いた。なかなかに驚いたので、一睡もしていない頭が、少しだけ覚めたような気がする。
 
 「やだ高槻、なにやってんのよ」
 クラスの女子が3人くらい、クスクス笑いながら俺たちに近寄ってきた。
 「なにって、ヘアスタイリング?」
 「誰の……って、久保くん?!!」
 女子3人が素っ頓狂な声を出したので、頭が、また少し覚めた。「ああ、まあ」とわけのわからない返事を、目を見開いて俺を見つめている女子たちにした。
 「久保くん、もしかして、なんか感動する映画でも見た?あ、もしかして、昨日9時からやってたやつ?」
 「ああ、まあ」
 昨日の夜9時、俺はテレビを見ている心の余裕なんかなかったし、ちなみに俺は映画で泣いたことがない。だけどめんどくさいから、そういうことにしておいた。
 「やだ、あれで泣いたのぉ?久保くんて、意外と涙もろいんだあ」
 ……なんだか、昨日の件について言われてるみたいで、ちょっと胸が痛い。俺だって、こんなに自分の涙腺が弱いとは、思ってなかったぞ―――。
 「お前たち、ホントうるせえなあ。いま瑛治は、ちょっと大変なんだよ。だから、さっさとあっち行け!」
 「なによぉ高槻ってば。私たちは久保くんに話してんのー」
 「瑛治は、俺と喋ってんだろ?見たらわかんねえのかよ」
 「やめときなってミナコ、梓、イライラしてんのよ。まどかがまだ来てないから」
 「あ、そっかー。ごめんね、高槻。まどかなら、もうちょっとで来ると思うよ?」
 ミナコと呼ばれたその女子は、馬鹿にしたように笑うと、どっかに行ってしまった。その女子のあとを、一緒にいた2人の女子も追う。
 「……だから俺、あいつら、嫌いなんだ」
 梓が悔しそうに呟く。その様子がなんとなく可笑しかったから、少し笑ってしまった。
 「いいよなあ瑛治は、なんだかんだ言ってモテるんだから。目が腫れてたって、感動する映画を見て泣いたんだって勝手に勘違いされてよぉ」
 「いいのか、それって」
 俺が言い返すと、「俺が目腫れてたら、まどかちゃんとケンカしたとか言われるのがオチなんだっつの」と梓に返された。そこで俺は、また少し笑う。
 「まあ、いいけどなあ。ほら、出来たぞ」
 梓は言って、俺に手鏡まで貸してくれた。鏡を覗き込むと、顔は今朝のままだが、髪型は完璧であった。むしろ、いつもよりずっといいんじゃないかってくらい。
 「うまいもんだなあ」
 「だろ?」
 梓が得意げに言う。俺は素直に感心していた。梓にこんな特技があるなんて、すごく意外だ。
 「今度、なんか奢ってやるよ」
 「マジ?」
 梓は嬉しそうな顔をして、すぐに真顔に戻った。
 「それで、昨日、なにがあったわけ?髪、やってやったんだから、聞かせろよな」
 
 
 
 
 「……んなこと、現実にあるモンなんだなあ」
 すべてを話し終わって俺がため息をつくと、梓は本当に驚いたようにそう言った。
 「なんつーか、マンガに出てくる奴みたいなことするのな、その……なんだっけ、ヒューガ?お、名前もマンガみたいだ」
 「……ほんとにな」
 ヒューガ、って、どういう字書くんだろ。耳で聞いただけじゃ想像できないな。……いや、別に想像しなくてもいいか。
 「んでもよお、そんなやつ、たいしたことねーんだろー?あ、でも岸浜南だから、アタマはいいんだよな。あ、でもアタマだけだろ?ガリ勉君だろ?瑛治のが、カッコイーだろ?」
 「そんな、一気に喋るなよ」
 梓が焦っているのがよくわかる。こいつ、単純だから、考えていることがすぐに表に出るんだよな。俺と姫桜のこと、本当に心配してくれてるんだ。
 「ほら、おまえ、顔もいいし、背もでかいし、性格も、いいし。負けないって、その、変な名前の奴にはよぉ。どうせ、たいしたこと、ねーんだろ?」
 「いや……」
 俺は思わず口篭もった。噂のヒューガ君は、ガリ勉君とは程遠い容姿だったからだ。
 まず、背は俺より少し高かった。髪は梓よりも少し暗いブラウンで、無造作ヘアのくせに、妙にセンスあったし。そして顔は、悔しいし認めたくないけど―――。
 「なに、カッコイーの?」
 「……言いたくないけど、カオ、すげえ、よかった」
 俺は深いため息と共にそう吐き出した。
 端整な顔立ち、とでも表現したら良いのだろうか。あいつの顔を一目見て――しかもあんなときに――ハッとしてしまった。正直言って驚いたのだ。まさかあんなにかっこいい奴だと思わなかった―――。
 「うーわー、マジで?」
 梓はがっくりと肩を落として、さっきの俺よりも深いため息をついた。あまりにも反応が素直なので、なんだか面白い。俺が気持ちを表す前に梓が表してしまうから、俺は結局、見かけ上だけは平然としている羽目になる。
 「姫桜ちゃん、モテんのかあ」
 「中学ん時はそうでもなかったんだけど」
 いつの間にあんな奴に目つけられてたんだよ、まったく。俺は心の中で、姫桜にそんな悪態をついてやった。
 俺みたいなフツーの奴が、あんなすげえのに敵うわけないだろうが。顔も良くて、背高いし、なんか全体的に格好いいし、頭だっていいんだから。
 ……しかも、おまけに。
 「でも、まだなんもされてねえんだろ?宣戦布告だけだろ?」
 まだ、なんもされてねえんだろ?……イエ、もうされたんですよ、それが。俺も信じたくないけど。
 「宣戦布告って……」
 「つーか、彼氏いる女を狙うなよな!潔くあきらめろっての!顔がいいからって、誰でも振り向くと思うなよ!」
 梓が一人でわめいているので、みんな笑いながら梓を見ている。……ああ、俺が言いたいこと、そのまま言ってくれてありがとう。それ、昨日ヒューガ君に言ってやりたかったよな。
 
 昨日、姫桜と別れるときに、俺は泣かないように必死だった。
 男のくせに泣くなんてみっともないけど、家に帰ってきたら、自然と涙が出てきた。もちろん、わんわん泣いたわけではないけれど、ちょっとだけ、泣いてしまった。
 かっこよく別れたつもりだったけど、果たしてあれでよかったのか?あそこはもう少し俺が大人になって、仲直りするべきだった?
 そもそも姫桜は悪くないわけで、あのヒューガ君が一方的に姫桜を好きなわけで。そりゃ、あんな格好いい奴が傍にいたら、少しは気になるのかもしれないけど。
 だけど姫桜は、俺と付き合ってるわけだし。そうだよな、たとえ、ヒューガ君が、姫桜の頬に、キスをしたとしても―――。
……。
 「あー……」
 俺は無意識に低くうめいた。ため息しか出てこない。なんであんな厄介な奴に好かれてんだ、姫桜は。
 だいたい、姫桜にキスしていいのは俺だけだし、姫桜に触っていいのも俺だけだ!……なんてことを、思ってしまう。
 独占欲、ってヤツなのだろうか。俺はこの独占欲ってやつに、昨日初めて気付いた。前から少しは抱いていた気持ちなんだろうけど、ヒューガ君の出現によって、俺ははっきりとこの“独占欲”というヤツに気付いてしまったのだ。
 ……姫桜は、モノじゃないんだからよ。
 それはわかっている。わかっているけど、なんだかものすごく腹が立つ。あいつが姫桜の頬にキスしたかと思うと、もう、腹が立ってどうしようもない。
 こんなの、いつもの俺じゃない。俺はこんな性格じゃなかったはずだ。なのに、もう、腹が立って、どうにもこうにも……。
 
 「で、ケンカしたまんま別れちゃったわけ?」
 「え?」
 梓がふと俺にそう問い掛けたので、俺はそこでハッと我に返った。
 「姫桜ちゃんと、ケンカしたんだろ?そのまま帰ってきちゃったのか?」
 「あ……まあ」
 「あーあ、姫桜ちゃん、かわいそー。でも、それと同じくらい、瑛治も、かわいそうだ」
 梓はそう言って、「俺が珍しくジュース奢ってやるから、さっさと姫桜ちゃんと仲直りしてこいな。その変なヤツに姫桜ちゃん取られでもしたら、許さねーぞ」と大声で言い、走って教室を出て行ってしまった。
 「あ、おい、梓……」
 「久保くん、おはよう。梓くんどうしたの?」
 「あ、椎名……」
 振り向くと、椎名が立っていた。今さっき来たらしい。俺の顔を見るなり、ぎょっとして、「や、やだ、どうしたの?!」とおろおろし始めた。
 「や、なんでも……」
 「なにかあったの?もしかして、いま梓くんが叫んだりしてたのも、久保くんのこと?」
 「あ、ああ、まあ……」
 俺は適当にごまかして笑って、席を立とうとした。
 そうしたら、あっという間に梓がファンタを2本抱えて戻ってきて、「あ、まどかちゃん!ちょっと聞いてくれよ、ひでーんだよ、瑛治がさあ……」と、椎名にまで詳細を話し始めたのだ。
 ……ああ、椎名にまで伝わってしまった。まあ、いっか。
 わけのわからないモヤモヤした気持ちはまだ残ったままだけど、梓に話したおかげで、少し気が楽になった。
 俺の代わりに、梓が怒ったりわめいたりしてくれるから、なんだか嬉しかったりする。友達って貴重だよな、と今さらながら思ったりして。
 
 
 またこれからも、姫桜と一緒にいられるだろうか?
 
 騒がしい梓の声を聞きながら、俺はたまに相槌を打って、頭の隅っこでそんなことを考えていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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