#43.カップルクラッシャー
 
 
 
 
 「電話、切れた……」
 俺は無意識に、そう呟いた。携帯から流れてくるツーツーという音だけが、耳の中に虚しく響いている。
 「瑛治?」
 俺の数学のノートに何やら意味不明の落書きをしていた梓が顔を上げて、不思議そうに言った。
 「なした?顔色悪くね?」
 梓が続けた。俺の異変を感じ取ったらしい。
 当の俺は、いま、何が起きたのか、よくわかっていなかった。電話の向こうで、いま、何が起こったんだ?
 頭の中がぐちゃぐちゃだった。……とりあえず、発信履歴を確認してみよう。もしかして、相手、間違えたのかも。
 “7/7 月 16:02 香坂姫桜”―――間違ってない。俺はいま、ちゃんと、確かに、姫桜に電話したんだ。
 ―――じゃあ、いまのは、なんだ?
 
 「瑛治、どうしたんだよ。おまえ、マジで顔色悪いぞ」
 急にぐっと腕をつかまれて、我に返った。振り向くと、梓が心配そうな顔で俺を見ていた。
 「……姫桜、が」
 ―――香坂、借りるよ。
 聞いたことのない男の声が、俺の耳の中に残っている。俺よりもずっと低い声。小さかったけど、言葉ははっきりと聞こえた。
 「姫桜ちゃん、どうかしたのか?」
 「いや……」
 どうかしたってはっきりわかるなら、そっちのほうがよかった。この状況じゃ、どうかしたのか、そうじゃないかもわからない。
 「大丈夫か?」
 梓は本気で心配してくれているらしい。何があったのか話したいが、俺自身よくわかっていないから、どうしようもない。
 とりあえず、わかっていることをきちんと整理しよう、と思った。いまわかっていること。姫桜に電話したら、変な男が電話に出たこと。
そのまま電話が切れてしまったこと。
 それから―――姫桜が、いま、あの男と一緒にいるってこと。
 「……行ってくる」
 「はあ?どこに」
 「駅」
 俺は梓の返事を聞かないうちに、鞄をつかんで、猛ダッシュで教室を出た。階段を駆け下りる。なにも考えられない頭の中に、今日チャリで
来ててよかった、なんてことが一瞬浮かんだ。
 駐輪場で自分のチャリを見つけると、すぐさま飛び乗って、全速力で漕いだ。学校から駅までは、チャリで30分弱というところである。
 
 ―――姫桜。
 心の中で呟く。俺の、大事な、大好きな、彼女の、名前。
 なにがあったのかはわからない。姫桜がなんで、あの男と一緒にいたのかもわからない。俺がいま、なにをすればいいのかもわからない。
 だけど、確かめたいと思った。姫桜に会って確かめたいと。
 あの男とは、なんの関係もないと―――姫桜に、直接、言ってほしいと。
 電話の直後は軽くパニック状態に陥っていた俺だが、チャリを漕いでいるうちに少しづつ冷静になってきていた。
 冷静になってきたためか、姫桜を信じている一方で、変な考えが頭をよぎった。そんなことあるわけないだろうと、考え直す。だがまた、
その嫌な予感は頭をよぎっていくのだった。
 とりあえず、姫桜に早く会いたい。さっきの電話はただのいたずらなんだと、確かめたい。
 だから俺は、駅で姫桜を待っていよう。何時になっても構わないから、ずっと、姫桜が南沢駅の改札口から出てくるまで、待っている。
 俺はそう決心して、またペダルを漕ぐ足に力をこめる。自分でも驚くほどのスピードが出た。
 
 
 
 
――姫桜視点――
 
 
 「おい、待てよ香坂!」
 「追いかけてこないでよ!早く学校、戻ったら?!」
 私は大声で、すぐ後ろを追いかけてくる日向に言った。まだちょっと走っただけなのに、足がもつれる。
 日向は足が速いから、足の遅い私はすぐに追いつかれてしまった。ぱしっ、と腕をつかまれる。
 「離して!」
 「やだ」
 「離してってば!」
 私は日向の腕を振りほどいて、また走り出す。息が上がってきた。こんなに全速力で走ることなんて、めったにないんだもの―――。
 
 あのあと、瑛治に何回も電話をかけたけど、繋がらない。怒ってるんだ。そう思うと、余計に焦った。
 早く、帰らなきゃ。直接会って、なんでもないって言わなくちゃ。一刻も早く帰りたい―――だから私は、こうして駅まで走っているの
だった。
 「香坂!」
 日向の声が聞こえる。だけど構わないで走った。
 いま、この瞬間に、瑛治が私のことをどう思っているだろうと考えただけで、不安でたまらなくなった。私と日向は全然関係ないけど、
そんなこと、瑛治が知るはずもない。あんなことされたら、瑛治に疑われたって当然……。
 駅まではあと少しだった。ふと目頭が熱くなって、喉が痛くなってきた。泣くもんか、と歯を食いしばる。絶対に、泣くもんか。
 
 駅に着いたときにはもうくたくたで、思わず力が抜けて、その場に座り込みそうになった。
 電光掲示板を見ると、4時36分の電車があった。あと10分弱。ちょうどいい。今のうちに、落ち着かなきゃ。息は上がってるし、
髪はめちゃめちゃだし、汗かいてるし。喉も渇いた。
 空いているベンチに座って、携帯を開く。着信もないし、メールも来てない。……やっぱり、怒ってるんだ。
 不安ばかりが胸に募っていく。やだ。どうしよう。もし嫌われてたら。こんなことで、私たち、だめになっちゃったりしたら―――。
 「香坂」
 いま一番聞きたくない声が、頭上から降ってきた。どくん、と胸が鳴る。
 「無視かよ。人がせっかく追っかけてきたってのに」
 恐る恐る顔を上げると、息を切らした日向が立っていた。茶色い髪が、すこし乱れている。額にはうっすら汗が浮いていた。
 「おいおい、なんて顔してんだよ」
 日向が端整な顔をすこし歪ませて、笑う。日向はいつも、こんなふうに、相手を馬鹿にしてるような、苦笑いのような、そんな笑い方をする。
 「……いま、日向の顔、見たくない」
 私は小さな声で言って、立ち上がる。日向のことを無視して、まっすぐ改札口に向かった。
 ……なんで、追いかけてくるのよ。いったい日向は、なにをしたいの?どうして私に、こんなこと……。
 「まだ、返事も聞いてないだろ」
 それでも日向は、まだ追いかけてきた。私と一緒に改札口を抜けて、同じホームに向かう。
 「ちょっと日向、いい加減にしてよ!アンタ、どこまでついてくるつもり?!」
 ホームへ続く階段を下りながら、私は怒鳴るように言った。もう本当に、いい加減にしてほしい。
 「なに勘違いしてんだよ。お前、知らねえの?俺、南沢第二中出身なんだけど」
 「……え?」
 「電車とか、たまに一緒になるだろ」
 ……まったく知らなかった。じゃあ、降りる駅も一緒ってこと?
 「……知らないわよ、そんなこと」
 ホームに出ると、ちょうど電車が滑り込んできた。まだ日向と一緒にいなきゃいけないのかと思うと、息が詰まる。最悪だ。
 「俺は知ってたけど」
 電車に乗り込んだあとも、日向は当たり前のように私の隣に座ってきた。だから、私はすこし、日向と距離を取る。
 「いつも参考書読んでるやつだなーって思ってたら、お前でさ。電車、ときどき一緒になるから、その度に見てた」
 そう言って日向は、私に笑いかけた。さっきみたいな笑い方じゃなくって、もっと、柔らかい顔で―――。
 なぜか、どきんとした。なんて綺麗な顔で笑うんだろう、なんて思ってしまったから。
 「そしたら、なんか知らないけど、好きになってた」
 日向がそう言った途端、ドアが閉まった。静かに、ゆっくりと、電車が動きだす。
 
 「……私、彼氏いるから」
 小さな声で、俯いて言った。またあんな笑顔を向けられたら困る、って思ったから。
 「ああ、そう。でも俺、そういうの、あんま気にしないんだよな。なんなら、二股でもいいけど?」
 日向が言い放った言葉に、私は思わず目を見張った。日向、いま、なんてこと……。
 「最低……」
 私は思わず言った。日向がわからない。性格最低のくせに、あんな顔して笑ったり。かと思ったら、こんなとんでもないことを言ったりする。
 「そう?」
 「やっぱり、日向なんか、大嫌い……」
 「そう言われると、なにがなんでも欲しくなるんだけど」
 日向がそう言って、私の腕をつかんだ。強い力で、ぐいっと引っ張られる。
 そして―――。
 
 一瞬、頬に、柔らかい感触。それが日向が私の頬にキスをしたからだと気付くのには、そんなに時間はかからなかった。
 「日向、い、いま……」
 「唇にしたら、いくら俺でも、罪悪感感じるから」
 日向がフッと笑う。
 「な、なにしてんの……こんなとこ、で……」
 「誰も見てねえって。てか、なんでそんなに焦ってんの?キスくらい、彼氏ともするだろ?」
 『次は南沢、南沢に止まります。お降りの方は、お忘れ物のないよう……』
 アナウンスがかかる。私は立ち上がって、「最低!」と日向に言い放った。今にも泣きそうで、こらえるのがやっとだ。
 「香坂ってホント、気ィ強いよなあ」
 日向が、馬鹿にしたようにクスクス笑う。「ほら、鞄。俺に持たせる気か?」と、私の鞄を持ち上げた。
 「触んないで!」
 私は日向の手を思い切り叩いて、奴の手から鞄をひったくる。
 電車が止まる。もどかしい。早く、早く開いて。こんなやつと一秒でも長く一緒にいたら、頭がおかしくなりそう……!
 ドアが開いた途端に、急いで降りる。さっき、日向にキスされた右頬を何度も擦りながら、階段を駆け上った。
 ……やだ。最低。日向なんかにキスされたってことが、悔しくてたまらない。
 これから瑛治に、謝りに行くのに。唇ではないにせよ、他の人にキスされたってことが、瑛治に悪くてしょうがなかった。私、このまま
瑛治に会ってもいいのかな、とまで思ってしまう。
 
 改札口を抜けて駅の待合室を出ようとしたとき、いきなり腕をつかまれた。なんとも言えない感情が突き上げてきて、力いっぱい、その
腕を振り払う。
 「やめてってば!」
 振り払ったあと、なにも反応がない。おかしいと思って、ゆっくりと振り向いてみる。
 「姫桜……?」
 振り向くと、そこには―――なんと、瑛治がいた。
 「え、瑛……」
 「どうした?」
 「瑛治……や、やだ……ごめん、私、瑛治だって、思わなくて……」
 瑛治の顔を見た途端ホッとして、涙がこぼれそうになる。瑛治はいつもより険しい顔をしていた。髪がぐちゃぐちゃだ。
 「ごめん、瑛治……あの……」
 「姫桜、右頬、どうかした?」
 私はそう言われて、ハッとした。瑛治の視線は私の右頬に注がれている。やだ私、無意識に、ずっと擦ってた……?
 「あ、違うの……なんでもな……」
 「なんだよ、そんなに嫌だった?」
 瑛治とは違う声がして、私は思わず、いま声がした方向を見る。すると、改札口から出てきた日向が、まっすぐこっちに向かってきている
のだった。
 「ひゅ、うが……」
 「それとも、思い出してた?」
 日向が、ニヤリと笑う。私にではなく、瑛治に向けて。
 
 
 ―――やだ、やめて。
 
 
 心の中ではそう言えるのに、なぜか言葉にならない。
 
 
 ―――やめて。壊さないで。
 
 
 私はもう一度心の中で、日向にそう言った。だけどそんなことは、日向にはわかるはずもなく。
 瑛治の表情が少しづつ変わっていくのを、私は見逃すことができなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
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