#36.思いがけない提案
 
 
 
 
 ……やべ、寝そうだ。
 俺は目をこすって、一生懸命黒板を見る。先生が何か話している。そういえば今、数学の時間だっけ。
 一昨日からそんなに寝ていないせいか、授業中が眠くてたまらない。ああ、まだ3時間目だ。今日の授業、半分も終わってないのかよ……。
 
 姫桜とデートしたのが一昨日。姫桜とキスしたのが一昨日。……眠れなくなったのも一昨日から。
 何回も何回もそのことを思い出して、思い出すたびに顔がニヤけそうになる。かと思えば、恥ずかしさでどうしようもなくなったりする。
 ―――あいつが、あんなに顔近づけるから。
 あの日の姫桜はいつもより格段に可愛くて――いや、いつも可愛いんだけど――、俺も妙に意識してしまったのだ。
 俺はというと、迷った挙句いつものラフな格好だったし、姫桜を駅で見たときは本当にびっくりした。
 それに、姫桜、なんて初めて呼んだ。呼ぶたびにドキドキしたけど、あいつが俺を『瑛治』って呼ぶときのほうが数段ドキドキした。
 デート、名前を呼ばれること、キス―――全部が初めてで、嬉しいような恥ずかしいようなくすぐたい気持ちでいっぱいだ。
 ドキドキしたりニヤけてみたり。とにかく俺は一昨日から、ずっとそんな状態であった。
 
 「じゃあ、テスト範囲は42ページまでな。まだ簡単なところだから、がっちり点数取るように。じゃ、今日はここまで」
 妄想にふけっているうちに、あっという間に授業は終わってしまった。先生の言葉と同時にチャイムが鳴る。
 ……テスト?
 なにか引っかかったものがあった。テスト?なんだっけ、それ。
 「テスト範囲、40ページもあるぞ。殺す気かよ!」
 休み時間になり、梓が本当に泣きそうになりながら俺の席に来た。
 「な、梓」
 「なんだよ」
 「テストって、いつだっけ?」
 今日は5月28日だ。テストはいつだったっけ。確か6月にあったはずじゃ……。
 「お前バカ?もう10日切っただろうが。6月の6日から8日だよ」
 ……マジですか。全然、知らなかったんですけど。
 「英語と世界史と、あと古典と現代文は範囲出てんぞ。化学はまだ」
 そう言って梓は、黒板横の掲示板を指差す。確かに何やらプリントがごちゃごちゃ貼ってあって、みんなが必死にメモを取っていた。
 「……マジ?瑛治、本当に知らなかったわけ?」
 「やべ……」
 本気で焦ってきた。高校に入ってから最初の定期テストでコケるのは、さすがにまずいだろ。
 「あ、お前、姫桜ちゃんのことで頭いっぱいなんだろ。テストのことなんて考えてる余裕ないんだろ」
 「うるせえな。んなわけねえだろ」
 梓、お前はエスパーか?なんでわかるんだよ。俺は心底びっくりして、声が上擦ってしまう。
 「そうなのか。いやあ、もしかして、チューしちゃった?」
 「ち、違うっての!」
 「おー、そうかあ。瑛治も大人になったなー」
 「違うっつってんだろ!」
 俺は全力で否定するが、梓はまるで聞く耳を持たない。それどころかもっと調子に乗って、「な、キスの次は?進んだ?」なんて聞いて
くる。
 「うるせえ!黙ってテスト範囲写させろ!」
 「えー、なんで俺が」
 「自分で写しに行くのめんどくさいんだよ」
 俺がそう即答すると、「んだよ、ちょっと大人の階段を上ったからって」とわけのわからないことを呟きながら、しぶしぶメモを差し
出してくれた。範囲が出ていない教科以外は全部写してある。
 
 「偉いなー、お前。結構マメなとこあるんだ。意外に」
 梓にしてはやたら細かく写してある。テスト日程、それにページ数、単元まで。
 「……まどかちゃんの写したから」
 「へ?」
 「まどかちゃんの写させてもらったんだよ。だから俺がマメなんじゃなくて、まどかちゃんがマメなの」
 梓が照れながらぼそぼそと言う。さっき、俺をからかっていたときとはえらい違いだ。
 「ふーん。なんだよ、仲いいんじゃん」
 「……最近、たまに、一緒に帰るくらいだよ」
 梓、本当に椎名のことが好きなんだなあ。照れながらぼそぼそと、でも嬉しそうに話す梓を見ていて、俺まで嬉しくなってしまう。
 「うまくいくといいな」
 「まあ、相手がまどかちゃんだから、そう簡単にうまくいくとは思ってないけどな。俺は今のままで満足だし」
 「そっか」
 うまくいけばいいな、と思う。きっと梓なら、椎名のこと、すっごく大切にするだろうから。
 「勉強でも教えてもらえば?椎名、実は頭いいんだろ」
 「……明日、約束、した」
 なんだよ。ちゃっかりしてんじゃん。俺は笑って、「頑張れ」と付け加える。
 俺は椎名と梓が二人で一緒に帰っている場面を想像して、思わずニヤけてしまった。本当に心から、うまくいけばいいなと思う。
 
 
 
 ―――なんなんだこれは。なんでこんなに、漢字だらけなんだ?
 その日の夜8時、俺は世界史のプリントを眺めて唖然としていた。そこには、わけのわからない言葉が大量に並んでいたのである。
 クロマニョン人、打製石器、旧石器時代……うんうん。この辺はわかるぞ。で、次はなんだ?……劉邦、陳勝・呉広の乱、楽浪群……
なんだよこれは!
 まったく、漢字の書き間違えで30点くらい落としそうな勢いである。今回の範囲は中国の歴史ばっかりなので、漢字しか出てこないのだ。
 ……まだ、カタカナの方がマシだ。だいたいこれ、漢字を覚えるだけで1週間かかるぞ……。
 世界史の授業なんて、寝てはいないものの、黒板に書かれたことを機械的にノートやプリントに写しているだけなのだ。それをこれから
覚えようなんて、無茶すぎる。
 よし、やめよう。世界史は後にして、俺は英語をやるぞ。
 あっさりとあきらめて世界史のプリントを机の隅に追いやる。そして英語の教科書を鞄から取り出したところで、携帯が鳴った。
 ……メール、姫桜からだ。
 その瞬間にテストのことなど全部忘れて、俺はすぐにメールを開く。
 『こんばんはー。来週はテストです。だからいま、必死に勉強中!』
 最近のメールは短文だ。日常的なことばかり話してるから、前みたいに長文っていうのはめったにない。それが自然で、逆に嬉しかったりも
するんだけど。
 『俺もだよ。来週の水曜から金曜。かなりヤバい』
 すぐに返信する。そうか、姫桜もテストなのか。……岸浜南のテストって、どんなんだろ。数学とか、範囲が100ページくらいあったりして。
 必死に勉強している姫桜の姿が目に浮かんだ。受験のときもすごかったもんな、あいつ。
 姫桜はかなりの努力家だから、そこは本当にすごいと思う。中学時代、俺は姫桜を『ガリ勉』なんて言ってからかっていたけど、心の中では
ひっそり尊敬していた。
 
 『あ、私のところも一緒だよ。じゃあ来週の土日のどっちか、また会えるね』
 姫桜からそう返信が来て、ドキッとした。そっか。2回目のデート、か……。
 『そうだな。今度はどこ行く?』
 そこまで打って、ふと手が止まる。もう少しで俺たち、付き合って、1ヶ月になるんだよな……。
 つい1ヶ月前のことを思い出す。告白したときは、緊張しすぎて死にそうだったな。もう二度とないんじゃないかってくらい、バカみたいに
緊張して。
 『もう少しで付き合って1ヶ月だよな』
 そう付け加えて返信する。俺たちが『恋人』になってから、もう1ヶ月。あっという間だったような、長かったような。
 『そうだね。あ、あのね。来週の土曜日なんだけど』
 ……来週の土曜日が、なんだ?姫桜のメールはなぜかそこで途切れている。
 『なんかあんの?』
 俺がそう返信すると、またすぐに返信が返ってきた。
 『よかったら、うちにこない?』
 ……え?
 読んだ瞬間、胸がどくんと鳴る。え?姫桜んち?俺が?
 いや、もう付き合って1ヶ月なんだし、そろそろうちに呼んでもいいかなとは思うけど。だけど予想もしていなかった提案だけに、変な動悸が
治まらない。
 ……家に呼んでもらえるってことは、つまり、会うよな。その、親とかに。
 それを考えるとまたドキドキしてきたので、考えないことにした。とりあえず『本当に?』という返事を送っておく。
 『うん。その、瑛治さえよければ……』
 その控えめな返事に違う意味が隠されているような気がして、思わず深読みしてしまう。
 ああ、俺は何を考えてるんだ、まったく。ただ家に呼ばれただけなんだから、こんなに緊張することないだろ。
 『俺は全然いいけど。じゃあ来週の土曜、お邪魔するよ』
 なんとなく、顔が熱いような気がする。心臓があまりにもドクンドクンいってるから、どうかしてしまったんじゃないかと思うくらいだ。
 
 ……姫桜の家ってことは、姫桜の部屋、だよな。ずっと友達だったけど、家に行ったことはない。
 呼んでくれるんだから、信用されてるってこと?部屋に入れてくれるんだから、そういうことになるよな……。
 嬉しいやら緊張やらでおかしくなっているところへ、また一昨日のことを思い出す。
 なに考えてんだ俺は。そう思うほどに思い出してしまって、叫びたくなった。なに妄想してんだ俺は。変態かよ……。
 「瑛治、入るよー」
 「げっ」
 ノックもせずに梨乃が部屋に入ってきた。思わず顔をしかめてしまう。
 「なによその顔。……あれ、瑛治、なんか顔赤くない?」
 梨乃はそう言って、まじまじと俺の顔を覗き込む。
 「いつもと同じだっつの。あんまり見てんじゃねえよ!」
 「うわー、かわいくなーい。あ、もしかして、エッチなことでも考えてた?」
 「そ、そんなわけないだろ!」
 余計なことを言うな、余計なことを!いま一番考えたくないことをさらっと言うな!このバカ!
 俺は心の中でそう叫びながら、「なんの用だよ。俺、テスト勉強で忙しいから」と冷たく返す。
 「冷たいなー。じゃ、用件だけね。来週の土曜って空いてる?」
 「来週の土曜?」
 「うん。律くんがうちに遊びに来るんだけど、瑛治に会いたいんだって。前から言ってたんだよね。梨乃の弟、見てみたいーって」
 「断る」
 俺は単語をノートにつらつらと書きながら、答える。
 「なんでよー。あ、あたしは律くんの弟に会ったわよ?それがさ、すごくかっこよくてー、もう、あれじゃモテモテって感じね。本当に
かっこいいんだから!」
 「あっそ」
 「つれないわねー。なんか予定でも入ってるわけ?」
 「……べつに」
 「あ、いま、間があった。なに、彼女でもできたの?」
 字が思いっきり曲がる。せっかくきれいに書いてたのに、台無しである。まあどうせ、きれいに書いたって、頭には入らないんだろうけど。
 「用が済んだら部屋に戻れ、このバカ」
 「あ、できたの?本当に?きゃーっ、さっさとうちに連れてきなさいよ!ね、可愛い?!」
 「……できたなんて言ってねえだろ」
 まあ、いずれ梨乃にも母さんにもバレるんだろうけど。うちに連れてくることになったら、さすがに黙って連れてくるのは気が引けるし。
 「白状しちゃいなさいよ。ね、名前は?どんな子?」
 「うるせえっつの、バカ」
 「バカバカ言わないでよね!……早く会いたいなあ、瑛治の彼女。ちゃんと大事にしてあげなきゃダメよ?」
 「……わかってる」
 梨乃にしてはまともなことを言うなあ。そう思って、素直に頷く。
 「ちゃんと大事にしてあげて、むやみに手なんか出しちゃダメだからね」
 「……うるせえ」
 まともなことを言う、なんて思った俺がバカだった。なんだよこいつ、なんでこういうことをさらっと……。
 「当分はキス止まりで……」
「っ……わかったからもう出てけ!わかったから!」
 耐え切れなくなった俺はそう叫び、無理やり梨乃を部屋から追い出した。
  
 『な、キスの次は?進んだ?』
 『よかったら、うちにこない?』
 『当分はキス止まりで……』
 いろいろなことが一気に浮かんできて、思わず「うぅ……」とうめく。なんだよみんなして。俺が考えないようにしてたことを。
 付き合うっていうことは、つまり、いずれは、そういうことも、あるってことで。もう1ヶ月付き合ってて、キスも一応して……。
 その次?その次って、いったいなんだ?前に梓が言ってた、恋のABCってやつか?
 ……姫桜は、そんなこと、全然考えてないんだろうなあ。あいつは何も考えずに、ただ単に、家に呼んでくれただけなんだろうなあ。
 俺がおかしいんだろうか。こんなことをいちいち考えて悩んでる俺って、やっぱり、ただの妄想癖……。
 「気にしない、気にしないぞ、俺は」
 俺はぶつぶつと呟いて、英語に集中しようとする。だけど姫桜の顔が浮かぶ。キスしたときの感触が蘇る。
 忘れもしない。それどころか、やけにリアルに鮮明に残っている。だから何度も思い出すのだ。
 
 
 テストまであと8日。姫桜に会うまであと2週間弱。
 テストへの焦りと来週の土曜への緊張が入り混じりつつ、俺はなんとか勉強を始めることにした。
 ……ま、そのときになれば、なんとかなるだろ。なんとか。
 
 
 
 
 
 
 
 
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