#37.“可愛い”が止まらない
 
 
 
 
 「あーっ、やっと終わった!ヤバかったけど、とりあえず終わった!」
 6月8日の3時間目、世界史。これで前期中間テストはすべて終了である。
 「俺、世界史満点だわ、多分」
 「嘘つけ」
 梓の自信満々な表情に、俺は思わず笑ってしまう。まあ俺も、満点まではいかなくても意外とできたんだけどな、世界史。
 「化学と数学は死んだ。英語はバッチリ」
 「俺はその逆だよ」
 梓は完全に文系人間らしく、確かに英語や国語は得意である。俺はというとその正反対で、英語がものすごくヤバい。30点取れてるのか
危ういところだ。
 とりあえず今日でテストが終了したので、みんな晴れ晴れとした顔をしている。俺もとりあえず、結果のことは考えないようにした。
 「梓くん」
 ふいに背後から可愛らしい声がして、俺は思わず振り向く。
 「あ、まどかちゃん」
 「そろそろ帰る?もう解散だよね?」
 「うん」
 梓はものすごく嬉しそうな顔で頷き、「じゃ、俺帰るわ」と満面の笑みで俺に言った。
 「おー、がんばれ」
 なにが『がんばれ』なのかはよくわからないが、とりあえず今の俺の正直な気持ちである。なんだよ、うまくいってんじゃねえか、梓のヤツ。
今まで『高槻くん』だったのに、『梓くん』なんて呼ばれちゃって。
 ホントに付き合っちゃうかもな、こいつら――なんて思いながら、梓と椎名の後ろ姿を見送る。二人が行ってしばらくしてから、俺もゆっくり
と階段を下りていった。
 ―――実は結構、うらやましかったりする。
 姫桜は電車通学だから、一緒に帰ることは絶対にできない。だから、一緒に下校しているカップルを見ると、なんとなくうらやましくて寂しい
気持ちになるのだ。
 制服デートとか、俺たちはめったにできないもんな。できないわけじゃないけど、するとしたら、わざわざどこかで会わなきゃいけないわけ
だし。
 ……って、なに考えてんだ俺は。明日、姫桜に会えるだろうが。
 明日の約束を思い出してドキッとする。本当は今すぐに会いたいし声も聞きたいけど、明日のために我慢することにした。
 『1時に、うちに来てくれるかな……・か。俺は何日か前の姫桜のメールの文面を思い出して、一人でニヤけたい衝動に駆られる。
 
 今日は自転車で来たので、俺は初夏の風に吹かれつつ、ゆっくりと家路につくことにした。
 ―――気持ちいいなあ。
 俺はやっぱり、この季節が一番好きだ。春と夏の真ん中。夏の一歩手前。なんとも言えない微妙な季節。6月の、暖かいような涼しいような風。
 去年の今ごろは何してたっけ、なんて考えながら、ゆっくりペダルを漕ぐ。姫桜のことがまず先に浮かんできて、それから桐島や他のクラス
メイトの顔が浮かんできた。
 今年も一緒にいられるんだ、姫桜と。しかも、友達じゃなくて、恋人っていう関係で。
 幸せを噛みしめながら、さらに自転車を走らせる。高校1年生の初夏。テスト明け。いい天気。最高にいい気分で思いきり風を吸い込んで、
それから、サドルをぎゅっと握る。
 早く家に帰って、明日のために心の準備でもしてよう。俺はそう思い、自転車を加速させた。
 
 
 
 
 ああ、緊張する。死んでしまいたいくらい緊張する。
 俺はとりあえず早歩きで、早く着き過ぎないように、かと言って遅く着き過ぎないように、いろいろ歩く速度を調節しながら、歩いていた。
 土曜日。姫桜の家に初めてお邪魔する日。緊張しすぎて眠れなかった。これじゃ、初デートのときとまったく同じ状況じゃないか。
 徐々に近づきつつある姫桜の家。インターフォン押すときって、おそらく、一番緊張するよな……。そんなことを思っていると、あっと
いう間に着いてしまった。
 そして、深呼吸をしようとした……のだが。
 「あ、いらっしゃい」
 なんと、姫桜が玄関先で俺を待っていてくれた。玄関の階段のところに座り込んでいたのだ。
 「あ、あ……」
 「今日、3時くらいまで誰も帰ってこないんだって。そっちのほうが瑛治も緊張しないよね?」
 「あ、まあ……」
 インターフォンを押すシミュレーションまでしていた俺にとっては予想外の展開だが、まあいいか。一つ緊張する局面が減ったわけだし。
 ……って、え?
 俺はいま、姫桜の口から何か聞いたような気がする。いやいや、気のせいだと思うけど。ていうか思いたいけど。
 ……もしかして、いま、誰も、いない?
 「瑛治?どうしたの?」
 「あ、いや……」
 ふと我に返ると、姫桜がもうドアを開けて俺を待っていた。俺は急いで中に入り、小さく「お邪魔します」と言う。
 初めて来る姫桜の家はしーんと静まり返っていて、物音一つしなかった。……そりゃそうだよな。誰もいないんだから。
 誰もいない。ってことは、この家に、俺と姫桜、二人きり……?
 「いま、お茶とか持ってくね。先に行ってて。一番奥の部屋だから」
 「あ、はい……」
 さっきから、ろくな返事をしてないような気がする。そう思いながら、とりあえず階段を上り、姫桜の部屋に向かった。
 
 一番奥の部屋のドアが半分くらい開いていたから、すぐにそこが姫桜の部屋だとわかった。
 「お邪魔しまーす……」
 俺はそっと姫桜の部屋に入り、静かに床に座った。まわりをきょろきょろと見まわす。
 ―――きれいな部屋だなあ。姫桜らしいっていうか、なんていうか。片付いてるし、参考書も本もたくさんあるし。あ、でも、意外と女の子
らしいかも。
 奥の棚の上にはマニキュアの小瓶やら香水やらがちょっと並べられていて、女の子だなあ、なんてドキッとした。ぬいぐるみもたくさん
あるし、カーテンはピンク色だし、なんだか可愛い部屋、という印象である。
 「……なに、じろじろ見てんのよ」
 「あ、いや、その、べつに」
 いつの間にか、姫桜がお盆を持って俺のすぐ後ろに立っていた。怒っている、というよりは、恥ずかしいといった表情だ。
 「昨日急いで片付けたの。まだ散らかってるから、あんまり見ないで」
 「……これで」
 散らかってるってか?
 おいおい。俺の部屋だって、最高にきれいにしたってこんなにならないぞ。……っていうか、俺の部屋、この部屋の十倍くらい汚いかも。
 本棚にある本を一冊、手にとってみる。『号泣する準備はできていた』。俺はまったく本を読まないので、何の本なのか、誰が書いてるのか
は全然わからない。
 「勝手に見ないでってば!」
 俺がページをパラパラとめくっていると、横から姫桜に本をひったくられてしまった。
 「……あのなあ」
 部屋の中をじろじろ見るのもダメ、本棚の本をパラパラめくるのもダメ。それなら俺は、いったい何をしていればいいんだ。
 「じゃあ俺、なにしてればいいんだよ」
 「な、なにもしなくていいのっ。別に、じろじろ見る必要ないでしょ?!」
 姫桜の頬がうっすら赤くなっている。……これはもしや、恥ずかしがっているんだろうか。怒っているわけじゃなくて、単に恥ずかしいん
だろうか。
 「じゃあ、どこを見てろと」
 「……」
 俺が訊くと、姫桜は黙って俯いてしまった。『号泣する準備はできていた』を持ったまま、顔をすこし赤くして、下を向いている。
 
 ―――ああ、なんか……妙な雰囲気になってきちゃったなあ。
 どうすればいいんだろ、こういうときって。経験豊富なヤツとかは、「じゃあお前だけ見てる」とか言っちゃうんだろうか。……とても
じゃないけど、俺にはそんなこと、できやしないし。
 いやいや、でもそうやって言ってみたら、雰囲気がグッとよくなるかも。
 「……姫、桜」
 「……」
 姫桜は相変わらず下を向いていた。どうすればいいのかわからないんだろう。俺も同じだが。
 「……お前、のこと、見てれば、いいわけ?」
 どうしていいのかわからない動揺ついでに、途切れ途切れに、そんなことを口にしてみた。
 「……部屋、じろじろ、見られるよりは」
 姫桜が俯いたまま言う。予想外の反応に俺の胸が思い切り反応する。ドクン、という高鳴り。変な胸騒ぎ。
 「……上、向いたら?」
 俺がそう言うと、姫桜がゆっくりと顔を上げる。頬はやっぱり赤くて、すこし泣きそうで、なんだか可愛い。
 「姫桜」
 ほぼ無意識に、姫桜の髪に触れた。姫桜の肩がびくん、と震えたから、すぐに手を離す。
 「……嫌?こういうの」
 俺が訊くと、姫桜は小さく首を横に振った。その反応がものすごく可愛く思えたから、今度は姫桜の肩を引き寄せて、ゆっくりと、
姫桜を抱きしめてみる。
 「瑛治」
 俺の腕の中で、姫桜が震える声で呟いた。可愛くてたまらない。「なに?」と優しく訊き返して、腕の力を強めた。
 「あの、ね……」
 「うん」
 「なんか、こういうの、慣れてないから、その……恥ずかしい、ね」
 途切れ途切れの姫桜の声は、俺の腕の中でくぐもって聞こえた。姫桜は本当に本当に恥ずかしそうで、いつもの勢いがまったく感じ
られない。
 だけど、そんな姫桜を見れるのは俺だけかと思うと妙に嬉しくなって、もっと調子に乗りたくなる。可愛くて可愛くて仕方がなくて、
姫桜のこんな表情を、もっと見ていたいな、なんて―――。
 「姫桜、上向いて」
 「え?」
 姫桜がきょとんとした顔を俺に向けた隙に、姫桜の唇を奪う。
 一瞬唇を離して、またキスをする。姫桜が俺の服の袖をぎゅっとつかんでいる。それがまた、たまらなく可愛い。
 「……びっくり、した」
 すこしだけ長いキスのあとに、姫桜が本当にびっくりしたような顔で俺を見た。俺はちょっと笑って、姫桜の髪にまた触れる。
 「なんか、瑛治じゃないみたい」
 「なんだよそれ」
 「今日の瑛治、いつもより、男の子に見える……」
 姫桜がじっと俺を見つめる。すこしだけ潤んだような目がまた可愛くて、またキスしてやろうか、という衝動に駆られる。
 「姫桜も、いつもと全然違うよな。いつもの威厳がまったくない」
 「威厳ってなによ、威厳って」
 姫桜がいきなりいつもの口調に戻って、俺をキッと睨みつける。
 「それそれ。それが威厳」
 「……じゃあ、今日の私って、なによ」
 姫桜が小さな声で呟く。
 「―――今日の姫桜は、すっげえ、可愛い」
 俺はそう呟いて、また姫桜にキスをした。今度はすこし、深いのを。
 キスの仕方なんてまったく知らないけど、雰囲気でなんとかなるモンなんだな……そんなことを考えながら、また姫桜を抱きしめて、
何回も何回も、キスをする。
 可愛すぎて止まんない。そんなこと言ったら、姫桜、怒るかな……。
 
 
 テスト明けの土曜日、姫桜の部屋。
 俺と姫桜は、まったく予想もしていない甘い展開に、なりつつある―――。
 
 
 
 
 
 
 
 
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