#31.午前零時の約束
 
 
 
 
 「……死ねって言ったのはひどいかな」
 少しの間の後、ふいに梨乃が口を開いた。もう完全に泣き止んではいるが、まだ目がかなり赤い。
 「ちょっとな」
 俺がもし香坂に死ねなんて言われたら、もう絶対に立ち直れないと思う。
 「謝らなくちゃダメだよね」
 「ああ」
 「でも律くん、きっともうあの高校生と……」
 「そんなのわかんねえだろ。ちゃんと確かめろよ。本当に浮気だったら、死ねでも殺すでも好きに言ってやればいいんだから」
 「……そっか」
 梨乃はこくん、と頷いて、俺のベッドの上にどさっと倒れこんだ。
 「あたし、瑛冶が弟じゃなかったら惚れてるかも」
 「バカ言ってんじゃねえよ」
 俺は笑ってそう言い返した。昔から姉弟仲は悪くない。むしろいいほうだと思う。
 梨乃はけっこう俺に相談してくるが、俺は梨乃に相談はしない。だが俺は密かに、梨乃が自分を頼ってくれてるのが嬉しかったりもする。
 大した答えは出せなくても、梨乃は俺に話を聞いてもらっただけですっきりするらしく、いつも勝手に話して勝手に出て行くのだ。
 
 「そういや瑛冶、アンタさあ……」
 梨乃がなにかを話し始めようとしたときだった。
 机の上の携帯が震えた。あー、マナーにしてたっけ……なんてぼんやりとしながら、電話かメールかを確認する。
 電話。着信、香坂姫桜。
 俺はすぐに電話を取り、「もしもし」と焦った声を出した。ドキドキする。
 『久保?久しぶりだね。テスト、やっと終わったよ』
 電話の向こうで何気ない話をする香坂は、2週間前となんら変わりがないように思える。
 だけど俺にとっては新鮮で、聞きたくてたまらなかった香坂の声が耳元でするだけでも死ぬほど嬉しくて―――。
 
 梨乃がそっと部屋を出て行くのがわかった。あいつなりに察してくれたんだな、とちょっと感謝する。
 『久保?』
 「あ、ごめん。ボーっとしてた」
 『もう、久しぶりに話すのに』
 「だからごめんって」
 すこし怒った香坂の声が、すごく可愛い。いま、ちょっと拗ねたような顔してんだろうな、なんて思ってしまう。
 『テスト多くて嫌になっちゃう。こうやって話すの、すごく久しぶりだよね』
 「まあな。岸浜南なんて、すっげえ勉強大変なんだろ?」
 『大変大変。最近はけっこう慣れてきたけど』
 「頑張れよ。俺のことはあんまり気にしないでいいから」
 『……そんなわけに、いかないでしょ』
 「そっか」
 思わず顔がニヤけてしまう。香坂も、俺のこと、考えてくれてんだ―――付き合っているんだから当たり前のことといったら当たり前
だけど、なんだかすごく嬉しくなる。
 
 香坂が電話をくれた。それだけで、2週間のブランクも、不安もぶっ飛ぶ。
 会いたい、会いたい。顔が見たい。ちょっとでいいから、会えないかな?そうだな、今週の土曜にでも……。
 言いたいことはたくさんある。メールは毎日しているけど、メールだけじゃ足りないのだ。
 「香坂」
 『なに?』
 「……あのさ、今週の土曜日。どっか、行かないか?」
 どっか行こうって誘うだけなのに、こんなに恥ずかしいものなのか。顔が熱くなるのを感じて、何とも言えない気持ちになる。
 『今週の土曜日、って26日?』
 「ああ」
 香坂は手帳か何かをパラパラめくっているらしい。電話の向こうでかすかに音が聞こえる。
 『よかった、空いてる』
 安心したような声が聞こえてホッとした。ここで断られたら、ちょっとショックだもんな……。
 「どこ行くかは全然考えてないんだけど」
 『そんなことだろうと思った』
 香坂がくすくすと笑う。……俺、まったくの無計画で口に出したからなあ。女の子と二人で出かけたことなんてないから、どこに行けば
いいかなんて全然わかんないし。
 おまけに、緊張してるっていうの、絶対香坂にも伝わってる。なんか俺、とことんかっこ悪いな……。
 
 『岸浜なら、いろいろあると思うけど』
 少しの間の後、香坂がそう言った。
 「ああ……」
 『行くところ決めなくても、ただ行くだけで楽しいし』
 「そうだなあ」
 そっか、岸浜ならいろいろあるよな。歩いてるだけで一日終わりそうだし……。
 そもそも、デートスポットとして思い浮かびやすいところ――遊園地とか水族館とか――って、この辺にはないんだよな。ちょっと足を伸ばせ
ばあるけど、けっこう金かかるし。
 「とりあえず岸浜にするか。そういや俺、見たい雑貨屋あったんだよな」
 前に桐島と岸浜に行ったときに見つけた雑貨屋だ。面白そうなものがたくさん置いてあって、気に入ったのを覚えている。
 『私、あの駅前の本屋さん見に行きたいなって思ってたんだけど、いい?』
 「ああ、最近オープンしたよな。すごいでっかい本屋。いいよ、俺も見てみたいし」
 ……良かった。これなら行くところに困ることはなさそうだ。
 初めてのデートなのに、香坂を退屈させたらまずいもんな。しょっちゅう岸浜に行ってるわけじゃないからよくわかんないけど、お互いの
見たいところを回ってれば退屈しなさそうだし。
 『じゃあ26日は岸浜ね。楽しみだな』
 香坂と二人で出かけられることもすごく嬉しいのに、香坂の嬉しそうな声が俺をもっと嬉しくさせた。
 「俺も……楽しみにしてる」
 『うん』
 こういう雰囲気にまだ慣れないから、一言一言がすごく難しい。
 両想いっていう実感もまだないし、メールを頻繁にしてるのもここ最近だし、電話をしたことだってまだ数えるくらいだし。これが付き合う
ってことなんだよなって思うけど、まだ自分には関係ないことのように思えたりもする。
 2週間前、香坂に告白したときのあのふわふわしたような落ち着かない気持ちが、いまだに続いている。そんな気がするのだ。
 『あ、じゃあ私、そろそろ寝るね。今時計見たらもう12時でびっくりしちゃった』
 「ほんとだ。こんな遅くまでごめん」
 壁時計を見ると、長針と短針が、ちょうど12のところで重なっていた。
 『ううん。また明日メールするね』
 「わかった。おやすみ」
 『おやすみなさい』
 ツーツーという電子音が、耳の中に虚しく響いた。
 誰かと電話を切ったあとって、こんなに寂しかったっけな。メールを切ったときのほうが寂しくないな……なんて思う。
 俺は壁に掛かっているカレンダーの、26日のところに赤い丸をつけた。ほんとは『香坂と初デート』なんて書きたいくらい嬉しいけど、
それはさすがに恥ずかしいのでやめておいた。
 
 落ち着くためにベッドに寝転がって、ボーっと天井を見つめる。
 26日まであと3日。あと3日で香坂に会えるのかと思うと、ドキドキする。ものすごく楽しみにしている自分がいて、なんだか可笑しい。
 「あー、そういや……」
 梨乃の話、なんだか中途半端だったよな。今日の話はいつものノロケ話じゃなかったので、なんとなく続きが気になっていたのだ。
 あいつ、まだ起きてっかなあ。梨乃は寝るのが遅いので、まだ起きているとは思うんだけど。
 俺はそっと部屋のドアを開けて、梨乃の部屋の前まで行ってみた。父さんと母さんは、もうとっくに寝ている。
 トントン、と部屋をノックしようとしたときだった。
 「……ん、わかった。じゃあ、明日行くね……」
 梨乃の小さな声が、ドアの外にすこし漏れている。電話、しているのだろうか?
 「ちゃんと話……くれたら、うん……だいじょぶ……」
 若干、梨乃の声が泣き声のように聞こえた。電話の相手は律くんか、と直感で思う。
 聞いちゃマズいよな、さすがに。盗み聞きは悪い。うん。
 ちゃんと電話しているところを見るとだいぶ落ち着いたようだし、俺も安心して寝れる。さっさと寝よう。
 そう思ってそっと部屋に引き返そうとすると、急に梨乃の部屋のドアが開いた。「ひっ」と小さく悲鳴を上げてしまう。
 「瑛冶……」
 「や、俺、なにも聞いてないから。話の途中だったから気になったんだけど、電話してたみたいだったし」
 「うん。わかってるから。ちょっと来て」
 そう言うと梨乃は部屋に引っ込んだ。俺はしょうがなく梨乃の部屋に入る。
 
 「お前の部屋、相変わらずピンクだらけだよな……」
 「ほっといてよ」
 乙女趣味、とでも呼ぼうか。梨乃の部屋は、カーテンやベッドはもちろんピンク色、そしてオーディオやら携帯やら、周りのものも
ほとんどピンク色で固められているのだ。
 机の上にはマグカップが置いてあって、半分くらいまでコーヒーが入っていた。たぶん、もう冷めてしまっているだろうけど。
 「律くんに、電話したの。そしたら、明日会おうって」
 「そっか」
 俺は相槌を打ちつつ、床に座ろうとする。間違ってぬいぐるみを踏んづけてしまい、「バカ!」と梨乃に怒鳴られてしまった。
 「最初のほうは誤解なんだ、って弁解してたんだけどね。あたしがあまりにも怒ってるから、直接話そうって」
 「電話だと埒が明かないからな」
 「そうそう。やっぱ、顔見て話したほうがいいよね。あたし、アンタのお陰ですこし冷静になったから。電話してるときも、べつに
怒らなかったよ」
 梨乃は、ベッドに置いてある小さなくまのぬいぐるみを切なそうに見つめた。律くんから貰ったのかな、と思って俺まで切なくなる。
 「ま、冷静になって話すのが一番じゃねえの?ほんとに浮気だったら殴ってきてもいいぞ」
 「そうするつもり」
 「俺はたぶん、誤解だと思うけどな」
 「……うん」
 梨乃は力なく頷くと、もう寝ようかと言った。それから、遅いのにごめんね、とも。
 こんなに元気がない梨乃を見るのは初めてのことだから、柄にもなく心配なんかしてしまう。
 
 明日も学校があるから7時に起きなければならない。
 それは十分わかっているはずなのに、26日のことを考えたり梨乃のことを考えたりすると、妙に目が冴えてしまって眠れなかった。
 
 
 
 
 
   
 
君の瞳に完敗。Top Novel Top 
 
inserted by FC2 system