#30.恋愛に悩まされる姉と弟
 
 
 
 
 「あ、そういやどうなったん?なんだっけ、えーと……姫桜ちゃん?」
 昼休み、梓がパンをかじりながら――購買で一番人気のパンだ。4時間目終了後、すっ飛んでいってゲットしたらしい――思いついた
ように言った。
 「え」
 俺は食べかけのウインナーを危うく落とすところであった。危ない危ない。
 「や、どーにかなったのかと思ってさあ。だってまどかちゃんを振るほど好きなんだろ?な、告った?告った?」
 聞こえなかったフリをして黙々と弁当を食べつづける俺に、梓が嫌な感じの笑みを浮かべて言った。
 「うるせえなあ、もう」
 「お、照れてる。もしかしてうまくいったとか?」
 うっ。今度はハンバーグを喉に詰まらせるところだった。いいから、メシ食ってるときくらい黙れよ!そう心の中で叫ぶが、梓の言った
ことが図星なため「……べつに、そんなことは」という微妙な反応しかできなかった。
 「ウソだー。顔に出てるぞ。うまくいったって」
 梓は不貞腐れたように言い、「ずるいよなあ瑛冶だけ」と呟いた。
 ……うまくいったなんて、一言も言ってないんだけど。や、うまくいったのは事実だけどさ。
 「あー羨ましい。なんだよ、ったく……瑛冶ばっかり幸せな思いしやがって。姫桜ちゃんとケンカしてしまえ!」
 「梓、ホントうるせえ」
 教室のど真ん中で喚く梓を黙らせようとするが、こんな風になった梓を黙らせるのはなかなか難しい。とりあえず、放っておくことにした。
 
 5月中旬過ぎ―――テストまであと2週間くらい。だけどそんなことは、俺にはほぼ関係がないと言ってもよかった。
 この2週間に考えていたのは香坂のことばかりで、勉強なんてまるで手につかない状態。梓にも「瑛冶、最近ボーッとしてるよな」と
言われる始末。
 それくらい、恋ってものが自分を変えた。すげえな、なんて漠然と思う。
 すごく幸せなのだ。香坂が俺を好きだって言ってくれたこと。香坂が俺の彼女になったこと。
 幸せで幸せで信じられないくらい嬉しいけれど、その反面不安も大きい。というか、最近不安がどんどん増えてきているような気がする。
 最初の1週間は、幸せで何も手につかなかった。だけどそのあとの1週間は、不安で何も手につかなかった。
 香坂と付き合い始めて、2週間。
 付き合う、という行為にこんなにも不安が付きまとうものだなんて知らなかった俺は、正直のところどうしていいものか全くわからない。
 好きなひとと付き合えた。俺はかなりの幸せ者だ。
 だけどその反面、不安も大きい―――。
 
 「あー、羨ましいなあ……。好きなヤツと付き合うってさ、どんな感じなんだ?」
 梓が食べ終えたパンの袋をガサガサと丸めながら、急に真面目な顔になって言った。
 「どんな感じって……」
 「や、単に嬉しいとか幸せってだけじゃないだろ?あ、向こうも瑛冶のこと好きだったのか」
 「あー……まあ、そうらしいけど……」
 好きだ、って言ってくれたよな、香坂。告白した日以来まともに会えてないから、最近はその言葉も夢だったんじゃないかと思うように
なってきた。
 「そんじゃいいよな。不安とかないんだろーし」
 「いや、そうでもない」
 俺は弁当箱の蓋を閉め、すこし声を顰めて言った。……こんな話、教室でする話じゃないからな。
 だけど梓がいつになく真剣な顔なので、なんとなく話さなければならない雰囲気である。
 「なんでだよ?片想いで付き合い始めたワケじゃないんだろ?」
 「なんでって言われるとなあ……」
 香坂が勉強忙しいから会いたいって言い出せないとか、初めての彼女だからどうしていいかわからないとか、そんなことは恥ずかしくて
到底言えそうにもない。だけどもっともらしい理由も見つからない。
 「瑛冶、付き合うの初めてじゃないんだろ?」
 「……初めてだけど」
 だって、中1のときから香坂に片想いしてたんだぞ。心の中でそう付け加える。
 「ええ?嘘だろ?!なんかお前、よーく見たら結構モテそうだぞ」
 梓がよーく見たら、の部分を強調して言った。
 「全然モテねえし。つうか梓、お前なかなか失礼だぞ」
 「モテるって。うちのクラスの女子の何人か、久保くんかっこいいーって言ってるってさ。まどかちゃんが言ってた」
 「あっそ……」
 人を話のネタにするなよな、まったく。梓と椎名に噂されてると思うと、なんか嫌だな……。
 とは言え、自分がモテると聞かされて気分が悪いヤツはいないだろう。俺もどちらかといえば嬉しい。香坂にしか興味がないとはいえ
嬉しくなってしまう。
 「ったく、この贅沢モンが。好きな子と付き合えただけでいいと思え」
 梓が悪戯っぽく笑って俺の頭を軽く叩く。半分冗談、半分本気―――そのように聞こえたから、胸がすこし痛んだ。
 そうだよな。俺の今の状況を考えたら、「すっげえ幸せ」って思ってなきゃなんないんだよな……。
 そうなんだけど、な。
 付き合うということに、どうしてこんなにも不安は付きまとうんだろう。
 
 
 
 
 「……もう別れる!あんなヤツ、大嫌い!」
 「あっそ、勝手にしろよ。だいたいなあ、なんで俺の部屋に押しかけてきてまでこんな……」
 「だって瑛冶、なんだかんだ言って優しいんだもん」
 梨乃が涙でめちゃくちゃになった顔を俺に向ける。あーあ、ひでえ顔。いつもメイクばっちりの梨乃を見てるから、スッピンの上、泣き
まくった顔を見せられるとどうもなあ……。
 「あのな、俺、自分のことで忙しいんだけど」
 「そんなこと言わないで聞きなさいよ!律くんね、女連れ込んでたのよ!お・ん・な!」
 「あっそ……」
 俺としては全くどうでもいい話題だ。だいたい俺、その律くんってのに会ったことねーし。
 「ほんと信じらんない!しかも高校生よ!どっかの高校の制服着てたもの!あー、ムカつくっ!高校生なんてガキじゃないのっ。ガキ!」
 「そのガキに彼氏の浮気相談してんのはどこの誰ですかねー……」
 俺は呆れた顔をして、梨乃がティッシュで涙を拭いている隙に自分の携帯を盗み見る。
 ……着信ナシ。鳴ってないんだから、当たり前だけど。
 
 まあ、梨乃の今までの話――だいぶぶっ飛んでてめちゃくちゃだが――をまとめると、こうだ。
 梨乃の彼氏の律くんが、浮気をしていたというのである。しかも浮気相手は高校生。
 昨日の夜、バイトを終えた梨乃がいつも通り律くんの部屋に向かったらしい。ちなみに律くんは一人暮らしである。俺がそのとき、だから
半同棲状態なんだ、と思ったことは言わなかった。
 チャイムを押したけれど、律くんが出てこない。梨乃は事前に行くことをメールしてあったらしいから、いないということはないのに。
 試しにドアをガチャガチャやってみる。開いた。なによもう、無用心だなあ……。コンビニに買い物でも行ったのかな……。
 そう思った梨乃は、まず玄関を見て仰天した。女子高生の履くローファーってやつが、きれいに揃えて置かれていたからだ。
 悪いとは思ったが、恐る恐る部屋の中へ。すると、楽しげな笑い声が聞こえてきた。
 ……あー、説明すんの疲れた。ここから先は、梨乃による回想に任せよう。
 
 「律くん……」
 「あ、梨乃……」
 「なにやってんのよ、この子誰?」
 「あ、いや……その、違う。この子は……」
 「誰って訊いてんのよ。誰よこの高校生」
 「や、だから。勘違いするなよ。この子は俺の弟の彼女で……」
 「なによアンタ、弟の彼女にまで手出したわけ?サイテー。信じらんない」
 「誰もそんなこと言ってないだろ!ちゃんと最後まで聞けよ!」
 「もーいい!最悪!ちょっとかっこいいからって、誰にでも手出すわけ?」
 「おい梨乃、少し落ち着けって。お前が思ってるようなことじゃないんだよ」
 「これ見て落ち着けって?!ふざけんなバカ!死ね!」
 
 ……そして梨乃は泣きながら、持っていたコンビニの袋を思い切り律くんに投げつけたらしい。ちなみにその袋には、缶チューハイが
2本と、プリンが2つ入っていたという。
 コンビニの袋は律くんにクリーンヒットしたらしく、頬を押さえて痛がっている律くんを高校生の彼女が心配そうに見ていた。梨乃は
さらにキレて、泣き喚きながら駅まで走り、家路についたのだ……。
 
 「お前、ホント短気だよな。聞いてやればよかったじゃん。律くんの言い訳」
 「冗談じゃない!なによ、なんで高校生なのよ。あんなガキ、ちょっと可愛くてちょっと胸がデカそうだっただけじゃない!」
 そんなとこ見てる暇あんなら、やっぱり律くんの言い訳聞いてやったほうが良かったんじゃねえの?……と思ったことは言わなかった。
 「……信じられない。バカ。最低。なんで浮気なんて、浮気なんて……」
 梨乃が本格的に泣き出した。ギャーギャー泣くのではなく、しくしくと静かに泣き出したのだ。
 ……こういう雰囲気、苦手なんだよなあ。これならまだ、ギャーギャーわけわかんないこと言いながら泣かれたほうがずっとマシだ。
 「好きだったのに。大好きだったのに。なんであんな小娘に取られなきゃなんないのよ……」
 どう声を掛けていいかわからない。どうやら梨乃は、相当参っているらしかった。
 「あ、あのな、梨乃……。こういうこともあるってことで……」
 「こういうことってどういうことよ!確かにあたしはバカだし何にもできないし、べつに美人なワケじゃないわよ。だけど、律くんのこと
だけは自慢だったの!あんなにかっこよくて頭が良くて、優しいんだもの!確かに……確かに、あたしと律くんが付き合ってたこと自体、おかし
かったのかもしれないけど……」
 ど、どうすればいいんだろう……こういうときって……。
 梨乃は悪くない、ってのはとりあえずわかる。だけどその女子高生って、もしかしたら本当になんの関係もないかもしれないじゃないか。
 「梨乃、あのさ……」
 「なによ」
 「とりあえず、もう一度律くんに連絡してみろよ。浮気じゃないかもしれないぞ」
 「……嫌よ。あんな醜態さらして、もう律くんに会えない」
 「そんなこと言って、本当に別れたらもっと嫌だろ」
 「……」
 梨乃は泣くのをやめて、黙り込んでしまった。
 
 ……あー、どうしよう。ホント、どうしよう。
 自分のことでも悩みは尽きないのに、姉の悩みまで聞いてる余裕は、俺には……。
 
 俺の部屋には、鳴らない携帯電話とすすり泣く姉が残された。
 ―――ああ、どうしよう。本当に。
 
 
 
 
 
 
   
 
 
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