#32.律くんの釈明 梨乃視点 
 
 
 
 
 あたしはいつものように律くんの部屋の前に立って、深呼吸をした。
 足が竦む、ってヤツだ。足がガクガクして、ここまで歩いて来れたのが不思議なくらいだった。
 来慣れたはずの律くんの部屋。なのに今日は、全然違う人の部屋の前に立っているように思える。
 ―――しっかりしなくちゃ。このまま先延ばしにしたって、いいことないんだから。
 あたしは両手をぐっと握りしめて、律くんの部屋のチャイムを押した。ピンポーンという電子音が、誰もいない廊下に響く。
 ドアが静かに開いて、律くんが「入って」といつものように言った。笑っているけど、顔色が悪い。ドキッとする。あたしのせいかな、
なんて。
 
 「梨乃、何飲む?」
 この言葉もいつも通りだ。あたしはいつも、昼間に来たときはコーヒーか紅茶、夜に来たときはチューハイかビールと答えている。
 「……なんでもいいよ」
 緊張が収まらなくて、やっぱり足がガクガクする。律くんはあたしが立ちっぱなしでいることに気付いて、「座りなよ。いつも勝手に
座ってるだろ」と笑いながら言った。
 ……どうして?どうしてこんなにいつも通りに接するの?なんで笑えるの?あたしはこんなに緊張してるのに―――。
 「はい」
 律くんはコーヒーを淹れてくれて、あたしの前にことんと置いた。お揃いのマグカップ。あたしのはピンクで、律くんのは青色だ。去年の
クリスマスに二人で見つけて買ったものだった。
 あたしは律くんの考えていることがわからなかった。こんなときにお揃いのカップでコーヒーを出してくるなんて、どうかしてる。
 「梨乃、もしかしていらない?あ、コーヒーじゃなくて、紅茶がよかったか?」
 からかうような口調。これもいつも通りのことで、あたしはこのあと、『そんなことないよ』って笑って返すのだ。いつもは。
 「……どうして?」
 「え?」
 「どうして、こんなふうにするの?なんでいつも通りなの?あたし、わかんない。律くんがなに考えてるのか、わかんないよ……」
 涙がぽろぽろ零れてきて、あたしのスカートに小さな染みをつくる。やだ、あたし、なんで泣いてるんだろ―――そう思ったときにはもう
遅くて、涙はとめどなく溢れてきていた。
 「梨乃……」
 「わかんない。あたし、どうしたらいいの?こんなふうになっちゃって、あたし、どうしたらいいのよ……」
 あたしはほんとにバカだ。昨日、瑛治の前で泣いたみたいに、めちゃくちゃに泣いている。せっかくしてきたメイクも、きっと全部落ち
ちゃうんだろうな。
 今日のメイクは、いつもよりも濃い目にした。自信がつくように。強がりが強がりじゃなく、本当に強く見えるように。なのに、こんなに
泣いたら、それも台無しになっちゃう。
 「梨乃、落ち着けよ」
 「どう落ち着けっていうの?あたし、今日すごく緊張して来たんだよ。なのに律くんはいつも通りなんだもん。どうして?どうして、
そんなふうにできるの?」
 「いいから落ち着けよ。頼むから」
 律くんはそう言って、あたしを優しく抱きしめた。突然のことだったから驚いて、体が硬直してしまう。
 「律く……」
 「俺がいつも通りに接してんのは、梨乃と別れる気がまったくないからだよ」
 「……」
 「俺だって、悩んだんだぞ。梨乃は勝手に怒って出てっちゃうし、葵里ちゃんは半泣きになって謝るし。わけわかんないのはこっちの方だ」
 「……」
 「いろいろ考えて、今日はいつも通りにしようって決めたんだ。……なあ、聞いてる?」
 「……うん」
 あたしはこくんと頷いた。葵里ちゃんって誰だろって思ったけど、そんなことはどうでもいいように思えた。
 律くんがあたしを抱きしめてくれると、全部がどうでもよくなってしまう。今日は強気でいこうって決めたのに、あたし結局、律くんの
ペースに呑まれちゃうんだ……。
 「誤解なんだってことは、信じてくれるか?」
 「……半分信じるけど、半分信じない」
 あたしは、電話でも言ったセリフをそのまま返した。
 浮気した男が一番最初に言う言葉は、大抵『誤解なんだ』らしい。だからあたしも最初はまったく信じてなかったけど、律くんがあまりにも
『誤解なんだ、誤解なんだ』と言うので、半分だけ信じることにしたのだ。
 「最初から話さないと、信じてくれないか。やっぱり」
 「最初から……?」
 「葵里ちゃんがなんでここにいたのか、って理由だよ」
 律くんはそう言って、あたしを抱きしめたまま、ぽつぽつと話し始めた。
 そしてあたしは、なんであの日、女子高生が律くんの部屋にいたのか―――そのくだりを、20分程かけて聞くことになったのだ。
 
 
 「俺、あの日、弟の彼女って言ったよな」
 「言った、ような……言ってないような」
 あのときは感情が高ぶっていて、何を言ったかもろくに覚えていない。コンビニの袋を投げつけたことは、しっかり覚えてるんだけど……。
 「覚えてないか。梨乃、キレてたもんなあ」
 「……悪かったわね」
 「バカにしてるわけじゃないよ。本当に怒らせたなって、実は焦ってた」
 「……嘘。女子高生と二人っきりで、この部屋にいたくせに」
 「そうじゃない。本当は、仁もいたんだ」
 「え?」
 「葵里ちゃんは、仁が連れてきたんだ。あ、葵里ちゃんって、あの子の名前なんだけど」
 律くんの弟の仁くんは、瑛治と同じ高校1年生だ。と言っても、容姿は瑛治と比べちゃ月とスッポンなんだけど。仁くんは、律くんに
負けず劣らずかっこいいのだ。
 「あいつ、俺の彼女紹介したいって。ほら俺、梨乃のこと、仁に紹介したろ?だから連れてきたんだ」
 「そうなんだ……」
 あたしは呆気に取られて、ただぽかんとして律くんを見つめていた。予想していなかった答えだけに、返す言葉が見つからない。
 「梨乃が来たとき、ちょうど仁は買い物に出ててさ。俺んち何もなかったから」
 「……だけど、あたし、メールしたよ」
 「ああ、それは」
 律くんがいったん言葉を切って、ものすごく言いにくそうに切り出す。
 「……すげえ言いづらいんだけど、充電切れてたみたいで……。その、梨乃が帰ってから、ていうか騒動が終わってから、気付いたんだ……」
 律くんは深いため息をついて、「本当にごめん」と言ってあたしに頭を下げた。
 「ちょっ、律くん!何やってんのよ。そんなことしなくていいから」
 「いや、今回は完全に俺が悪い。全部俺のせいだ。確かにあの状況じゃ、何言っても無駄だよな……」
 「確かに……そうだけど……」
 あたしじゃなくても浮気だと思っただろう。まるで小説やドラマみたいな展開だなって、自分でもちょっと思ったもの。
 
 「本当にごめん。俺、別れられても、文句言えないな」
 「うん」
 あたしはきっぱりと言い切って、そして、今度はあたしから律くんを抱きしめた。
 「だけどあたし、別れないよ。だって、誤解なんでしょ?」
 「梨乃……」
 「律くんがそこまで言うなら信じてあげる。今度やったら、絶対に許さないからね」
 ここまで強気な発言をしたのは初めてかもしれなかった。あたしはいつも律くんに一線を引いているところがあったから。
 こんなにかっこよくて、頭が良くて、優しい律くん。そんな人の彼女があたしでいいの?なんて思って、どこかで律くんを遠巻きに見ていた。
 「梨乃、ほんと、ほんとにごめん」
 「もういいってば。許すって言ったでしょ?」
 だけどこれからは、もっと、律くんとの距離が近くなるのかもしれない―――。
 「好きだよ、梨乃。世界で一番好きだ」
 律くんがそう言って、あたしの唇にキスを落とす。
 「律くんってば、調子いいんだから」
 「バカ、本心だよ、本心。本当にいい女だよ、梨乃は」
 「褒めたってなにも出ないよ?だってあたし、何も持ってないもん」
 「持ってるよ。だって俺、こんなに梨乃に夢中なんだから」
 「律くん……」
 そして律くんは、またあたしの唇にキスを落とした。さっきみたいに柔らかいのじゃなくって、もっともっと深いのを。
 
 「あの、律くん……」
 律くんがあたしの服に手を掛けたとき、もしかしたら、なんて思う。
 「なに?」
 「あの、あたし……」
 ケンカしたあとって燃えるんだよね。友達がそんなことを言ってたのを思い出して、思わず顔が熱くなった。
 「あ、ここじゃ嫌だよな。今ベッドに連れてってやるから」
 イヤ、そうではなくて。
 ……ていうか、いつの間にかそんなことになってるの?
 「えっと、その、まだ明るいし。あたし今日泊まってくから、せめて夜にしよ?ね?」
 「夜まで我慢しろってか。無理言うなよ」
 律くんはそう言って笑い、あたしを軽々と抱き上げた。
 そしてベッドまで連れて行かれて、ドサッと落とされる。起き上がろうとしたけど、すぐに律くんが覆い被さってきた。
 「ケンカしたあとって、燃えるんだってな」
 そう言ってまた笑った律くんは、やっぱり、誰よりもかっこよくて―――。
 「梨乃、好きだよ」
 こんな風に耳元で囁かれたらたまらない。溶けちゃいそうになる。全身の力が抜けてゆく。
 あたしは律くんの優しい腕に、全部を委ねることにした。
 
 
* 
 
 
 「葵里ちゃん、すげえオロオロしてたよ」
 事が終わって一睡したら、もう午後8時を回っていた。律くんの部屋に来たのは午後3時前だったはずだ。
 窓の外は真っ暗で、当然部屋の中も真っ暗で。だけどあたしたちは電気も付けず、律くんのベッドの中で、二人で話していた。
 「ほんとに?」
 「ああ。もうすごい慌てようでさ。本当に半泣き状態。いや、泣いてたかも」
 「可哀相なことしちゃったね」
 あたしが泣かせたようなものだよね。はあ……責任感じる。
 「あのあと仁が帰ってきて、『葵里に何したんだよ!』なんて怒鳴られちゃって。仁、彼女のことすっげえ愛してるみたいでさ。もう
すぐで殴られる勢いだった」
 「あの仁くんが」
 温厚そうだったのにな。怒鳴ったり殴ったり、そんなことするんだ。
 「あたしがもし葵里ちゃんで、律くんが仁くんだったら、怒る?」
 「当たり前だろ。他のやつが梨乃に触れるなんて、考えただけでも許せない」
 律くんがそう言って、そっとあたしを抱きしめる。
 「仁くんにはちゃんと説明した?」
 「ああ。彼女が来て、怒鳴られて、コンビニの袋投げられたってな」
 「……最悪」
 「だってホントにそうだったろ?仁、大爆笑してたよ。また梨乃に会いたいって言ってた」
 「あたしは本気だったのに」
 「悪い悪い。でも、葵里ちゃんもお前に謝りたいって」
 「え、なんで?あたしが謝るほうなのに」
 「すごくいい子だよ。仁のこと、あの子なら任せられそうな気がして、安心した」
 律くんの声が優しかったので、あたしまでなんだか嬉しくなる。律くんと仁くんは、本当に仲いいんだもんなあ……。
 「今度、梨乃の弟にも会わせてよ」
 「えー。生意気だよ?」
 「いいよ。会ってみたい」
 今回のことでは瑛治にお世話になったし、ま、あいつもいい弟だよね。仲の良さじゃ、律くんのところにも負けてなかったりして。
 いつの間にかあたしの背を追い越して、『男の子』から『男』になっていた瑛治。生意気だけどほんとは優しい、あたしの自慢の弟だ。
 ……なんて、そんなこと言ったらバカにされるから、絶対言わないけど。
  
 
 律くんとの距離、またすこし、近くなったかな。
 薄闇の中にぼんやりと浮かぶ、律くんの端整な横顔。この人の隣にいられるってことを自覚するたびに、泣きたいくらいの幸せに襲われる。
 これからもよろしくね―――。
 なんて、ありきたりな言葉しか思い浮かばないけど。
 ねえ、律くん。
 こんなあたしだけど、ずっとずっと、一緒にいてね。
 
 
 
 
 
 
   
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