#32.律くんの釈明 梨乃視点
*
あたしはいつものように律くんの部屋の前に立って、深呼吸をした。
足が竦む、ってヤツだ。足がガクガクして、ここまで歩いて来れたのが不思議なくらいだった。
来慣れたはずの律くんの部屋。なのに今日は、全然違う人の部屋の前に立っているように思える。
―――しっかりしなくちゃ。このまま先延ばしにしたって、いいことないんだから。
あたしは両手をぐっと握りしめて、律くんの部屋のチャイムを押した。ピンポーンという電子音が、誰もいない廊下に響く。
ドアが静かに開いて、律くんが「入って」といつものように言った。笑っているけど、顔色が悪い。ドキッとする。あたしのせいかな、
なんて。
「梨乃、何飲む?」
この言葉もいつも通りだ。あたしはいつも、昼間に来たときはコーヒーか紅茶、夜に来たときはチューハイかビールと答えている。
「……なんでもいいよ」
緊張が収まらなくて、やっぱり足がガクガクする。律くんはあたしが立ちっぱなしでいることに気付いて、「座りなよ。いつも勝手に
座ってるだろ」と笑いながら言った。
……どうして?どうしてこんなにいつも通りに接するの?なんで笑えるの?あたしはこんなに緊張してるのに―――。
「はい」
律くんはコーヒーを淹れてくれて、あたしの前にことんと置いた。お揃いのマグカップ。あたしのはピンクで、律くんのは青色だ。去年の
クリスマスに二人で見つけて買ったものだった。
あたしは律くんの考えていることがわからなかった。こんなときにお揃いのカップでコーヒーを出してくるなんて、どうかしてる。
「梨乃、もしかしていらない?あ、コーヒーじゃなくて、紅茶がよかったか?」
からかうような口調。これもいつも通りのことで、あたしはこのあと、『そんなことないよ』って笑って返すのだ。いつもは。
「……どうして?」
「え?」
「どうして、こんなふうにするの?なんでいつも通りなの?あたし、わかんない。律くんがなに考えてるのか、わかんないよ……」
涙がぽろぽろ零れてきて、あたしのスカートに小さな染みをつくる。やだ、あたし、なんで泣いてるんだろ―――そう思ったときにはもう
遅くて、涙はとめどなく溢れてきていた。
「梨乃……」
「わかんない。あたし、どうしたらいいの?こんなふうになっちゃって、あたし、どうしたらいいのよ……」
あたしはほんとにバカだ。昨日、瑛治の前で泣いたみたいに、めちゃくちゃに泣いている。せっかくしてきたメイクも、きっと全部落ち
ちゃうんだろうな。
今日のメイクは、いつもよりも濃い目にした。自信がつくように。強がりが強がりじゃなく、本当に強く見えるように。なのに、こんなに
泣いたら、それも台無しになっちゃう。
「梨乃、落ち着けよ」
「どう落ち着けっていうの?あたし、今日すごく緊張して来たんだよ。なのに律くんはいつも通りなんだもん。どうして?どうして、
そんなふうにできるの?」
「いいから落ち着けよ。頼むから」
律くんはそう言って、あたしを優しく抱きしめた。突然のことだったから驚いて、体が硬直してしまう。
「律く……」
「俺がいつも通りに接してんのは、梨乃と別れる気がまったくないからだよ」
「……」
「俺だって、悩んだんだぞ。梨乃は勝手に怒って出てっちゃうし、葵里ちゃんは半泣きになって謝るし。わけわかんないのはこっちの方だ」
「……」
「いろいろ考えて、今日はいつも通りにしようって決めたんだ。……なあ、聞いてる?」
「……うん」
あたしはこくんと頷いた。葵里ちゃんって誰だろって思ったけど、そんなことはどうでもいいように思えた。
律くんがあたしを抱きしめてくれると、全部がどうでもよくなってしまう。今日は強気でいこうって決めたのに、あたし結局、律くんの
ペースに呑まれちゃうんだ……。
「誤解なんだってことは、信じてくれるか?」
「……半分信じるけど、半分信じない」
あたしは、電話でも言ったセリフをそのまま返した。
浮気した男が一番最初に言う言葉は、大抵『誤解なんだ』らしい。だからあたしも最初はまったく信じてなかったけど、律くんがあまりにも
『誤解なんだ、誤解なんだ』と言うので、半分だけ信じることにしたのだ。
「最初から話さないと、信じてくれないか。やっぱり」
「最初から……?」
「葵里ちゃんがなんでここにいたのか、って理由だよ」
律くんはそう言って、あたしを抱きしめたまま、ぽつぽつと話し始めた。
そしてあたしは、なんであの日、女子高生が律くんの部屋にいたのか―――そのくだりを、20分程かけて聞くことになったのだ。
「俺、あの日、弟の彼女って言ったよな」
「言った、ような……言ってないような」
あのときは感情が高ぶっていて、何を言ったかもろくに覚えていない。コンビニの袋を投げつけたことは、しっかり覚えてるんだけど……。
「覚えてないか。梨乃、キレてたもんなあ」
「……悪かったわね」
「バカにしてるわけじゃないよ。本当に怒らせたなって、実は焦ってた」
「……嘘。女子高生と二人っきりで、この部屋にいたくせに」
「そうじゃない。本当は、仁もいたんだ」
「え?」
「葵里ちゃんは、仁が連れてきたんだ。あ、葵里ちゃんって、あの子の名前なんだけど」
律くんの弟の仁くんは、瑛治と同じ高校1年生だ。と言っても、容姿は瑛治と比べちゃ月とスッポンなんだけど。仁くんは、律くんに
負けず劣らずかっこいいのだ。
「あいつ、俺の彼女紹介したいって。ほら俺、梨乃のこと、仁に紹介したろ?だから連れてきたんだ」
「そうなんだ……」
あたしは呆気に取られて、ただぽかんとして律くんを見つめていた。予想していなかった答えだけに、返す言葉が見つからない。
「梨乃が来たとき、ちょうど仁は買い物に出ててさ。俺んち何もなかったから」
「……だけど、あたし、メールしたよ」
「ああ、それは」
律くんがいったん言葉を切って、ものすごく言いにくそうに切り出す。
「……すげえ言いづらいんだけど、充電切れてたみたいで……。その、梨乃が帰ってから、ていうか騒動が終わってから、気付いたんだ……」
律くんは深いため息をついて、「本当にごめん」と言ってあたしに頭を下げた。
「ちょっ、律くん!何やってんのよ。そんなことしなくていいから」
「いや、今回は完全に俺が悪い。全部俺のせいだ。確かにあの状況じゃ、何言っても無駄だよな……」
「確かに……そうだけど……」
あたしじゃなくても浮気だと思っただろう。まるで小説やドラマみたいな展開だなって、自分でもちょっと思ったもの。
「本当にごめん。俺、別れられても、文句言えないな」
「うん」
あたしはきっぱりと言い切って、そして、今度はあたしから律くんを抱きしめた。
「だけどあたし、別れないよ。だって、誤解なんでしょ?」
「梨乃……」
「律くんがそこまで言うなら信じてあげる。今度やったら、絶対に許さないからね」
ここまで強気な発言をしたのは初めてかもしれなかった。あたしはいつも律くんに一線を引いているところがあったから。
こんなにかっこよくて、頭が良くて、優しい律くん。そんな人の彼女があたしでいいの?なんて思って、どこかで律くんを遠巻きに見ていた。
「梨乃、ほんと、ほんとにごめん」
「もういいってば。許すって言ったでしょ?」
だけどこれからは、もっと、律くんとの距離が近くなるのかもしれない―――。
「好きだよ、梨乃。世界で一番好きだ」
律くんがそう言って、あたしの唇にキスを落とす。
「律くんってば、調子いいんだから」
「バカ、本心だよ、本心。本当にいい女だよ、梨乃は」
「褒めたってなにも出ないよ?だってあたし、何も持ってないもん」
「持ってるよ。だって俺、こんなに梨乃に夢中なんだから」
「律くん……」
そして律くんは、またあたしの唇にキスを落とした。さっきみたいに柔らかいのじゃなくって、もっともっと深いのを。
「あの、律くん……」
律くんがあたしの服に手を掛けたとき、もしかしたら、なんて思う。
「なに?」
「あの、あたし……」
ケンカしたあとって燃えるんだよね。友達がそんなことを言ってたのを思い出して、思わず顔が熱くなった。
「あ、ここじゃ嫌だよな。今ベッドに連れてってやるから」
イヤ、そうではなくて。
……ていうか、いつの間にかそんなことになってるの?
「えっと、その、まだ明るいし。あたし今日泊まってくから、せめて夜にしよ?ね?」
「夜まで我慢しろってか。無理言うなよ」
律くんはそう言って笑い、あたしを軽々と抱き上げた。
そしてベッドまで連れて行かれて、ドサッと落とされる。起き上がろうとしたけど、すぐに律くんが覆い被さってきた。
「ケンカしたあとって、燃えるんだってな」
そう言ってまた笑った律くんは、やっぱり、誰よりもかっこよくて―――。
「梨乃、好きだよ」
こんな風に耳元で囁かれたらたまらない。溶けちゃいそうになる。全身の力が抜けてゆく。
あたしは律くんの優しい腕に、全部を委ねることにした。
*
「葵里ちゃん、すげえオロオロしてたよ」
事が終わって一睡したら、もう午後8時を回っていた。律くんの部屋に来たのは午後3時前だったはずだ。
窓の外は真っ暗で、当然部屋の中も真っ暗で。だけどあたしたちは電気も付けず、律くんのベッドの中で、二人で話していた。
「ほんとに?」
「ああ。もうすごい慌てようでさ。本当に半泣き状態。いや、泣いてたかも」
「可哀相なことしちゃったね」
あたしが泣かせたようなものだよね。はあ……責任感じる。
「あのあと仁が帰ってきて、『葵里に何したんだよ!』なんて怒鳴られちゃって。仁、彼女のことすっげえ愛してるみたいでさ。もう
すぐで殴られる勢いだった」
「あの仁くんが」
温厚そうだったのにな。怒鳴ったり殴ったり、そんなことするんだ。
「あたしがもし葵里ちゃんで、律くんが仁くんだったら、怒る?」
「当たり前だろ。他のやつが梨乃に触れるなんて、考えただけでも許せない」
律くんがそう言って、そっとあたしを抱きしめる。
「仁くんにはちゃんと説明した?」
「ああ。彼女が来て、怒鳴られて、コンビニの袋投げられたってな」
「……最悪」
「だってホントにそうだったろ?仁、大爆笑してたよ。また梨乃に会いたいって言ってた」
「あたしは本気だったのに」
「悪い悪い。でも、葵里ちゃんもお前に謝りたいって」
「え、なんで?あたしが謝るほうなのに」
「すごくいい子だよ。仁のこと、あの子なら任せられそうな気がして、安心した」
律くんの声が優しかったので、あたしまでなんだか嬉しくなる。律くんと仁くんは、本当に仲いいんだもんなあ……。
「今度、梨乃の弟にも会わせてよ」
「えー。生意気だよ?」
「いいよ。会ってみたい」
今回のことでは瑛治にお世話になったし、ま、あいつもいい弟だよね。仲の良さじゃ、律くんのところにも負けてなかったりして。
いつの間にかあたしの背を追い越して、『男の子』から『男』になっていた瑛治。生意気だけどほんとは優しい、あたしの自慢の弟だ。
……なんて、そんなこと言ったらバカにされるから、絶対言わないけど。
律くんとの距離、またすこし、近くなったかな。
薄闇の中にぼんやりと浮かぶ、律くんの端整な横顔。この人の隣にいられるってことを自覚するたびに、泣きたいくらいの幸せに襲われる。
これからもよろしくね―――。
なんて、ありきたりな言葉しか思い浮かばないけど。
ねえ、律くん。
こんなあたしだけど、ずっとずっと、一緒にいてね。