#29.君の答えを待つ/ずっと前から 姫桜視点
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零れ落ちた言葉はそのまま香坂を通り抜けて、地面に落ちたように思えた。
実際にそうでないことは香坂の表情を見ればわかったけれど、どうしても俺にはそのように思えて仕方がない。
―――聞こえた、よな?ちゃんと意味わかってるよな?
好きだと言って30秒くらい経った――と思う。香坂の反応はなぜかない。
「香坂……」
なんか言ってくれ。気まずくて死にそうだ。
俺は恐る恐る香坂の顔を覗いてみる。だが、周囲がもう薄暗いので、表情ははっきりとわからない。
「あの、それで―――できれば、付き合ってもらえると、嬉しいんだけど……」
苦し紛れに喋ってみる。本当に苦し紛れという感じになってしまい、自分が情けなくなった。
「……付き合うって、私と、久保が?」
香坂の声は、思ったより軽かった。目には疑問の色が浮かんでいて、あーコレ、もしかしたらダメかも……と少なからず思ってしまう。
「他に誰がいるんだよ」
俺も軽く返そうと思ったつもりが、予想以上に厳しい口調になってしまった。なんつー言い方してんだ自分。香坂は状況がよくわかって
ないだけなんだよ。焦るな、俺。
そう自分に言い聞かせるが、立場上、俺も焦らないわけにはいかない。振るならさっさと振ってくれ。何よりもこの空気が辛い。
「……その、私と、久保が?」
香坂はもう一度繰り返した。さっきよりも小さい声だったから、周りの闇に吸い込まれてしまいそうだ。
「あのな香坂、嫌ならべつに、嫌って言っても……」
「違う、違うの。ただ、その……信じられなくて」
香坂は顔を上げて、俺の腕をぎゅっと掴んで言った。どきっとする。香坂の手は思ったより冷たい。
「わかってたはずなの。自意識過剰とかそんなんじゃなくてね、もしかしたら、そうかもって。いっぱいメールくれたし、もしかしたら、
久保、私のこと好きでいてくれたのかなって」
こんなに動揺してる香坂、初めて見た―――そう思って驚いた瞬間、香坂の頬を涙がすこしだけ伝っていく。
「おい、香坂……」
「でもこうして本当に好きって言われて、びっくりして、信じられないの。ごめん……泣くなんてバカみたい」
香坂の瞳からは次から次へと涙が溢れてきたので、香坂はそれを一生懸命手の甲で拭っている。
俺は何も言えずに呆然としてしまった。一つ思うのは、香坂、なんで泣いてんだ?ということだ。
「嬉しい。すごく、嬉しいの―――」
泣きながら、香坂は俺をじっと見つめた。そう言って笑う。泣き笑いみたいになる。
「好き……」
香坂が恥ずかしそうに笑って、ほんの一言を、小さな小さな声で、零した。
驚くはずのその言葉は、なぜか俺の中にすとんと落ちてきた。落ちた瞬間、胸の高鳴りが激しくなる。
自分の中に落ちたのに、飲み込めない。本当?嘘だろ、冗談だろ?頭のどこかでそんな声がしたけれど、それを直接香坂にぶつける勇気は
なかった。
「……俺が?」
掠れた声で言った。かなり間抜けな声だっていうことは、自分でもわかった。
「他に誰がいるっていうの?」
さっき俺が訊いたことを、相変わらずの泣き笑いで返された。香坂の目元には涙が光っている。
「好きだったの、ずっと。いつからかはわかんないけど―――」
香坂の言葉が、また俺の中に落ちてくる。
ホントなんじゃねえの?頭のどこかでそんな声がした。嘘だろ、とはもう思わない。
「その、じゃあ……俺と、付き合って……くれる……のか……?」
「……喜んで」
香坂が俺に笑ったのを合図みたいに、俺は香坂を思いきり抱きしめた。
自分の目の前で起きたことが信じられなくて、どうしていいのかわからない。今の俺、きっとすげえかっこ悪い。
だけど、俺は、香坂が好きだ。どうしようもないくらい好きだ。バカみたいに大好きだ―――――。
「久保、あの……」
「あ、あ……ごめん、いきなり……」
俺は香坂を突き飛ばすようにして離す。何やってんだ俺。いくら嬉しくて仕方ないからって、いきなり抱きしめるなんて―――。
「あ、そうじゃなくて。びっくりしただけ、だから」
「悪い。いきなりこんなことして」
「ううん。ただ、温かいなって思って」
香坂はもうさすがに泣き止んでいた。公園の外灯にかすかに照らされた横顔は、俺が知っている香坂の中で一番可愛かった。
「温かい?」
「抱きしめられたなんて初めてだから……。温かいんだなあって思って」
……よくわからん。どういうことだ?
「もう、全然わかんないって顔しちゃって」
香坂はくすくすと笑って、ゆっくりと、俺を抱きしめてくれた。
―――なるほど、こりゃびっくりするわけだ。
実際俺の心臓は止まりかけた。あまりに距離が近いから、ホント、どうかしてしまいそうな気がする。
「あー、まあ、確かに……」
「でしょ?」
香坂の体温はひどく安心できて、シャンプーの匂いがして、柔らかい。……悲しいくらい要領を得ない感想である。
「心臓、止まる……」
「それはこっちのセリフ。さっき、本当にびっくりしたんだから」
耳元で香坂の声がして、いちいち胸が高鳴る。病気かなあ俺、って思うくらいに。
「……好きだ」
「……うん、私も」
もうすぐ日が暮れる。太陽が沈んでいく。
俺たちのまわりには誰もいない。俺と香坂、ふたりだけ。
すこし冷たくなった風が頬を撫でて過ぎていく。だけど寒くはなかった。
なんてったって、俺のすぐとなりには、香坂の体温があるのだ―――。
―――ずっと前から/姫桜視点―――
「ごめん、遅くなって。もう7時近いよな」
「ううん。それより、わざわざ送ってもらって悪いよ」
あれからすこし公園にいて、私たちはゆっくりと歩いて帰ってきた。
手は、繋いだり繋がなかったり。せっかく繋いでも、恥ずかしくてどちらかが離してしまうのだ。
「じゃあ、またメールする」
「うん」
久保は私の手にすこし触れて、来た道を引き返していく。ここから久保の家までは結構あるのに、ちゃんと家まで送ってくれたんだよね……。
後姿を見るだけで胸がきゅうって苦しくなったから、さっさと家の中に入った。
信じられない。信じられない信じられない。私今日から、久保の―――。
「姫桜、遅かったじゃない。すっかり唐揚げ冷めちゃったわよー」
お母さんは心配したような顔で玄関まで出てきた。……本当に心配してるのは、唐揚げが冷めたことかもしれないけど。
「ごめんなさい。ちょっと、寄るところがあって」
私はそうお母さんにそう言って、階段を一気に駆け上った。「ご飯あとで食べるね」って、ちゃんと言い残して。
「……ホント、信じられない」
真っ暗な部屋の中でぽつりと呟いて、床に座り込む。自分の部屋に戻ってきて、一気に力が抜けてしまったみたいだ。
「久保、私の……」
彼氏―――ってことだよね。両想いだったんだもの。付き合うってことになったんだもの。
彼氏。慣れないその言葉の響きは、甘くて切なくて、すこし不安が混じっている。
さっき会ったばかりなのに、会いたい。顔が見たい。私、ほんとに、ほんとに、久保のこと、好き―――。
信じられない。明日朝起きたら、夢オチだったなんて展開になるのかも。
嘘みたいだ。久保と付き合うことになるなんて。
私は、いつから彼が好きだったのだろう。
それを思い出せないほど前からなのか、気付かないうちに好きになっていたのか。私はお兄ちゃんが好きだったはずなのに、お兄ちゃんに
告白する頃には久保の方が気になっていたような気もする。
高校が離れてあまり会えなくなって、もっと好きになったのは確かだった。メールしたくても、迷惑かなって思って、結局しなかったことが
たくさんある。
久保とあの女の子が一緒にいたときは、かなりのショックだった。あの子が飛びぬけて可愛いっていうのもあったけど、彼女できたんだな
と思って、本気で不安になったのだ。
確かに久保はかっこいいし、いい人だし、今までなんで彼女ができなかったのか不思議だったけど。でも―――。
何回も嫌いになろうとした。久保からメールが来ても返信しなかったのは、私があいつを嫌いになろうとしてたから。
だけどできなかった。嫌いになろうって思えば思うほど、あの女の子といた久保のことを思い出すほど、私は彼を好きになっていく。どう
しても、頭の中から追い出せない。
だから昨日の夜、意を決して電話した。久保は私が返信しなかったことを怒らないでいてくれて、他愛もない話をしてくれた。自分が昨日
ほど情けなくなったことはない。
それで、今日、久保に告白されたのだ―――。
信じられない。ダメだ、何回思い出しても信じられない。
今日久保と一緒にいた時間は、私の記憶の中でふわふわしていた。実際に起こった出来事っていう気がしなくて、そのままどこかへ飛んで
いってしまうみたいに。
事実なんだよね?信じてもいいんだよね?
久保は私のことを好きだって。私の気持ちは久保にちゃんと伝わったって―――。
カバンの中の携帯が急に鳴って、びくっとする。
メール。開いてみると、久保からだ。
『件名:迷った末の無題
実際何書いていいかわかんないです。とりあえず今日はありがとうってことで。
またメールするから、勉強頑張れよ。あ、今度会いたい。……迷惑じゃなければ』
バカ、迷惑なわけないじゃない―――。
泣き止んだはずなのに、また涙が溢れてきた。素っ気ない文面から、久保がこの文章を考えるのにどれだけ苦労したかが伝わってくる。
それが嬉しくてたまらない。今ならなんでもできそうなくらい。それくらい、嬉しい。
―――私を好きになってくれてありがとう。
落ち着いたら返信しよう。それで、こうやって書こう。
好きになってくれてありがとう。わがままで、素直じゃなくて、何もない私を。
本当にありがとう。好きになってくれて。好きでいてくれて。告白してくれて。
久保に言いたいことは、まだまだたくさんあるように思えた。
だけどそれは、今度会ったときにでも伝えよう。
だって、これからはいくらでも、伝える時間があるんだもの―――。