#27.コール
 
 
 
 
 ―――好きなひとがいるから、やっぱり俺、椎名とは付き合えない。
 よし、これで行こう。突っかからずに言えるかどうかが問題だけど、きっと大丈夫だ。
 泣いたりとか、しないよな?もし泣かれたりとかしたら、俺、すごく困るぞ。
 
 「和泉式部、保昌が妻にて、丹後を下りけるほどに……」
 6時間目の古典は残りあと10分というところだった。先生が何を言っているのかはちんぷんかんぷんであったが、それでも放課後の
ことを考えてしまう。
 ―――椎名、放課後、ちょっといい?
 ―――うん。
 椎名とは、朝にそんな言葉を交わしてからは一言も話していない。
 告白されたときのあの様子じゃ、素直に引き下がってくれるかはわからない。というか、素直に引き下がってくれる可能性が非常に
低い気がする。
 昨日、もう一回考えてみたけど、やっぱり俺は香坂のことしか考えられないらしい。椎名みたいな子と付き合える機会なんてもう二度と
ないんだろうけど、それでも俺は、あの素直じゃない香坂が好きなのだ。
 ちゃんと断れば、きっと大丈夫だ。椎名だってわかってくれる。
 「じゃあ今日はここまで。次の時間は、『定頼の中納言』からいくぞー」
 ……え、なんだって?なんの中納言?
 我に返った俺は、必死になんとかの中納言を探す。しかし見つからない。
 それもそのはずで、黒板には『大江山』と書かれている。俺が開いていたのは『絵仏師良秀』。開いているページが違うのだから、
見つかるはずがない。
 ……どれだけ授業を聞いていなかったんだ、俺は。
 自分の集中力のなさに本気で呆れたが、俺にとってはやはり『大江山』よりも放課後の方が重要であった。
 
 
 「久保くん、私、今日掃除当番なんだけど……」
 「いいよ、待ってるから」
 俺が言うと、椎名はにっこりと「ありがとう」と言い、教室に戻っていった。
 「なんだよお前ら、結局付き合い始めたわけ?」
 俺の隣にいた梓が怪訝そうな顔をする。「そんなわけないだろ」と即答し、椎名に言うセリフをもう一度思い返す。
 ―――好きなひとがいるから、やっぱり俺……。
 「お前ほどもったいないことするヤツっていないぞ。だってまどかちゃんだぜ?あー、俺が瑛冶なら……」
 「うるせえなあ、邪魔するなよ!」
 隣でブツブツ呟く梓に、思わず怒鳴りつける。
 「……なんの?」
 「あ、いや……なんでもない」
 「変なヤツだなあ」
 俺が梓だったら、椎名と付き合ってたんだろうな。まあ、椎名に告白されて断るやつなんてそうそういないだろう。俺だって、好きな
人がいなかったら付き合っていたかもしれない。
 香坂が俺のことを好きかどうかなんてわからない。告白したいな、とは思うけど、付き合えるかなんてわからないし、どうせ俺にそんな
勇気はないだろうし。
 だけど、中途半端な気持ちで椎名と付き合うのは嫌だし、香坂が俺のことを好きでも嫌いでも、やっぱり俺は香坂だけが好きだから、
この告白は断るべきなのだ。
 ……ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、惜しいな、とは思っているけど。
 「待たせちゃってごめんね。どこで話す?」
 茶色い髪がふわふわと揺れている。椎名って綿菓子みたいだなあ……なんて、いつだかも思ったことをまた思う。
 「廊下は人いるから……教室でいい?誰もいないだろ」
 他のクラスには何人か残っているのだが、幸いうちのクラスには誰もいなかった。
 「うん」
 椎名は頷き、黙って俺の後について来た。
 
 「……えっと」
 教室に入って、鞄を下ろして。さっそく俺は言葉に詰まった。俺より椎名の方が緊張しているはずなのに、椎名はうっすらと微笑み
なんて浮かべている。
 ……いい答えを待ってます、ってヤツか?ああ、それなら尚更、言いづらいんだけどな―――。
 「あの、告白してくれたのは、すごく嬉しかったんだけど」
 「うん」
 「やっぱり俺、好きなひとがいるから……」
 用意していたセリフだ。なるべく椎名の表情を見ないようにして言葉を続ける。
 「椎名とは付き合えない。ごめん」
 はっきりと、きちんと椎名に聞こえるように言った。
 「……そっか」
 ちょっとした間の後、椎名はそう言って、「ちょっとだけ期待してたんだけどな」と寂しそうに笑った。
 「その……悪い」
 「いいよ。久保くんは、あの人のことが本当に好きなんだもんね?」
 「……ああ」
 「じゃあしょうがないよ。ちゃんと考えてくれてありがとう」
 思ったよりもあっさりと引き下がってくれたことに内心ホッとしつつ、椎名の悲しそうな顔を見ると胸が痛む。複雑な心境とはこういう
ことを言うんだろうか。
 
 「じゃ、帰るね。なんか、久保くんと二人きりって辛いから」
 「あ……そうだよな。悪い、気付かなくて」
 俺は椎名が教室を出るよりも早く、さっさと鞄を持って教室を出た。
 ……椎名の目が少し赤かった。泣くのを我慢していたのかもしれない。
 学校の外に出て、1年4組の教室を一瞬見上げる。まだ椎名はあの教室にいるんだろう。
 泣いているかもしれないと思うと、さっきよりも心が痛んだ。俺は香坂が好きだからどうすることもできないけれど、こういうのは
やっぱり気分が良くない。
 ―――椎名なら、俺よりもいいやつと付き合えるよ。
 そんな言葉も用意していたが、今にも泣きそうな椎名を目の前にして言えるようなセリフではなかった。
 
 バス停の目の前の森には、桜がきれいに咲いていた。5月に入ってやっと春という感じだ。
 ……誰かを泣かせるのって嫌だな。
 そんなことを漠然と思って、俺は香坂を泣かせない、となぜか誓う。
 そして、あいつに告白しようと強く思った。なぜかは、本当にわからないけれど。
 
 
 
 
  
 「梨乃ー、風呂入れよー」
 風呂から上がって、大声で梨乃を呼んで――どうせまた彼氏とメールしてんだろうけど――、階段を上がる。
 「はいはーい。あ、そうだ、瑛冶」
 俺は、部屋から出てきた梨乃になぜか呼び止められた。
 「なんだよ」
 「私と律くんね、明日で付き合って1年なの」
 「あっそ」
 そんなことだろうと思ったけど―――。俺はそのまま梨乃の前を通り過ぎようとしたが、腕を思いきり掴まれる。
 「何よその反応!おめでとうとか言えないわけ?」
 「あー、おめでとおめでと」
 ったく、なんで梨乃ばっかり幸せなんだよ。俺にも分けろよ。まあ、こんな色ボケにはなりたくないけれど。
 「アンタも彼女の一人や二人、作ったらどうなのよ!」
 梨乃は怒りながら言って、階段を下りていった。
 
 彼女の一人や二人、っつったってなあ……。
 そんなポンポンできるもんじゃないんだぞ。俺なんて3年も香坂に片想いしてるけど、未だに実らないんだから。実るどころかだんだん
ダメになっていってるような気が……。
 
 「うおっ」
 ふいに携帯が鳴って、思わずびくっとする。
 バスタオルをベッドの上に投げて、携帯を取る。メールではなく、電話だ。
 ―――え?
 思わず目が点になった。それもそのはずで、携帯の小窓には、“香坂姫桜”と表示されていたのだ。
 まさかなあ、なんかの間違いだろ。そう思ったが、着信は鳴り続けている。電話なので、早く取らないと切れてしまう。
 
 「……もしもし」
 『……久保?』
 香坂の声、久しぶりに聞く気がする―――俺は、電話の向こうから香坂の声が聞こえてきただけでどきどきしていた。
 『急に電話なんかして、ごめんね』
 「い、いや、そんなこと……」
 むしろ、飛び上がりたいくらい嬉しいんだけど。香坂と電話するのなんて、もしかしたら初めてじゃないだろうか?
 『あの……メール、返せなくて……ごめんなさい』
 「謝るなよ。その……大した気にしてないから」
 本当は、すごく気にしてたけど。そんなの、香坂からの電話で吹っ飛んでしまった。
 やっぱり俺が好きなのはこいつしかいない。なんて、そんなこと、香坂にはとても言えないけれど。
 
 『……あの可愛い子と、本当に付き合ってないの?』
 少しの沈黙の後、香坂が恐る恐るといった感じで言った。
 「付き合ってねえよ」
 『本当?』
 「ほんと」
 『……あんなに可愛いのに』
 「どうでもいいよ」
 俺は思わず笑い出していた。香坂があんまりにも椎名のことを気にするから、可笑しくなってしまったのだ。
 『なんで笑ってんのよ』
 「香坂があまりにも気にしてるから」
 『……気になんかしてないわよ』
 「ふーん」
 声だけ聞いても、香坂の表情が目に浮かぶ。
 すごく気にしてるくせに、素直じゃないよな、本当に。そんな香坂がすごく可愛く思えて、俺はたまらなくなる。
 
 『……久保』
 「なに?」
 『まだ電話してても、大丈夫……?』
 その声は不安げで、やっぱり香坂の不安そうな表情が浮かぶ。
 可愛い。すっごく可愛い。
 どきどきして、香坂が愛しくて、今すぐ会いたい。だけどそれはさすがに無理だから―――。
 「大丈夫だよ」
 俺は笑って言って、どきどきする気持ちを抑えようとする。
 ずっとこうして、香坂の声を聞いていられたらいいのに。
 
 好きだよ―――。
 
 そんな言葉が今にも出そうで、俺はうっかり口に出てしまわないかが心配でたまらなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
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