#10.ささやかな幸せ
 
 
 
 
 12月26日、冬休み初日。
 ちなみに今は午前11時。
 ―――ヤバい。初日から寝坊してしまった。
 冬休み前、学校でやった小テスト諸々の結果がなかなかに悲惨だったので、冬休みは気合い入れて頑張るぞ!と思っていたのだが。
 ……ダメだ。全然ダメだ。気合いが足りん!と、自分を軽く叱咤する。
 
 着替えてから階段を駆け下り、顔を洗って、テーブルの上に置いてあったロールパンを牛乳で流し込む。
 歯を磨くと再び階段を駆け上がり、部屋に戻った。
 姉の梨乃が、「なにやってるの瑛冶!うるさい!」と携帯を片手に部屋から出てきたが、そんなのは無視する。どうせ、彼氏とメールでも
してたんだろうが。
 ―――こんな風に、俺は起きてからわずか20分で、勉強をする体制を整えたのだった。
 偉いぞ俺。今日は一日中勉強だ!
 なんだかわからないが妙にテンションが上がってきて、今なら英語の問題をスラスラ解ける気がする。
 だから今日は、英語から始めよう。理科と社会は後回しだ。どうせ、後からやれば間に合うからな。
 
 プリントやら漫画やらCDやらでゴチャゴチャになっている机の上をあさって、ようやく英語の問題集を見つけ出した。
 パラパラとめくっていくと、ほとんど手をつけていないことに気づく。
 よし、この問題集、年内に終わらせてやるぞ。
 そう決意し、やっていないところを順番に解いていくことにした。
 最初の方は、俺でもわかったのだが。
 ……なんだこれ。現在分詞って、なんだ?
 途中からわからない問題が増えてきた。
 もちろん現在分詞だけに限ったことではなく、1ヶ月ほど前の期末テストにも明らかに出たと思われる問題もわからない。
 ひょっとして俺、すごくヤバいかもしれない。いや、ひょっとしなくても、ものすごく、ヤバい。
 軽く焦ったあと、わからない問題は飛ばして進めるという解決方法を思いついたので、少し安心した。
 だが、そんなことをしていると問題集はすぐに最後のページまできてしまった。まあ、最後のページの問題はまだ習っていない分野だが。
 ……ということは、俺にはそれだけ、わからない問題が多いということなのだ。
 
 ―――どうしよう。
 わからないのをそのままにしていたら、高校に落ちてしまう。
 いくら中くらいのレベルの光台高校を受験するからといっても、これじゃ、本当に落ちる。
 三者面談のときは「まあ、おそらく大丈夫でしょう」と言われたのに。全然大丈夫じゃねーよ!何言ってんだよ、先生!
 ほぼ責任のない担任の顔を思い浮かべて一人で悪態をついたあと、ちょっとしたいい考えを思いついた。
 そうだ。梨乃に訊いてこればいいのか。
 梨乃は決して頭がいいわけではない。光台よりももっと下の高校にやっと受かったくらいだったのだから。
 だけど、中学生の英語くらいならわかるんじゃないのか?梨乃だって、4年くらい前は必死に受験勉強していたはずだし、一応大学生
なんだし。
 俺は強引に自分を納得させると、すぐに梨乃の部屋に行った。
 
 「梨乃、ちょっといい?」
 「なによ」
 梨乃はまだ携帯をいじっていた。俺が持っている英語の問題集を目にすると、露骨に嫌そうな顔をする。
 「ねえちょっと、瑛冶……あんた、まさか」
 「そのまさかなんだけどさ、英語、教えて……」
 「断るっ!」
 俺の言葉を遮って、梨乃は大声で言った。
 「なんでだよ。中3の英語だぞ。いくら梨乃だって、わかるだろ?」
 「わかるわけないでしょうが!私がバカだっていうの、あんたもよく知ってるでしょ?!」
 「知ってるけど……まあ、問題だけでも見てくれって。頼むから」
 俺は梨乃に無理やり問題集を押し付けた。なんだかんだ文句を言いながら、梨乃は問題を熟読している。
 なんだ、よかった。もしかしたら梨乃、解けるかもしれないぞ。
 「……瑛冶」
 「わかったか?」
 「ごめん、降参するわ」
 俺の淡い期待は、梨乃の一言であっさりと砕け散ってしまった。
 「だいたい、中学の時にやった英語なんて覚えてないわ。他のページも見てみたけど、あんたが解けてる問題もほとんどわかんない」
 「……」
 つまるところ。
 梨乃は、俺以下だった、というわけだ。
 
 
 パタン。
 部屋のドアを静かに閉めて、俺はふう、とため息をついた。
 まさか姉が、俺よりバカだったとは。
 ……どうするかなあ、この、わからない問題の山。
 人間、わからなくなってしまうと、やる気も削がれていくものらしい。
 俺は無意識に携帯に手を伸ばし、誰かにメールでもしようとした。気晴らし……というほど、勉強してるわけではないが。
 誰がいいかな。
 携帯のアドレス帳のあ行を見ていくが、目ぼしい人はいない。次に、か行。『桐島雨響』の文字。……といっても、桐島は、今ごろ
猛勉強中かもしれないし。
 か行の一番最後に、『香坂姫桜』とあるのを見つけて、胸がとくん、と鳴った。香坂―――あいつもやっぱり、猛勉強中だろう。
 邪魔してはいけない。
 昨日、学校で会ったばかりのくせに無性に香坂に会いたくなって、俺は必死に自分に言い聞かせる。
 ……わかんない問題、訊くってことで、メールしてみたら。
 迷惑だろうなあ。やっぱり。
 しかも俺がわかんない問題って、香坂にとっては超基本レベルだろうし。答えるのも面倒くさいって思うかもしれない。
 
 ……だめだろうな。ああ、だめに決まってる。あいつは今ごろ、勉強してるんだから。
 ……でも、わかんない問題があるから、教えてもらったら、ダメだろうか?
 ……香坂に。
 
 
 俺はいったん置いた携帯に再び手を伸ばし、香坂のアドレスを呼び出した。
 ウザいぞ、自分。好きな奴にメール一通送るくらいで、なんでここまで緊張してるんだ。
 『現在分詞って何?』
 それだけ書いて、送信することにした。
 画面に『送信完了』の文字が出たのを確認して、携帯を閉じた。深呼吸する。
 香坂にメールするくらいで、ここまで緊張したのははじめてだった。今までも少しは緊張していたが、今日はそれとは比べ物にならない
くらい緊張している。
 多分、香坂の好きな人のことを知ってから、もっと香坂を意識するようになったからだろう。
 
 「うおっ!」
 ふいに、傍らの携帯が着信を知らせた。大音量の着メロが部屋中に響き渡る。
 携帯を開き、メールを確認する。
 ……香坂からだ。
 意外と早く返信が来たことに驚きつつ、長い文面を読んでいった。
 『件名:そんなのは基本中の基本でしょ!
 久保はちゃんと勉強しないからわからないだけだよ。現在分詞なんて、すっごい簡単なんだからね。……』
 と言った出だしで、現在分詞の説明が書かれていた。
 よくもこの短時間で、これだけの文章が書けたなあ。
 俺はそれにも感心していたし、香坂の教え方の上手さにも素直に感心していた。
  
 さっきはあれほどわからなかった問題が、とてもよくわかる。
 メールなのに、学校の先生よりもわかりやすい。多分俺、これから現在分詞の問題が試験に出ても絶対に間違えないな。
 そう思えるくらい、香坂の説明は無駄がなく、完璧だった。
 『サンキュー』
 それだけ書いて返信しようとしたのだが、あまりに素っ気なさすぎるな、と思い直す。
 『サンキュー。わかりやすい説明どうも。勉強頑張れよ』
 そして、こう書き直して送信したのだった。
 俺のメールは誰にでも簡素なものだ。実はメールを打つ作業というのがあまり得意ではない。
 それは香坂に対しても変わらないことだけど、きっと香坂以外の人にだったら、さっきのメールは『サンキュー』だけで終わって
いただろう。
 香坂だから。
 香坂だったから、少しだけ、言葉を添えてみようと思ったのだ。
 
 3分くらい後に、香坂から返信が来た。
 『件名:無題
 久保って、学校ではもう喋るなってくらい喋るのに、メールでは素っ気ないなっていつも思うんだけど、どうして?
 まあいいけど。3学期からは、学校でもメールの文面くらい大人しくしててね。
 それと、わからないところあったらいつでも訊いて。私、久保には合格してほしいから。
 あと、ありがとう。勉強頑張ろうね。』
 
 ちょっとムカッとくるところも少々あるが、まあいい。
 俺としては、冬休み中、香坂にメールするきっかけができたことの方が重要事項だ。
 わからないところあったらいつでも訊いて、か―――。
 香坂にだって余裕なんかないはずなのに。俺に構ってる余裕など、ないはずなのだ。
 ……期待してしまう。
 こんな風にちょっと優しくされただけで、期待してしまう。俺は馬鹿だ。わかっている。馬鹿みたいな期待をするのはよせ。
 頭ではわかっているのに、心が躍ってしまう。現在分詞ができたことよりも、もっともっと、大きな喜び。
 ―――そうは言っても、香坂に何回も頼るわけにはいかない。近いうちに、桐島にでも勉強教えてもらおう。
 
 「瑛冶ー」
 いきなり梨乃がドアを開けて、俺を呼んだ。
 「な、なんだよ、いきなり!」
 俺は考え事をしていると何も聞こえなくなるたちだから、人一倍びっくりした。
 「さっきの、ほら、現在なんとかってやつ。わかったのかなって思って」
 「ああ……」
 わかったよ。よくわかった。
 「うん」
 俺は大きく頷く。梨乃は不思議そうな顔をして俺を見ている。
 「……あんた、なんかあったの?」
 「そう見えるか?」
 「見える。だって一人でニヤけてるよ?気持ち悪い」
 梨乃はそう言って、本当に気持ちが悪いという表情を浮かべながら部屋を出て行った。
 
 ニヤけてなんかねーよ、このバカ梨乃。
 俺は心の中で反論したが、梨乃の言ってることもあながち間違っていないだろう。
 確かに俺は今、機嫌がいい。
 
 
 
 ―――こんな感じで、勉強しつつ、だらけつつ、俺は次の年を迎えることになる。
 香坂の、残したままの謎を知ることができるのは。
 まだ少しだけ、先の話である。
 
 
 
 
 
 
 
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