第四篇.銀河
 
 
 「夏ですねえ」
 枕元のデジタル時計は、午前10時30分を示していた。うだるような暑さはこの時間から既に始まっていて、きっと正午過ぎには
30度を超えるだろう、と思う。
 「夏だねえ」
 寝起きは悪いほうではない、と思う。あたしは隣に寝転がっている朔にそう返すと、むくっと起き上がった。喉が渇いている。確か冷
蔵庫に、オレンジジュースがあったはずだ。
 「あ、オレンジジュース、俺にも下さい」
 「朔のぶん、ないよ」
 「うわ、ひどい」
 朔の非難めいた視線に気付かない振りをして、あたしは残っていたオレンジジュースを全て飲み干した。「朔にはアイスコーヒーあげ
るから」と言って、紙パックに入ったアイスコーヒーをグラスに注いで、ベッドの上で不機嫌そうな顔をしている朔に差し出す。
 「……ありがとうございます」
 「ちっともありがたいって顔してない。取り上げるよ」
 「あ、やめて下さいって。俺、マジで喉渇いてんすよ」
 朔はそう言って、上半身裸のままアイスコーヒーを飲み干した。こくこく、と朔の喉が動く。あたしは、朔の喉仏が好きだ。身体は華
奢で小さいのに喉仏は不自然なくらい出っ張っていて、この部分だけは朔の中で唯一、男らしい。
 「さっき、沙羅さんの携帯鳴ってました。彼氏さんからですよ、たぶん」
 「あ、そう。掛け直していい?」
 「どうぞ」
 朔はなんでもないような表情をして、ベッド脇の本棚に置いてあるファッション雑誌をぱらぱらとめくり始める。たぶん、朔なりに気
を遣っているのだろう。俺はなにも聞いてないですから、勝手に電話してくださいよ、という態度。狭いワンルームだから、どこで電
話をしていても外に出ない限りは会話が聞こえてしまうのだ。
 「……あ、尚樹?どしたの?……うんごめん、寝てて出れなかった。うん、うん、明日ね……あ、そう」
 彼氏の尚樹からの電話は、明日急遽バイトが入ってしまったから会えなくなった、という連絡だった。3分ほど話したあと、電話を切
る。朔はまだファッション雑誌を見ていた。
 「ごめんね、電話終わったよ」
 あたしが声を掛けると、なにも言わずに雑誌を閉じる。そして、あたしをぎゅっと抱きしめた。それから、「彼氏さん、俺のこと、ほ
んとに知らないんすよね」と子どもみたいな口調であたしに尋ねる。
 「知らないよ。なーんにも、言ってない」
 あたしは笑いながら答えて、女のあたしよりも華奢な朔の身体に、両腕をまわす。
 
 やらせてくれませんか―――バイト先の高校生、武田朔に、そんな身も蓋もないような誘われ方をしたのは6月の終わりごろだった。そ
の日はバイト先の飲み会で、たまたま電車の方向が同じ朔と帰り道に二人きりになったのだ。
 いいけど、あたし彼氏いるよ。別れる気とかないから、本当にそういうことするだけだけど、いいわけ?
 酔っ払っていたからか知らないけれど、いつもなら絶対に了承しないような誘いに、あたしは迷わずそんなことを返したらしい。らし
い、というのは自分では覚えていないからだ。あとから、朔に訊いた。
 それから一人暮らしのあたしの部屋に朔が泊まって、やった、らしい。これも実はおぼろげにしか覚えていなくて、あとで朔に凄く悲
しそうな顔をされてしまった。
 あれから1ヶ月。朔はたびたびあたしの部屋を訪れては―――やって、いく。
 「あのさ、朔。なんであたしとやりたかったの?」
 ベッドの上で抱き合いながら、あたしはずっと気になっていたことを訊いてみた。
 「沙羅さん可愛いし、巨乳っぽいし、頼んだらやらせてくれるかなーって」
 「……はあ。なんていうか、最低な理由だね」
 高校生の男の子にこんなことを言われる日が来るとは、思ってもみなかった。あたしは笑って「でも良かったね、頼んだらやらせてく
れる女で」と返す。
 「ほんとですよ。沙羅さんとやれて、俺、超幸せです」
 まだあどけない可愛らしい顔で、なんともえげつないことを言う。朔のこういうところを、あたしは最近初めて知った。自分より3つ
も年下だからなんだか憎めなくて、ついつい自分の弟みたいな気分で接してしまう。
 「彼氏さん明日来ないなら、俺、今日バイト終わったらまた来ていいっすか?」
 「うん、まあ、いいけど」
 朔は嬉しそうに笑って、床に散らばっていた服を拾う。「沙羅さんも服着てくださいよ」と、あたしのキャミソールやらブラジャーも
拾ってくれた。
 うん、と返してから、今日のお昼ご飯はなににしようと考える。最近、彼氏の尚樹よりも、朔にご飯を作ってあげる回数のほうが多く
なっている―――ような気がする。
 
 
 
 
 飲みに行きましょうよと朔が言ったから、あたしたちは真夏の夜道を歩いている。
 バイトが早く終わったらしく、朔は思っていたよりも早い時間にあたしの部屋を訪れた。せっかく夜食を作っていたところだったのに、
来るなり朔が「飲みに行きましょう」なんて言うものだから、無駄になってしまった。
 「沙羅さん、星綺麗っすね。明日、天気良いっすよ、きっと」
 朔はニコニコしながら、きらきらと光る夜の空を仰いでいる。あたしもつられて頭上を見てみると、なるほど、無数の星がいまにも落っ
こちてきそうなくらいに輝いていた。
 「こんなに綺麗な星空、珍しいね」
 「ここ、住宅街で繁華街から離れてますから、星、綺麗に見えるんすよ。ずっと住んでるのに知らなかったんですか?」
 「うん」
 あたしは即答する。尚樹とは、星の話なんてしたことがない。尚樹は車を持っているから移動はほとんど車だし、デートは最近あたしの
部屋ばかりだ。一緒に夜道を歩いたことなどあっただろうか。
 「ほんと綺麗だなあ。沙羅さん、飲みに行くのやめて、星見ましょうよ」
 「は?」
 「コンビニで酒とお菓子買って、そこの公園で星見ながら飲みましょう。タバコくさい居酒屋より、星見ながら缶ビールのほうが、絶対
いいですって」
 飲みに行こうって言ったのは、どこのどいつだ―――あたしはそう思いながらも、うん、と頷いた。夜の公園で星を見ながら飲むなんて、
きっと最初で最後だろう。
 
 「沙羅さん、銀河ってギャラクシーって言うんですよ」
 缶ビールを2本空けて、3本目はチューハイにした。小さな児童公園のベンチに座って、あたしと朔はお酒を飲み、ポテトチップスに絶
え間なく手を伸ばしている。
 「知ってるよ」
 「アンドロメダ銀河とか、聞いたことあります?すごいっすよねえ。銀河って小宇宙とも言うんですよ。コスモですよ。昔、図鑑で見た
やつ、死ぬほど綺麗だったなあ」
 朔は既に、缶ビールを3本空けていた。そんなにお酒が強いほうじゃないから――そもそもまだ、高校生だし――、もうけっこう酔っ払って
いるような気がする。そっと頬を触ってみると、熱い。
 「なんすか沙羅さん、チューしたいんすか?」
 「そんなこと言ってない。朔が酔っ払ってるから」
 「あーあ、星、綺麗だなあ。ここで寝たいなあ。ほんと、すっげえ、綺麗……」
 それから突然、朔はあたしの太腿に頭を乗せてくる。それから上を向いて、ふう、とため息をついた。疲れたのか、星が綺麗で感動して
いるのか、他のことに対してなのか。そのため息の理由は、あたしにはわからない。
 「流れ星でも見たいですよねえ。せっかく沙羅さんと二人で、星見て、酒飲んで……」
 呟くように朔が言う。あたしは返事をせずに、チューハイをぐいっと飲んだ。レモンの味の、アルコール3%のものだ。ジュースみたい
なものだから、酔い醒ましにはちょうどいいと思う。
 「んで、願い事とか、してみるんですよ。ほら俺、超幸せだから、このまんまでいたいって」
 「……朔、酔ってるよ。帰る?」
 「嫌です。沙羅さんのここ、すごい寝心地いい」
 「帰ったらしてあげるから」
 「だから、嫌ですって。ここに寝転がって、星をぼーっと眺めるなんて、もうまたとない機会ですよ。贅沢ですよ」
 朔はどうしても帰りたくないらしかった。これでいて頑固なところがあるから、あたしはもうそこでなにも言わないことにする。ここ
はもう、朔が満足するまでこうしておくのがいいだろう。
 「……知ってますか沙羅さん、銀河の中心って、ブラックホールなんすよ」
 どうでもいいことを呟きながら、少しも経たないうちに、朔はすうすうと寝息を立て始めた。参ったなあ、と思う。
 あたしは仕方なく星空を仰ぎながら、いろいろなことを考えてみる。もしいまここに、尚樹が現れたらどうなるのだろう、とか。いっ
そのこと尚樹と別れて、朔と付き合ってみたら面白いかも、とか。
 だけど朔は、あたしと“やりたい”だけで、決して“付き合いたい”わけではないのだと思う。その証拠に好きだとも付き合ってとも
言われたことがない。あたしも朔も、彼氏という存在を前提にして、割り切って、こういう関係でいる。朔は馬鹿だけど、その辺はき
ちんとわかっているのだ。
 ―――そういや、銀河って、どれ?
 ふと、さっき朔が言っていたことが気になった。言葉は聞いたことがあるけれど、いったいなにが銀河なのかわからない。朔は知って
いるのだろうか?訊きたくても、もうすっかり眠ってしまっている。
 家に帰ったら、インターネットで調べてみよう。あたしはチューハイの残りを飲み干すと、眠っている朔のさらさらとした髪を、静か
に撫でてみた。
 
 
 
 
 すいません沙羅さん、今日やっぱ、行けなくなりました―――。
 5回に1回が3回に1回になり、ついには2回に1回、こう言われるようになってしまった。うんいいよ、と返事をして、あたしはあ
っさりと電話を切る。
 9月になった。真夏の、うだるような暑さは消えたものの、残暑はまだ続いている。まだまだ半袖で出歩ける季節だ。
 大学は9月末までが夏休みで、まだ3週間は暇な日々が続く。その間あたしは、バイトをしたりレポートを書いたり、ときどき尚樹と
遊んだりしていた。なんにも変わらない日々。淡々とした、だけど平穏な日々。
 ……ただ、一つを除いては。
 「沙羅、どした?」
 彼氏の尚樹の声に、はっと我に返る。あれ?いまあたし、どこにいて、なにをしていたんだっけ。
 「面白くない?このDVD、見るのやめる?」
 尚樹はあたしの返事を聞かないうちに、DVDを止めてしまった。海外の、よくあるラブロマンスもの。あたしはあまりこういうのが
得意じゃないけれど、尚樹はなぜかこういう映画をあたしと一緒に見たがる。
 「こういうの、おまえ、好きじゃないもんなあ。やっぱりあっち借りてこればよかったな、サスペンスものの」
 まだ新作だから高いけど、と言って尚樹は笑う。あたしは作り笑いを返して、ごめんね、まだ夏バテしてるのかも、と言ってその場を
立つ。携帯を手に持って、トイレに向かった。
 尚樹は大人だ。……いや、年は同じなんだけれども。なんというか、考え方とか話し方とか、雰囲気とか、全部。あたしに必要以上の
干渉はしないし、だからといってあたしを疑ってかかっているわけでもない。
 ……だから。だから、わかんないんだ。あたしがあなた以外の男の人と関係を持ってるなんて、きっと夢にも思ってないでしょ?
 あたしはトイレに入ると、メール画面を呼び出して、“元気?”とだけ打って送信した。もちろん、相手は朔だ。
 打ち終えてから、そういえば、と気付く。あたしから朔にメールしたのなんて初めてだ。だいたい、朔とはメールのやりとり自体しな
い。“これから行きます”とか、“今日はバイト早番なんで夕方には行きます”とか、最低限の連絡事項のみ。
 こんなこと、ほんと、初めてなのよね。あの子とそういう関係になってから、もう3ヶ月近くも経っているのに―――そんなことを考え
ていると、ふいに携帯が震える。返信、朔からだ。
 “あんまり元気じゃありません。今日、行ってもいいですか”。
 今日は本当は、尚樹とご飯を食べに行く予定だった。それから尚樹がうちに泊まって、っていう、お決まりのパターン。
 だけど、そんなことは頭の中から消し飛んでしまっていた。“いいよ”、そう打ったことに気付いたのは、送信してしまってからだ。
 
 「……尚樹、ごめん。なんかいま、友達からメール来て、失恋したからどうしても話聞いてほしいって……」
 トイレから出て、昼のワイドショーをぼんやりと眺めている尚樹に、そう声を掛けた。一瞬、肩がびくりと跳ねた―――ような気がした
のは、気のせいだろうか。そうだと思いたい。
 「ほんと、ごめん。かなり落ち込んでて」
 「大丈夫だって。沙羅が悪いわけじゃないんだから、そんなに謝るなよ」
 尚樹はそう言って「じゃ、帰りにDVD返してくから」と立ち上がった。いつもはこんな気持ちにならないのに、そんな尚樹の後ろ姿
を見ているとなんとも言えないようなやるせない気持ちが込み上げて、あたしは思わず尚樹のあとを追いかける。
 「……沙羅?」
 「え、と……ごめんね、本当に。明日、会える?」
 尚樹のTシャツの裾を掴んで、あたしは言った。なんだろう、この気持ち。いまここから尚樹がいなくなってしまったら、もうここに
は来てくれないんじゃないか……そんな気がする。
 「ごめん。明日は、友達と飲みに行く予定入ってて。明後日なら大丈夫だから、明後日来るよ」
 尚樹はそう言って微笑むと、あたしの頬に小さくキスを落とした。ばいばい、と言って、ドアがぱたんと閉まる。
 あたしは、ずるい。
 どっちも欲しいんだ。尚樹も朔も、たぶん。どっちも好き、なんじゃなくて、どっちも欲しい。
 ずるいあたしに優しすぎる尚樹は、本当は何もかも見透かしてるんじゃないだろうか。そんなことさえ思ってしまう。
 知ってますか沙羅さん、銀河の中心って、ブラックホールなんすよ。
 ふいに、朔の言葉が蘇る。ブラックホールなんすよ。たぶん、あたしの心ん中って。朔の口調を真似して、そう呟いてみた。

 
 
 
 「沙羅さん、元気そうっすね」
 夕方の5時過ぎにあたしの部屋にやってきた朔は、開口一番にそう言った。この綻んだ笑顔を見るのは随分と久しぶりのような気がす
る。
 「元気だよ。それなりにね」
 「いきなりすいません。話したいこと、あったもんで」
 朔の言葉にひやっとする。いつもの声じゃない、と思った。いつもの朔はもっとだるそうに、甘えた声で喋る。
 「そ、か。何食べる?暑いからそうめんでいっか」
 「いいです。それより沙羅さん、こっち来てください」
 あっさりそう言われて、またひやっとした。足が少しだけがくがくしていることに気付かれたくなくて、あたしは大股で朔の元に向か
う。
 「……やっぱ可愛いなあ、沙羅さん。すっぴんでもいけるから、自信持ってもいいっすよ」
 二人でベッドの上で向かい合う。朔はあたしの髪を優しく撫でながら、そんなことを言った。
 「それとね、夏場……ほぼ裸で部屋ん中うろうろすんのは、良くないと思いますよ。沙羅さん、見かけに寄らず大雑把だから」
 次に朔はあたしの耳を触る。ピアス穴が空いているけれど、今日はなにもつけていない。
 「あと、そこの棚、もうちょっと整理してください。最新号と一番古い号、隣り合わせでしたよ」
 朔はそう言って、ベッド脇の、ファッション雑誌が置いてある本棚を指差す。それからあたしに向き直ると、あたしの頬をそっと撫で
た。
 「……沙羅さん、好きです」
 あまりにもあっさりとした、悪く言えば呆気ない告白だった。
 ずっと前から知っていたような気もするし、いま初めて知った気もする。ただわかるのは、あたしの心臓はいつも通りに動いている。
必要以上の動悸を感じたりもしないし、朔から目を逸らしたりもしない。
 「なんて顔してんですか。もっと驚いてくださいよ」
 「……ごめん」
 「謝る意味、わかんないっすよ」
 朔は困ったように笑うと、あたしの顔を両手で挟み込んだ。ああこの子の手のひらって、こんなに大きかったんだなあ―――なんて、場
違いなことを考える。
 「謝るのは、俺のほうっすよ。好きだったんです、沙羅さんのこと。ずっと。ほぼ一目惚れで、でも、沙羅さんには彼氏さんいるって
知ってて、だから、あきらめようって思ってたんです」
 それ、いつの話よ。なんの話してんのよ。朔、あたしに告白してるんでしょ?それなら、どうしてだろう。どうしてあたし、失恋した
ような気持ちになってるんだろう。
 「……そしたら、沙羅さんと二人きりになって。あんまりにも好きで、欲しくて、我慢できなかったから……あんなこと言いました。
欲しかったんです、本気で」
 朔の声に、不覚にもドキッとした。男の子じゃなくて、男、の声だと。
 「ごめんなさい、沙羅さん。こんな中途半端な関係になって、もっと欲しくなるくらいなら、抱いたりしなきゃ良かった」
 「……抱く、って……やだ、朔らしくない」
 あたしが掠れた声で呟くと、「あのねえ沙羅さん、俺だって男なんですよ」と朔に怒られてしまった。
 「最後まで、男として見てくれなかったなあ。まあ俺であんなに濡れてくれたんだから、良しとしますかね」
 やだ、なに言ってんの。その可愛い顔でえげつないこと言うの、やめなさいって。
 それより、いま、なんて言った?最後まで、って、どういうこと?
 あたしは朔をぼんやりとしたような表情で見つめる。いま起こっていることの理解が、うまくできない。
 
 「沙羅さん、俺ね。さよならって言いに来ました」
 朔は何事もないような、本当に軽い口調で、言った。あたしに触れていた手をさっと引っ込めて、ベッドから下りて。
 「やっぱりね、俺は沙羅さんが好きだから、最後にちゃんと言いたかったんです。さよならと、ありがとうございましたって」
 瞬きさえも忘れそうになった。パチパチと目を瞬くと、なんだか目が痛い。数秒長く開けていただけなのに、もう乾いてしまっている
のか。
 「沙羅さん、ありがとうございました。あと、銀河のこと……やっぱりちゃんと、自分で調べて下さいね」
 朔は笑うと、そのままあたしの部屋を出て行ってしまった。あたしは引き止めることも追うこともせず、馬鹿みたいに呆然として、ベ
ッドの上に座り込んでいた。
 行っちゃった。ただそれだけが、あたしの中に事実として転がっている。あと、朔はもう、ここには来ないってこと。それも、わかる。
 
 ふいに、携帯電話が鳴った。表示を見ると、尚樹からだった。
 “友達の様子、どうだ?”。
 本当に心から、優しい人だ、と思う。あたしはそこで初めて涙を流して、携帯の画面が霞んでしまうくらい、目にいっぱい涙を溜めて、
声を少しだけ上げて泣いた。
 
 それから、あたしは見たこともない銀河について、想像を巡らせてみることにする。
 結局インターネットで調べることはなく、朔も最後まで教えてくれなかったこと―――。
 本物の銀河も、あの夏の夜にあたしと朔が一緒に見たようなものであればいいと思う。
 あたしと朔の想い出は、きっとあれだけでいい。そう思って、朔も最後まで教えてくれなかったのだろう。
 
 気付かぬ間に、すっかり夜は更けていた。
 真っ暗な部屋の中に、銀河のような星の塊が、一筋―――流れてきたような気がした。
 
 

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