第五篇.極上
 
 
 春日の身体は、細くて、つめたい。
 あたしは、自分の隣ですやすやと眠る春日の髪を、指で梳いた。きれいな髪だなあ、と思う。ほんのり茶色いのは、染
めているわけではなくて、色素が薄いせいだという。
 「……ん、あれ?あさひさん、まだ起きてたの?」
 「うん、眠れなくて。いいよ春日、そのまま寝てて」
 あたしはなにも身につけていない自分の身体に、薄いタオルケットを巻きつけながら答えた。やだ、起こしちゃったか
な。春日は眠りが浅いから。
 「あさひさん、明日学校ある?」
 「あるけど、2講からだから。春日だって学校でしょ?ほら、寝て寝て」
 春日の頭を軽くポンポンと叩いて、ベッドを降りる。床に散らばった春日の制服を畳む。ワイシャツ、ネクタイ、スラ
ックス。それにブレザー。春日の高校の制服は紺を基調としていて、地味ではあるけれど、それが逆に春日の容姿を際立
たせているような気がする。
 「大学生は、いいなあ……」
 そう呟きながら、春日は自分の顔を枕に埋める。その仕草が可愛い。あたしは再びベッドに上がって、春日に覆い被さ
るようにして、細い身体に抱きついてみる。
 「……重いよ、あさひさん」
 「失礼なこと言わない。あたし、そんなに太ってないよ」
 「……あさひさん、胸が思い切り当たってますよ」
 春日が苦しそうな声で言う。もともと声がか細いのに、もっとか細くなってる。可笑しくなって、思わず笑ってしまう。
 「なに笑ってんの」
 「んー、春日、可愛いなあって思って」
 「あ、また子供扱いしてる。俺、あさひさんに子供扱いされると、本気で腹が立つんだって」
 「だって、2つも下だもの。子供だよ」
 あたしは笑いながら言って、春日の隣に寝転がる。空が少しずつ明るくなっていく。カーテンを閉めていない窓の外に、うつくしく鮮
やかな青が広がっていく。
 よく晴れた晩秋の朝がはじまっていく。今日もあたしは、ささやかな罪悪と、とびきりの極上に揺られている。
 
 
 
 
 「あさひさん、ちゃんと戸締りした?」
 「したした。心配なら、確かめて」
 「じゃ遠慮なく」
 落ち着いた色の制服は、色素が薄く、きれいな顔立ちをした春日にとてもよく似合う。こうして見ると、榊春日という男の子は、本当
に美少年だ。
 「前にあさひさん、鍵かけ忘れたことあったでしょ。女の人の一人暮らしなんて、一番用心しなきゃいけないのに」
 「大丈夫だって。うち、金目のものなんてなにもないし」
 「そういう問題じゃない。俺は、あさひさん自身を心配してるの」
 春日が拗ねたように言う。午前9時30分。大学の講義は10時30分からだ。結局は春日も、あたしに合わせて遅刻していくことに
したらしい。春日の高校の朝のホームルームは8時30分からだから、授業だってもうとっくに始まっている。
 「気をつけてね、あさひさん」
 「うん、春日こそ」
 いつものように、あたしのアパートの前で別れた。あたしは駅の方向に、春日は高校の方向に歩いていく。
 10歩ほど歩いたところで、あたしは立ち止まって、振り返った。春日の後ろ姿が見えた。
 なんて端整なんだろう、とため息をつく。あたしと別れた直後から、春日はまったくの他人になってしまう。ただのきれいな17歳の
男の子に戻ってしまう。だけどあたしは、春日のそんな残酷さも好きだった。
 今夜はきっと、彼は部屋に来ないだろう。久しぶりにサークルの友達と飲みにいこうか、なんて思う。
 
 
 
 
 その夜の、午前零時過ぎだ。友達と飲んで帰ってきた直後に、あたしの携帯がけたたましく鳴った。
 “三枝まつり”―――ディスプレイにはそう表示されている。2つ年下の妹からの電話だった。
 「もしもし?」
 『あっ、おねえちゃん?ねえ、いま大丈夫?ちょっと聞いてほしいことがあるの!』
 2週間ぶりに聞く、妹の声だった。相変わらず可愛らしい声をしている。
 「なに?あたしいま、帰ってきたばかりなんだけど」
 『春日のやつ、また連絡取れないのよ!今日だって学校、遅刻してきたし。なにやってんのかな、あいつ。だいたいねえ、あたしを差
し置いて……』
 まつりの声が、耳を通り過ぎていく。なにも聞こえていなかった。脳裏に浮かんでいたのは、男好きのする容姿の、あたしの妹の顔だ
った。
 くるくるに巻いた髪をすこし茶色く染めて、ぱっちりとした二重の目に、ナチュラルメイクを施している。彼女の赤くてちいさな唇と
華奢な体つきは、いつだってあたしの憧れだ。
 まつりの可愛らしい声を聞きながら、テーブルに置いてある鏡を覗き込んだ。明るい茶色に染めたショートボブ。二重ではあるものの、
そんなに大きくはない目。妹との共通点は、色白なところくらいだろうか。
 『ねえおねえちゃん、聞いてるの?』
 「聞いてるよ。春日くんと、連絡取れないんでしょ?」
 まつりと話しているときは、“春日くん”という言葉が自然に出てくる。あたしはいま、一人の女としての“三枝あさひ”ではないか
ら。まつりの姉としての、“三枝あさひ”だから。
 『ねえ、あたしのどこが不満なのかなあ?告白してくれた格好いい男の子、みーんな振って、春日と付き合ってるのに』
 「さあ、どこだろうね」
 ―――まつりのさ、押し付けがましくて、自分のこと世界で一番可愛いって思ってるところ、苦手なんだよね。
 春日が苦笑しながら洩らした言葉を思い出す。これをまつりに言ったら、どうなるんだろう、あたし。
 『あたし、がんばってるのに。春日ってすっごくきれいな顔してるから、見劣りしないようにって』
 ―――俺の外見しか見てないんだ、まつりは。俺なんて、他の男よりちょっと女っぽい顔してるだけなのにな。
 『でも、別れるのは嫌なんだよね。あたし、自分が好きになった人に好きになってもらえないなんて、絶対に許せないから』
 ―――でもあさひさん、これ、内緒だよ。別れるなんて言ったら、俺、まつりに殺されちゃう。本気だってば。
 『ねえちょっと、おねえちゃん?聞いてるの?』
 ―――まつりが俺に飽きるまで、付き合っている振りをしないと。
 『もしかして、寝ちゃった?ねえ、おねえちゃんてば―――』
 ―――でもさ、俺が好きなのは、あさひさんだけだから。
 「ううん、聞いてるって。もう少し待ってみなよ。そのうち連絡、取れるようになるって」
 ―――安心してよ。俺を信じていて、あさひさん。
 
 
 
 
 「……こんな時間に、どうしたの。風邪ひくよ」
 「3日会わないでいてみよう、って思ったんだけど。無理だったみたい」
 午後11時を回ったところだった。最後に春日に会ってから、今日で丸2日が経っている。
 「とにかく入って。なんか飲む?外寒かったでしょ」
 あたしはとりあえず春日を部屋に上げて、テレビのスイッチを切った。ちょうど、深夜枠のつまらないバラエティ番組に退屈している
ところだった。
 「コーヒーでいい?でも春日、ブラック飲めないんだっけ。カフェオレにしてあげようか?」
 言いながら冷蔵庫を開けて、牛乳のパックを取り出す。冷蔵庫の上の棚から、インスタントコーヒーの粉が入っている瓶も。
 「春日、聞いてる?」
 「……あさひさん」
 春日のやたらはっきりした声が、耳元に届いた瞬間だった。
 後ろからぎゅっと強く抱きしめられているのを感じた。胸がどくんと大きく鳴って、思わず動きを止めてしまう。
 「ちょっと、春日……待って、すごく身体、つめたいよ」
 「なんもいらない。俺、あさひさんだけでいい。俺を暖めてくれるのは、あさひさんだけでしょ」
 すっかり冷え切った身体が、あたしに助けを求めているように感じた。抱きしめてあげないと。直感的にそう思う。
 「……春日」
 あたしは春日に向き直って、そのつめたい身体をぎゅっと抱きしめた。あたしより20センチは高い背。女のあたしが、男の子のこと
を守ってあげたい、と思うことはおかしいだろうか。
 「あさひさん、好きだよ」
 春日はそう言って、つめたい唇をあたしの唇にぎゅっと押し付けてきた。思わず、自分の体温を分け与えてあげたい衝動に駆られる。
この人を。この人を、本当に、あたしのものにできたなら―――。
 時間が止まればいいのに。あたしは、ぎゅっと目を瞑った。いまにも涙が零れてきそうだった。
 
 
 
 
 「春日、お湯加減どう?タオル、ここに置いておくけど」
 あたしは、不透明なドアの向こうでお湯につかっている春日に声を掛けた。ちょうど洗濯したばかりのバスタオルを、洗濯機の上に乗
せておく。
 「あさひさん、ちょっと」
  春日の声。ちょっと掠れていて、声変わりした直後の男の子みたいだ。少し笑ってから、「なあに?」と返事をする。
 「一緒に入ろうよ」
 「ばかじゃないの。あたし、さっき入ったもん」
 時計を見ると、もうすでに12時になろうとしていた。湯船に溜めていたお湯ももうとっくに抜いたあとだったけど、春日の身体があ
まりにも冷たいので、無理やりお湯に浸からせることにしたのだった。
 「つめたいなー、あさひさん。あ、じゃあさ、シャンプーしてよ。ね」
 春日の弾んだ声が、ドア越しに聞こえる。脱衣所を出て行こうとしていたあたしは、「仕方ないなあ」と呟いて、ドアを開けた。春日
はまだ湯船に浸かっている。頬がかすかに赤く染まっていた。
 「そんなに入ってて、のぼせないの?」
 「うん。すっかり冷え切ってたし。早くシャンプーしてよ」
 「はいはい」
 こうして見ると、本当に少年っていう感じだ。あたしと2つしか違わないなんて、信じられないくらい。
 あたしは春日の髪をシャワーで濡らして、いつも自分が使っているシャンプーで春日の髪を洗ってあげる。人の髪を洗うなんて初めて
だから、緊張してしまう。
 「あ、これ、あさひさんの匂いがする」
 「いつも使ってるのだからね」
 シャンプーを洗い流したら、次はコンディショナーだ。しっかりなじませてから、洗い流す。それからタオルで水気を拭き取ってあげ
る。
 
 「……あさひさん」
 「なに?あ、身体は自分で洗ってよね。さすがに」
 くしゃくしゃになった春日の髪を、ブラシで梳かす。こうやって見ると、結構髪長いんだ、春日って。なんだかいつもと違って、変な
感じ。
 「……あさひさん」
 「なによ、どうしたの?」
 あたしは眉を顰めて、春日の顔を覗き込んだ。声の調子がいつもと違う気がしたのだ。
 「あさひさん―――」
 春日はあたしの名前を小さな声で呼びながら、急にぎゅっと抱きついてきた。濡れた身体で。服を着たままのあたしに。
 「ちょ、ちょっと!なにしてるの。服濡れちゃうでしょ」
 「あさひさん、俺……」
やっぱり声の調子が違う。春日の頭が、あたしの胸のあたりにあった。あたしは無理やり春日を引っぺがすようにして、春日の表情を
覗いた。
 「―――春日」
 春日は、泣いていた。
 きれいな顔を歪ませて、ほんとうに子供みたいに、だけど静かに泣いていた。瞳にいっぱい涙を溜めている。次から次から涙が溢れて、
頬を伝っていく。
 「春日、どうしたの……」
 こんな春日を見るのは初めてだった。あたしは髪を拭く手を止めて、春日の泣き顔をじっと見つめる。
 「あさひさん、俺たち、しあわせに、なれんのかなあ……」
 「え……?」
 「俺たち、いつまで、こうしていられるのかな……ずっとずっと一緒にいて、本当にいいのかなあ……」
 核心だった。いままで互いに触れてこなかった、いや、触れることのできなかった部分に、春日は触れてきたのだ。
 あたしは返事をすることもできずに、ただその場で固まっていた。なにも言えなかった。言えるはずもなく、納得できる答えなんて持
ち合わせていない。
 「あさひさん、俺さ……しあわせに、なりたいんだよ」
 「春日……」
 「怖いんだよ。いつ崩れるのかって。こうやってあさひさんと過ごす時間が、いつかはなくなるんじゃないかって。あさひさんのこと
が好きすぎて、怖くて怖くて、たまんないんだ……」
 あたしも、薄々は思っていたことだった。
 この幸せは、秘密と犠牲の上に成り立っている。時々感じる罪悪も、極上も、甘美も―――すべては、あたしのものじゃない。あたしが
もともと持っていたものじゃない。結局春日だって、他人のものなのだ。
 あたしのものじゃない。この人には、帰らなければいけないところがあるのに。
 
 「春日」
 声が掠れた。喉の奥に、熱いものが込み上げてくる。
 あたしが泣くべきところじゃない。この人は、あたしのものではないのだ。
 「……好きだよ、あさひさん。でもきっと、もう潮時だ」
 春日は静かに言った。気味の悪いくらい静まり返った浴室内に、春日の細い声が響く。
 「うん―――おわりに、しよう」
 あたしからそう告げたのは、精一杯の反抗のつもりだった。そう、最後の悪あがき、だ。
 
 極上を手放したあたしは、いったい、どんな表情を浮かべていたのだろう。もしいまの春日と同じ表情だったのなら、いいのに。
 こんなふうに、きれいで、まっさらな涙が、頬を滑り落ちて―――。最後なのに。最後なのに、なんてきれいな顔で泣いているのだろう。
 春日の白い肌、濡れた体、くしゃくしゃの髪、きれいな泣き顔、シャンプーの匂い、あたしの濡れた服、春日の髪を拭いたタオル。
 覚えていよう。最後の瞬間のこのときを、あたしはいつまでも覚えていよう。極上を手放した今日のことを、しっかりと刻みつけてお
こう。
 
 
 ―――安心してよ。俺を信じていて、あさひさん。
 
 
 そして、信じていよう。あたしを死ぬほど愛してくれた、榊春日という男がいたことを。
 
 
 
 
 
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