第三篇.挨拶
*
午前7時に、当たり前のように目が覚めた。
カーテンの透間から差し込む光の強さで、ああ今日は晴れなんだとわかる。いまは上半身になにも纏
っていないから、少し寒いけれど。
秋は、陽射しだけが暖かい季節だ。10月にもなると、風が冷たい日が多くなる。
「……実以、もう行くのか?」
隣ですこやかな寝息を立てて眠っていたはずの男が、眠気を含んだ声で呟くように言った。
「うん。今日、1講からだから」
あたしが答えると、俺は2講からだからまだ寝てるよ、と言って、また寝息を立てはじめる。すぐに
眠ることができるのは彼の特技のひとつだ、と思う。
「……ほんと、羨ましい特技」
あたしは呟いて、彼の黒く艶々した髪を撫でてみた。いつもきちんと整えているので、こうも乱れて
いるのが新鮮に感じる。
彼のこういった無防備な姿を見ることができるのは、なんと嬉しいことか―――彼の部屋で目覚めると
き、あたしはいつもそう思っている。来月で20歳にもなるのに、彼の寝顔はまるで子供のようだ。か
わいい、と思わず呟いてしまうくらいの幼い寝顔。
「―――航平」
二人でいるときにしか、あたしは彼の名前を呼ばない。航平、ともう一度呼んで、あたしはベッドか
ら降りた。着替えて顔を洗って化粧をして、駅まで行かないと。
航平の部屋には食料がなにもないから、パンかなにかを駅で買おう。電車に乗ったらきっと友達に会うから、おしゃべりしながらそれ
を食べる。いつもの光景を、今日も繰り返す。
「行ってくるね」
簡単な化粧だけを施して、あたしは立ち上がった。
あたしがこの部屋を出た瞬間から、航平は宇野先輩になる。学科とサークルが同じだけの、先輩と後輩という関係になる。
もう一度航平の髪を撫でて、部屋を出る。貰ったばかりの合鍵で鍵をかけることも忘れない。
*
「みーちゃん」
2講目の授業に向かう途中、ふいに背後から聞き慣れた声がして、あたしはびくっと肩を震わせた。
「……宇野先輩」
「今日、ミーティングあるって聞いた?4時からだって」
航平の髪はいつもどおりきちんと整えられている。長身の航平を見上げて、あたしは黙って頷いた。
「俺、今日4講まであるから遅れるかもしんないって、部長に言っておいてくれる?」
「……はい」
「サンキュ」
航平はそう言って笑い、あたしの横を通り過ぎていった。航平の笑顔はいつもあたしの胸を締め付ける。胸が痛い。苦しい。
「みーちゃん、だって。アンタ、可愛がられてんの?宇野先輩に」
周りにいた友達がからかうように言う。あたしは「違う違う、サークルの先輩方、みんなああやって呼ぶの」と笑って返した。“みー
ちゃん”って呼び始めたのは、航平なんだけど。
「いいよねえ、宇野先輩。ホントかっこいい」
「うんうん。あれで彼女がいなけりゃねー」
友達が口々に呟く言葉に、あたしは黙ったまま笑顔で頷いていた。ミーティングのことなんて、もう何回も聞いた。だいたいあんなこ
と、メール連絡で十分だ。それなのに航平は、わざわざああして、あたしに話しかける口実を作っているように―――大学内では極力話
さないっていう約束なのに。
「そういえばさあ、宇野先輩の彼女って見たことある?」
「えっ」
急に話を振られて、必要以上に大声を出してしまう。宇野先輩の彼女。
「すっごい美人って噂は聞いたことあるけど、全然見かけないよねー」
「うちの大学なんでしょ?見たことある人、ほとんどいないんだよね。不思議なことに」
宇野先輩の、航平の、彼女。見たことはない。いるって話だけを聞いている。航平はあたしといるとき、彼女の話をしないから。
―――俺、彼女いるよ。それでもいいの?
航平の口から“彼女”という言葉が出たのは、あのときだけだ。だから本当にいるのかすら定かじゃない。面倒くさい付き合いを避け
るための口実かもしれない、とさえあたしは思い始めていた。
「実以、どしたの?ボーっとして」
「え……あ、ううん。なんでもない」
彼女のことを、あたしから訊いたことは一度もない。なんとなく触れてはいけない気がしているのと、いまの関係が壊れてしまうのが
怖いから。
まがい物でも、あたしと航平が付き合っていることに変わりはない。あたしは日々そう思っていた。
「2講遅れるよ?ほら、走る走る!」
―――つらい恋を、あたしはしている。
無邪気な笑顔の友達を見ながら、あたしは唐突にそう思った。いままで一度も思ったことのないことだ。
秋のつめたい風が隙間風となって、大学内に吹き込んでいた。10月中旬、もうそんな時期なのだ。
*
「実以ってさ、ほんと“みーちゃん”って顔してんのな」
あたしより一回りも二回りも大きい航平に、こうして抱きしめられるのが好きだ。後ろからぎゅっとされると、本当に安心する。
「そう?」
「うん。ほら、みーちゃん、こっち向いて」
あたしがちょっとだけ後ろを向いた隙に、唇を奪われる。こんなやりとりを、もう何十回繰り返しているのだろう。
「ほんと、実以って素直。そういうとこ、可愛いよな」
整った顔をすこし崩して笑う航平は、寝ているときの次に子供っぽい。あたしがつられて笑うと、また唇を奪われた。
「実以、今日も泊まる?」
「明日3講からだし、そうしようかな」
「……じゃ、する?」
「航平、そればっかり」
「だって実以とすんの、ほんとにいいんだもん。相性いいんだろーな、俺たち」
……セックスの相性がいいから、あたしのこと、ずっと傍に置いてくれる?
心の中で航平に尋ねた。そんなことを思ってまでも航平に縋ることを、あたしは情けないともみっともないとも思わなかった。
「―――ねえ、航平」
「ん?」
「彼女は?」
事が済んだあと、真っ暗な部屋でベッドに横たわりながら、あたしは尋ねてみた。なにも意図はない。ただ“なんとなく”。
「……」
「ちゃんと、会ってる?」
踏み込むことを、あんなに嫌っていたのに―――今日のあたしはどうかしている。いったいどんな答えを期待しているのだろう。会っ
てるよ、ちゃんと付き合ってる。それとも、もう別れたよ、っていう答え?
「みーちゃんには関係ないことだろ」
航平は平坦な口調で言って、寝返りをうった。あたしは怖くなって航平の腕を掴み、無理やりこっちを向かせる。
「……会ってる?」
「実以のいいところは、俺に干渉しないところ。必要以上に踏み込まないところが好きなんだ」
その言葉には、これ以上踏み込んだら別れる、という言葉が隠されているような気がした。
「どんな人?」
「……実以」
「見てみたい、あたし。すっごく美人って聞いたから」
今日のあたしは饒舌だ。無駄なことを、くだらないことを、一生懸命問い掛けている。タブーに踏み込むことを楽しんでいるように、
胸がドキドキしていた。
「駄目」
航平はあきらめたように笑って、あたしの唇を塞いだ。そうすればあたしが黙ることを、航平は誰よりも知っている。
「今度言ったら、合鍵、返してもらうよ」
航平は冗談っぽく言った。本気だということは、もちろんわかっている。
*
次の朝、航平が目を覚ます前に部屋を出た。錆びた螺旋階段を静かに下りて、航平の住むアパートを意味もなく見上げてみる。
ふいに、朝日が目に飛び込んできた。眩しい秋の朝、あたしは2階建てのアパートの下で、いったいなにをしているのだろう。
いままで意味を求めることなどしなかったし、これからもしないはずだった。しかしあたしは、いま確かに、ここにいる意味を―――
航平との関係の意味を求めている。
光を受けて掌の中でキラキラ光る合鍵を、じっと見つめてみた。あたしは、その合鍵の意味を未だに理解していない。もっとも、使
うことはほとんどないけれど。
―――帰ろう。
あたしは、駅の反対側に向かって歩き出した。特にあてもなく、なにをしようという気でもない。
ひとりになりたい。
航平と付き合い始めてから、こうした空虚感に襲われるのは初めてだった。
*
「実以、実以、ちょっとあれ見て!」
UFOでも見たような顔つきで、友達の一人があたしの肩をバシバシと叩く。ふと我に返ると、興奮した面持ちの友達が、研究棟の
ほうを指差していた。
「なによ、そんなに興奮して」
「いいから、早く!研究棟の……いち、にぃ……三階!」
「……?」
4講目の授業に向かう途中だった。あたしは不思議に思いながらも、研究棟の三階を見上げてみる。
「すっごーい、めっちゃ大胆じゃない?」
「全部見えちゃってるって!きゃー、あたし、もう見てらんない!」
好奇心に溢れた声で、友達が口々に叫ぶ。研究棟の三階の一室で、濃厚なキスをしているカップルが見えた。
「てか、誰だろうね?なんか格好よさげだけど」
「女の方も美人っぽくない?……もしかして、宇野先輩と彼女だったりして?!」
宇野先輩。その言葉が出た途端、胸がドクンと高鳴ったのを感じる。脈が速くなっていく。
「まさかあ、そんなわけないじゃん!だって研究棟だよ?なんで宇野先輩がいるのよ」
「だよねー」
あっ、遅れちゃう!急がなきゃ!無邪気に言って、みんな走り出す。あたしだけが、その場に残った。まるで凍りついたように体が動
かない。
―――航……平……?
あたしの目は、間違いなく彼を捉えていた。みんながわからなくても、あたしはわかる。誰よりも、誰よりも、一緒にいるはずだから。
講義棟の一階にいるあたしと、研究棟の三階にいる航平。互いが互いを認識することなどありえない。距離がありすぎるのだ。
だけどあたしはわかる。あれは航平だ。髪型も体型も、あのキスの仕方も、なにもかも―――。
航平は、女の首筋にキスを落としていく。まるで実況中継でもされているかのようだった。
この世で一番見たくないものを見ているのに、あたしの目はそこに釘付けになっていた。目が離せない。離したら―――あたし、きっと
後悔する。
―――その瞬間、航平はあたしを見た。はっきりとわかる。航平は、あたしを見た。
そして笑った。“実以”と呼んでキスをする、あの笑顔で。いつものように微笑みかけた。あたしに向かって。
ひらひらと、繊細な手が振ってくる―――ような気がした。航平は、あたしに手を振っているのだ。片方の手で女の腰をしっかりと支え、
女の首筋にキスを落としながら。
実に可笑しそうに、彼は笑っていた。まるで挨拶でもするかのように手を振って。
―――ばいばい。
航平は言った。一瞬の隙に、その部屋のカーテンは閉められてしまう。航平の姿も、女の姿も、もうあたしには見えなくなってしまっ
た。
最後の挨拶を受け取ったあたしは、依然としてそこに立ち尽くしていた。
嫉妬なのか、絶望なのか、それとも―――安堵なのか。
よくはわからない、もしかしたらすべて混じっているのかもしれない。そんな涙が、あたしの頬を濡らしていく。
意味などなかった―――。
そう悟ったあたしは、もはやどうすることもできず、その部屋の窓をじっと見つめつづけていた。
全身の力が抜けて、床に座り込んだ。なにも聞こえず、なにも見えない。いままであたしを支配しつづけていたのは、紛れもなく宇野
航平、あの男だったのだから。
大学内に吹き込む隙間風が、今日はいっそう冷たかった。まるでなにかを象徴しているようだと―――失ったあたしは、漠然と思った。