#30.あたしが好きなのは
 
 
 
 
  「はい、ブルーハワイとマンゴーですね、お待たせしましたー!」
  あたしは、ありがとうございましたー、と笑顔でお客さんを見送る。暑くなったおかげで、お店は大繁盛だ。
  7月12日の日曜日、学祭2日目。一般公開日ということもあってか、うちのクラスの模擬店――ちなみに、トロピカルジュースのお店――
 はすごく忙しい。
  「由依子、交替しようよ。もう由依子のシフトの時間過ぎてるし」
  「え、ほんと?忙しくて気付かなかった」
  腕時計を見ると、もうとっくに12時を回っていた。あたしはカウンターから出てエプロンを外し、携帯をチェックする。10分ほど前に
 ヤナからメールが入っていた。
  『責任者の仕事終わって、いま体育館。シフト終わったら電話して』
  ……そっか。あたし、ヤナと一緒に学祭回る約束してたんだ。なんか、ちょっと緊張するなあ。そんなことを思いながら、携帯のアドレス
 帳でヤナの番号を呼び出す。
  『あ、もしもし、由依子?ちょっと待って、いま体育館出るから』
  電話の向こうがびっくりするくらい騒がしい。体育館で有志のバンドがライブを行なっているはずだ。ヤナはそれをずっと見ていたらしい。
  『……シフト終わった?』
  「うん」
  『そっか。千葉といたんだけどさ、千葉の彼女もちょうど終わったみたいで、一人になったところだったんだ。いまどこ?』
  「うーんと……ちょうど1階の、職員室前の廊下」
  『オッケー。すぐ行くから、待ってて』
  一方的に電話が切れる。学祭の日だというのに、職員室前は誰もいないしとても静かだ。その静けさが逆に緊張をかき立てているようで、
 余計に鼓動が速くなる。
  ―――なんでヤナ相手に、こんなに緊張してんのよ、あたし。
  理由は分かっている。学祭を男女二人で回るのはカップルのすることだからだ。ヤナとあたしが一緒に回ったら、それを見た誰もがあたし
 たちを恋人同士と思うに違いない。
  もちろん、それは困る。困るけど、あんなに嬉しそうにしているヤナを見て、断れるはずがない。もちろんあたしだって、ヤナと回るのが
 決して嫌なわけじゃないし……。
  「由依子!」
  ぼーっとしていたら、あたしを呼ぶ声がした。はっと顔を上げると、ヤナがこちらに向かって走ってきている。
  「なにも、走らなくたっていいのに」
  「だって、時間もったいないだろ?せっかく由依子と回れんのに!」
  「……ていうか、すごい汗。Tシャツ、すごいことになってるし」
  ヤナもあたしもクラスTシャツを着ているから、元は同じもののはず。それがヤナのものは、なんだかよくわからない落書きだらけに
 なっていた。あたしも、ボタンを可愛いものに変えるくらいはしたけれど。
  「これさー、行くとこ行くとこでなぜか書かれんだよな。見ろよこの背中のやつ、意味わかんねーだろ?」
  ヤナのTシャツの背中には、『2年4組委員長史上最強』と書かれていた。確かに意味がわからない。
  「……うん、確かにわかんないね」
  「だろー?まあなんとなくかっこいいから、いっかー」
  ヤナはそう言って笑うと、あたしの手をぎゅっと握ってきた。ヤナの手はじっとりと汗ばんでいる。
  「ちょっと、ヤナ……」
  「俺、2時にはクラス戻らないとだから、あんま時間ないし、さっさと行くぞ。昼メシ、まだだろ?」
  ―――ちょっと、もう。こんなところ見られたら、みんな絶対に付き合ってるって思っちゃうよ。
  あたしの戸惑いに気付いているのかいないのか、ヤナはにこにこしながらあたしの手を引っ張って歩き出す。
  手、離して―――なんて、言える雰囲気じゃないよね。ヤナってずるい。こんな顔されたら、黙って従うしかなくなっちゃうじゃない。
  「えー、ヤナと咲坂さん?!付き合ってたんだ?!」
  階段を上っている途中、他のクラスの男子にさっそくそう言われてしまった。ヤナは笑顔で「まだ付き合ってねーぞ」なんて言ってるけど、
 言い訳って思われるに決まってる。
  ……やっぱり、手を繋ぐのはよしてもらおうかな。あたしはヤナに気付かれないようにため息をついた。一緒に回るのは実質1時間半くらい
 とはいえ、先が思いやられる、なあ。
 
 
 
 
  「あーもう、最高だったー!去年の100倍は楽しかった、絶対!」
  あたしとヤナはやっぱり一緒に帰ることになって――もう、やっぱり付き合ってたんじゃん!という女の子たちに無理やり、『ヤナと帰れ』
 と言われたんだけど――、新岸浜駅からの帰り道を二人でのんびりと歩く。
  学祭のフィナーレが終わったのが6時を過ぎたころで、それから軽く教室の片付けをしたり友達と喋ったりしていた。いまはすでに8時を
 回っている。
  「うちのクラス、2位だったけどね」
  「それだけはマジで悔しい!やっぱ模擬店は優勝できねーんだな。来年はお化け屋敷にすっかなー……」
  ヤナがぶつぶつと呟く。うちの学校はもうクラス替えがないから、来年もずっと今のクラスのままだ。まだ3年生になってもいないのに、
 ヤナったら、すでに委員長やること決めてるんだ。あたしは思わずくすっと笑ってしまった。
  「ん?なんだよ」
  「いや、ヤナはやっぱり委員長やるんだなーって思って」
  「当たり前だろ?他に誰がいるんだよ。千葉には任せらんねーぞ。あいつ、何かというと柚夏柚夏って、彼女のことばっか考えやがって」
  「仕方ないよ。ラブラブだもん、あの二人」
  「確かに」
  ヤナはうんうん、と頷いて、「そういえばさ」となにかを思い出したように切り出した。
  「由依子は、講習出るんだろ?夏休みの」
  「あー、講習……そんなのもあったね」
  なにも、学祭が終わった直後にそんなこと思い出させなくたっていいのに。あたしは一応大学進学を希望しているから、国、数・英の
 3教科すべての講習を取るつもりでいる。
  「全部取んの?」
  「取るよ、一応ね。取っておかないと、お母さんがうるさいし」
  「だよな。うちも親がうるせーから、全部取ることにした。大学は行きたいし」
  勉強が得意でもなく不得意でもないあたしにとっては、まだ受験は遠い話なんだけど。珍しく真面目な話をして雰囲気が暗くなりかけた
 ときに、ヤナが慌てて「でもさ」と言った。
  「講習で由依子に会えるってことだろ?俺は嬉しいけど」
  「……ヤナ」
  どうしてまた、突然、こういうことを言うんだろう、この人は。返答に困ってしまう。
  「わざわざ遊ばなくても、7月中は会えるだろ?」
  「まあ……」
  「あんまり皆瀬から由依子取ったら悪いから、一緒に帰るのはたまにでいーけどな。夏休み中、何回か遊ぼうな」
  な?とダメ押しのように訊いてくるから、うん、と頷くしかなくなってしまう。あたしが頷いた、それだけで本当に嬉しそうな顔で笑う、
 ヤナ。
 気持ちに応えられないくせに、ヤナを傷つけたくないなんて、いつも思っているあたし。矛盾していることも、こういう曖昧な態度が
一番相手を傷つけることも、分かっているくせに。
  ―――だって、こんな顔して笑うんだもん。
  あたしは今も昔も、ヤナの笑った顔に弱い。最近、それをつくづく実感している。
 
 
 
 
  「ただいまー……」
  家の中はしんとしていた。お母さん、今日は遅いんだっけ。まだ誰も帰ってきてないのかな。
  そのまま階段を上がって、自分の部屋に入ろうとしたとき、ガチャッと音がした。隣の部屋―――巧だ。
  巧は、空になったグラスを持っていた。お茶かなにかを取りに行くところだったらしい。
  「おかえり、学祭楽しかったか?」
  「……うん、楽しかったよ」
  巧、今日は家にいるんだ。予想していなかったから、急に心臓がバクバクと音を立て始める。廊下の電気がついていないから薄暗い。
 それだけが幸いだ。
  「そっか」
  「うん……じゃ、部屋入るね」
  あたしがそう言って、自分の部屋のドアノブに手を掛けたとき。あのさ、と巧があたしに近づいてきた。
  「ちょっと、訊きたいことがあるんだけど。とりあえず、由依子の部屋、電気つけて」
  「え……」
  「すぐ終わるから、大したことじゃねえし」
  あたしの部屋で話すってこと?やだな、散らかってるのに……って、そうじゃなくて。あたしに話?また、前の話の続きかな。
  あたしはとりあえず部屋に入って、言われた通り部屋の電気をつける。巧は無言であたしの部屋に入ってきて、ドアの近くの棚に空の
 グラスを置いた。パタン、とドアが閉まる音がして、なんだか緊張してしまう。
 
  「えっと……なに?」
  「……ヤナ、元気?」
  巧の口から唐突にそんな言葉が出たので、あたしは驚いてしまった。ヤナ?いったいどうして?
  「元気、だけど。どうして?」
  「あ、いや……前に駅でばったり会ったから」
  なんだか今日の巧、すごく歯切れが悪い話し方をする。どうしたんだろう、なにかあったのかな。
  「そっか。今日、学祭一緒に回ったよ」
  あたしはとりあえず、当たり障りなくそう返しておく。何気ないことを言ったはずなのに、巧が少し驚いたような顔であたしを見た。
  「……あのさ、おまえとヤナって」
  「うん」
  「実際、どうなんだ?」
  ―――え?巧、なにを言ってるの?
  一瞬、頭の中が真っ白になってしまった。いったい今日はどうしたんだろう。巧があたしにこんなことを訊くなんて。
  「……どうして?」
  「いや、その……おまえさ、もしかして、他に好きな人いんの?」
  巧が気まずそうな顔をしてそんなことを言ったから、あたしは「え……」と絶句してしまった。巧の口から滑り落ちた言葉を、すぐには
 理解できなかったのだ。
  どうしてだろう、なんでこんなことを訊くんだろう。最近、あたしと話してなかったよね?ヤナと駅で会ったときに、ヤナからなにか
 訊いたの?頭の中でいろいろな考えがぐるぐると回っている。
  「ヤナが……そんなようなこと言ってたから。もしかして、って思って」
  やっぱりヤナがなにか言ったんだ。だけど、あたしが誰を好きかは言っていないみたい。
  どうして、どうして。鼓動がさっきよりも速くなる。どうして、巧がそんなことを気にするの?訊きたかったことって、それなの?
  あたしのことなんて、眼中にもないくせに。どうだっていいくせに、どうして?
 
  「……答えなきゃ、だめなの?」
  自分でもびっくりするくらいの低い声が出た。なにが悲しくて、目の前にいる自分の好きな人に、こんなことを訊かれなければいけない
 んだろう。
  「そういうわけじゃ、ないけど……」
  「ていうか、もしそうだとしたら、なんなの?」
  巧が少しムッとしたのが分かった。やだ、これじゃまるでケンカしているみたい。こんなふうに言いたいわけじゃないのに、どうしても
 感情が入ってしまう。
  「別に……どうでもいいけど、もし他にいんなら、あいつの気持ちも考えてやれって」
  「……は?」
  「ヤナはおまえのこと好きなんだから、なんとかしてやれよ」
  断るとか、付き合うとか。巧がぼそっとそう言ったけれど、そんな言葉は耳をすり抜けていった。
  巧。いま、なんて言ったの?
  もし他にいるなら、あいつの気持ちも考えてやれ? どうして巧にそんなことを言われなきゃならないの?
  あたしが誰を好きなのか、いったいどれだけ苦しいのか、分からないくせに。
 
  顔がかっと熱くなって、鼓動もさっきより速くなる。もう心臓が壊れちゃうんじゃないかって心配になるくらい。涙が急にせり上がって
 きたけれど、懸命に堪える。
  「由依子?」
  顔を見られないように俯いたけれど、そうしたら余計に涙が零れてしまいそうになる。だめ、いま泣くのはだめ。
  「おい、どうした?」
  巧があたしに駆け寄ってきて、あたしの肩を軽く揺すった。
  やだ。だめだってば。触らないでよ、お願いだから―――。
  「―――おまえ、なんで、泣いて……」
  「……あたしが」
  堪えていた涙が、どっと溢れてきた。やだもう、今日は学祭だからメイクしたのに、目がパンダになっちゃう―――どうでもいいことを、
 頭の片隅で考える。
  「あたしが、どんな気持ちなのか」
  知らないくせに。なんにも知らないくせに。
  巧が唖然としている。当たり前だ。何気なく訊いたことで、あたしが突然泣き始めたんだから。
  「どんな気持ち……って」
  鼻を啜る。溢れる涙を手で拭うけれど、止まる気配はなくて。
  「あたしが、誰を好きなのか……知らないくせに」
  涙も、そして言葉も―――自分のものではないみたいに溢れてくる。いままで蓋をしていたのに。
 
  もうとっくに限界だったんだ。きっと。
  あたしの気持ちはもうパンパンに膨らんでいて、破裂しそうだったんだから。巧に気持ちを伝えるのが怖くて、いままでそれに気付かない
 振りをしていた。
 
  「……そんなの、知るわけないだろ」
  巧がぼそっと言った。明らかに困惑しているような声で。
  「……あたしは、巧が」
  ―――言っちゃだめって、やっぱり怖いって、頭では思っているのに止まらない。
  自分が鼻を啜っている音がやたら部屋に響いているような気がする。巧が「え?」と怪訝そうな顔をした。
  ―――もう、この気持ちに蓋なんてできない。
 
  「巧のことが―――好きなの」
 
 泣き声だったけれど、巧に伝わったのは十分に分かった。部屋の空気が、一気に変わったから。
  巧は信じられないものを聞いた、という顔をしていた。二人とも、息すらしていないんじゃないかというくらい、部屋の中がしんとなる。
 
  ―――言っちゃった。
  とっさに、そんなことを思った。なにも考えられない頭で、ぼんやりと。
 
 
 
 
 
 
 

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