#22.想いが募る
 
 
 
 
 「あ、起こした?」
 ドアの向こうにいたのは、珍しく満面の笑みを浮かべた巧であった。
 あたしは眠い目を擦りながら、小さな声で「おかえり」と言う。やだな。寝てたから、寝癖とかついてるかも。
 「ううん……大丈夫」
 「今日、ありがとな。……てか、おばさんもう寝てるだろ?部屋入っていいか?」
 巧の言葉に、どきん、と胸が跳ねた。巧にとっては何でもないことなのに、いちいち意識してしまう。そういえば、“巧が好き”って
確信してから本人に会うの、初めてだ……。やだ、なんだか急に緊張してきた。
 「ちょっと……待って、片付けなきゃ」
 「いいって。俺の部屋に比べりゃ綺麗だろ」
 「そりゃあそうだけど」
 「おい、あっさり認めんじゃねえよ。ったく、おまえは」
 巧は苦笑しながら、あたしの部屋の壁に黒いギターケースを立て掛ける。ドアがパタン、と閉まると、あたしの心臓はドキドキと大きな
音を立て始めた。巧と二人きり。何があるっていうわけでもないのに、バカじゃないの、あたしってば……。
 
 「あれ由依子、おまえ、そのまま寝てた?」
 「え、うん……帰ってきたら、急に眠くなっちゃって」
 ライブに行ったってだけでも疲れたのに、巧への気持ちを確信しちゃったりヤナに告白されたり、ほんとにいろいろあって疲れたのよ
―――とはまさか言えるわけがない。
 「寝癖、ついてる」
 巧は笑いながらそう言って、あたしの髪にすっと手を伸ばす。右耳のすぐ近くに触れたかと思うと、「直った」と言う。ただ髪を直して
くれただけなのに、それだけで、心臓がどこかに飛んでっちゃうかと思うくらい、急加速して。あたしは顔が熱いのを隠すかのように俯いて、
ただ「ありがと」と言うだけで精一杯で。
 「ちゃんと風呂入って寝ろよ。ライブハウスって空気汚ねえからな。みんな吸うし」
 「吸う……って、ああ、煙草ね」
 そう言われてみれば、見る人みんな煙草吸ってたなあ。お父さんもお母さんも吸わないから、あたしはあんまり煙草の匂いや煙が得意
ではない。慣れてないせいか、咳き込んでしまうときさえある。
 「そういえば、巧は吸わないよね」
 あんなに周りが吸ってたら吸っててもおかしくないのに、と思う。大学生って煙草とお酒ってイメージがあるし。
 「ああ、俺はな。一応歌ってっから」
 「あ、そっか。喉に悪いもんね」
 「飲み会とかで、人の貰って吸うことはあるけど。……ボーカルは煙草吸うなって、詩織がさ」
 詩織、と言うその唇の動きや表情が、いちいち特別な気がしてならない。それだけで胸がずきんと痛むから、あたし「そっか。詩織さんも
吸わなさそうだもんね」と返すだけで精一杯だ。
 あたしのベッドに腰掛けている巧をちらっと横目で見て、小さな小さなため息をつく。ほんと、嫌になるくらいに恰好いい。
 「てか、本題忘れないうちに言っとこうと思って来たんだけど」
 「本題?」
 「はあ……直接言うのってありえねえな、しかも由依子相手にだし」
 「……なによそれ」
 いったい何を言いたいのか知らないけど、なんだかすごく失礼なこと言われてない?巧はあたしの顔を見るなり「はあ」と呆れたような
ため息をついて、落ち着きなく組んだ両指を動かしている。
 「でも、なあ」
 「だからなんなの。言いたくないなら別に言わなくてもいいよ」
 人がアンタのことでちょっと感傷的になってるっていうのに、なんなのよもう。巧の軽口なんていつものことなのに、気持ちを確信
しちゃったからかな。なんだか泣きそうになる。
 
 「……今日、けっこう、嬉しかった」
 ぽろりと零れるように呟かれたその言葉は、しんと静まり返っていたあたしの部屋にやけに響いた。
 「え?」
 「や、だから……なんか、来てくれたし、おまえ……。最初から最後までいてくれたし」
 巧はなんだかしどろもどろになりながら、一生懸命言葉を探しているように見える。こんな巧を見るのはもちろん初めてのことで、しかも
その言葉が自分に向けられているものだなんて、あたしはしばらく気付かなかった。
 「……歌ってるとき、おまえ、見えたんだ」
 巧は小さな小さな声でそう言うと、「あー、なんからしくないよなあ」と独り言のように呟いた。あたしは巧がなにを言っているのか
さっぱりわからなくて、「え?なんのこと?」と素直に返してしまう。だって、いったい巧がなに言ってるんだか全然わからないんだもん。
 「だから、ステージから見えたんだよ、おまえ。最初のバンドんときも、ラストんときも。けっこう前のほうで見てただろ?」
 「うん……」
 「なんか、妙に安心したっつうか……声、思ったよりちゃんと出たし」
 照れているのか、巧は顔を上げたり俯いたりと忙しない。あたしは巧の思いがけない言葉になんだかついていけなくて、何回も「え?」
を繰り返してしまう。
 ―――つまり、それって。
 あたしが見えて、安心して……うまくいったってことを、言いたい、わけ?
 「……そんな顔すんなよ。なんか俺、超恥ずかしいこと言ったみたいじゃねえか」
 「だって」
 「ああもう、やっぱ前言撤回!ちゃんとお礼言おうとか思った俺がバカだった!」
 「だって、巧がそんなこと言うなんて、夢かなんかかと」
 「あーもう、かっわいくねえやつ!」
 「なによそれ!」
 もう深夜ともいえる時間帯だというのに、ついつい大きな声を出してしまった。お母さん、目覚ましてないかな。もっと気をつけないと……。
 「……あんま、でかい声出すなよ」
 「……巧こそ」
 「……俺、飲んでんだぞ。頭痛くなるっつの」
 そんなこと知るか―――あたしは心の中で巧にそう反論しながら、巧の頬がよく見るとほんのりと赤いことに気付いた。実は巧はあまり
お酒が強くないのよと詩織さんが言っていたことを思い出す。
 「もう、いったい何を言いに来たのかまったくわかんない。ていうか、なんで帰ってきたのよ」
 「随分な言い草だな。今日はいつもより抑えたんだよ」
 「詩織さんのとこは?もし終電逃したらうち泊まってもらうって、詩織さん言ってたよ」
 ちょっとだけ嫌味を含めて、わざと刺々しくそんなことを言ってみる。あたしってほんとに、可愛くない女の子だよなあ。そう思いながら。
 本当は、帰ってきてくれて嬉しい。詩織さんのところになんて、もう絶対に泊まって欲しくないって思う。だけどそんなことは絶対に
言えないから、だからこそ、正反対のことを口にしてしまう。
 「……んな、何回も行けっかよ」
 ついつい、いったいどういう仲なのと訊いてしまいそうになる。だけど答えを聞くのが怖くて躊躇う。気持ちをぐっと飲み込んで、あたしは
辛うじて「そう」とだけ返した。
 「そういえば詩織、またおまえのこと話してたぞ。やっぱ可愛いって。若いわねーって」
 可愛い―――。巧ではなくて詩織さんがそう言ったのに、それはわかっているのに、巧の声でそう言われるとどうしてもドキッとしてしまう。
 「わ、若いって……詩織さんだって、あたしと何歳も変わんないのに」
 「いや、あいつは年の割に大人っぽいからな。ときどき幾つかわかんねえときあるし」
 まあ、それはわかるけど。すごく綺麗だし、雰囲気も洗練されているから、あたしと2つや3つしか変わらないなんて信じられないもん。
 「ま、おまえが若いのは認めるけどな。なんかモロ女子高生って感じで」
 「……なによそれ」
 「怒んなって。褒めてんの」
 巧はそう言って笑う。いつもより優しい顔な気がするのは、気のせいかな……。ライブが成功したからか、今日はなんだか機嫌がいい。
 「おまえ、先に風呂入れよ。俺はもうちょい酔い醒ましてから入る」
 「あ、うん……」
 そっか、もうとっくに1時回ってたもんな。明日、日曜日でよかった。
 「俺、ヤナ気に入ったよ。いいやつじゃん、おまえが前に悪く言われて怒ってた意味が分かった」
 巧はベッドから立ち上がって、苦笑しながらいきなりそんなことを言った。ヤナの名前が急に出てきたから、胸がどくんと音を立てる。
なんで動揺してんだ、あたし。告白されたからかな。あたしの巧への気持ちも知っているヤナ。それに比べて、なんにも知らない巧。
 「そっか。俺、実はさ。あいつに、由依子のことどう思ってんすかって訊かれたんだよな」
 「えっ」
 「どうもなにも、ただの同居人だって答えたけどな。たぶん、おまえのことマジだと思うぞ」
 ずきん。なんでだろ、いま、胸がすっごくすっごく痛くなった。
 きゅうって締め付けられるような痛みで、かすかに顔をしかめてしまったくらい。幸い、巧には気付かれていなかったみたいだけど。
 巧は壁に立て掛けてあったギターケースを背負うと、部屋を出て行こうとドアを開けた。そして、「俺には関係ねえかもしんないけど、
付き合ったらうまくいくんじゃねえの?」と軽く言うと、部屋を出て行ってしまった。
 パタン。ドアの閉まるその音が、なんだかやたら大きく聞こえた。あたしは巧が今まで座っていたベッドの上にすとん、と腰を下ろすと、
胸がずきずきと痛んでいるのをなんとか収めようとする。
 
 ―――気付いたとたん、失恋、かあ。
 いや、詩織さんっていう存在がいるから、失恋はもう決定事項なんだけど。そうなんだけど……。こうやって、本人に直接言われたら、
傷つく……なあ。
 あたしは喉の奥が徐々に熱くなっていくのを感じながら、条件反射で溢れてくる涙を手の甲で拭った。こんなことでショック受けたら、
この恋、やっていけないよね。そうは思うんだけど、だけどやっぱり、そんなにすぐには強くなれない。
 巧は―――たった一言で、あたしを幸せにしたり、怒らせたり、泣かせたりする。好きな人の一言や行動って本当にすごい。
 おんなじ家に住んでて、近い存在のはずなのに、すっごく遠い人。自分の気持ちに気付いたのはいいけれど、これから巧にどんな態度を
取ったらいいのか、どんな距離で接したらいいのか、わかんないよ……。
 
 格好良くて、憎まれ口ばっかりで、性格悪いけど、なんだか憎めなくて……あたしが好きになったのは、そんな人。きっと幸せになるには
一番遠い道なのに、あたしがなぜか選んでしまった、恋。
 やっぱり好きなの―――。
 こんなにも頬が熱い。こんなにも苦しい。息が出来なくなっちゃうくらい、本当に……。
 あたし、巧のこと、好きなんだよ。
 隣の部屋にいるのに、すぐに会えるのに、絶対に届かない。どうしてだろう。どうして巧なんだろう。いくら自分に訊いてみても、
その答えは出てこなくて。
 ただただ進んでいく時計の針を目で追いながら、あたしはずっとずっと、巧のことを考えていた。
 
 
 
 
 
 
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