#21.君が好き
 
 
 
 
 「凄かったな……」
 ライブが終わったあとの帰り道、ヤナがぽつりとそう呟いた。
 「うん、凄かったね」
 あたしは生返事をして、少し先を歩くヤナの後ろ姿をじっと見つめる。その後ろ姿は、ライブを見る前よりも若干しょぼんとしている
ような気がした。
 時刻はもうすでに9時を回っていた。“無名バンド”はあのあと、会場からの熱いアンコールに答えて、アンコールのみならずダブル
アンコールを行なった。熱気が凄かったので倒れないようにするのに必死だったが、巧がとても気持ち良さそうに歌っているのが印象的で、
あたしはやっぱり気付けば巧のことばかり見つめてしまっていた。
 自分の気持ちに気付いたはいいものの、あまりにも唐突だったため、あたしは自分自身の気持ちを受け止め切れなくて困ってしまって
いる。さっきからなにも喋らないせいか、ヤナにも「大丈夫か?」と心配される始末。
 ……気付いたって、なあ。
 巧には詩織さんがいるし、あの二人、やっぱりどう見たって相思相愛だもん。
 あたしはずっと、あいこに言われたセリフを反芻していた。巧さんを選んだら、困るのは由依子。ヤナのことを好きになれば、絶対、
幸せになれると思う―――。うん。その通りだ。まったくもってその通りだから、あたしはこんなにも困ってしまっている。
 幸せになれる方法がこんなに近くにあるのに、どうしてあたしは、困難なほうを選ぼうとしてるのだろう?
 
 「……由依子」
 ヤナがふいに立ち止まったから、あたしは危うくヤナに衝突するところだった。
 「ヤナ、急に止まらないでよ。びっくりするじゃん」
 「……」
 あたしもぼーっとしてたから悪いんだけど……そう思いながら、あたしは俯いたままなにも言わないヤナの顔を覗き込む。
 「ヤナ?どうしたの?元気ないような気がするけど」
 あたしの問いかけにも、なにも答えない。最初に立ち止まったの、あたしじゃなくてヤナなのに―――そう思いながら、もう一度、ヤナの
顔を覗き込もうとした、そのときだった。
 「……由依子、あのさ」
 ヤナがゆっくりと口を開いた。その口調が、いつもの軽い感じからは想像もできないほど重々しかったので、あたしは返事をするのが
一瞬遅れてしまう。
 「なに?」
 「あのさ、おまえさ……巧さんのこと、どう思ってる?」
 暗がりの中、ヤナの声はしっかりとあたしの耳に届いた。あたしはどう答えるべきか、そもそも、ヤナはなにを言ってるわけ、という
思いが交錯して、答えられずに固まってしまう。
 昼間は暖かかったけど、所詮はまだ5月の末だ。夜は冷える。あたしは、吹いてきた風に一瞬身体を震わせる。
 「これだけ、ちゃんと聞いておきたい。由依子、答えて」
 「……どうして?べつに、ただの同居人だよ。どう思ってるもなにも、ないって」
 「じゃあ、どうしてそんなに早口なんだよ。俺の顔も見ないし」
 いつになく鋭いヤナの指摘に、あたしはぐっと詰まってしまう。なにも言えないまま何十秒かが過ぎて、その間に、あたしたちのすぐ
横を車が数台、通っていった。それ以外には人気もなく、あたしとヤナはしんとした居心地の悪い空気に包まれる。
 「……由依子、こっち向いて。巧さんのこと、どう思ってる?」
 ヤナがあたしの両肩をぐっと掴んで、あたしに詰め寄ってきた。突然のヤナの行動に、あたしは「ひゃっ」と小さく声を上げてしまう。
「ヤナ、待って……なんか……変だよ……?」
 「由依子、頼むから……話、逸らさないでくれよ」
 ヤナのくりくりとした大きな目が、まっすぐにあたしを捉えている。あたしはなんだかヤナのことが怖くなって、だけどあまりにも
まっすぐにあたしを見ているから、目を逸らせなくて―――どうしていいかわからず、「いや」とか「その」とか、意味のない言葉を羅列
してしまう。
 「……巧さんのこと、好き?」
 ヤナの発したその言葉が、視線と一緒になってあたしを突き刺した。なにも言えない。否定も肯定も、できない……。
 「黙ってんなら、そういうことだって受け取るけど」
 「ちょっ……待ってよ、なんでそうなるの?ヤナ、やっぱり変だよ。帰ろう?」
 「帰らない。言って、由依子。どっち?好き?好きじゃない?」
 ヤナの視線と言葉は、まっすぐに人を射抜くかのようだ。中学時代からずっとそう。ヤナの言うことには結局誰も逆らえなくて、でも、
だからこそクラスのみんなから慕われていて。
 いまのヤナは、いつものヤナじゃないみたいだった。外灯の明かりがうっすらとヤナの顔を照らしているから、辛うじて表情はわかる
とても厳しい顔で、怒っているようで、だけど悲しそうだった。
 「……おまえが言わないんなら、言うけど。俺、由依子が好きだ」
 
 ―――え?
 俺、由依子が好きだ。
 ヤナ、いま、そう言った?
 
 「そんな顔するなよ。言っとくけど、俺、マジだから」
 そこでヤナはかすかに笑って、ああ、いつものヤナだ、大丈夫だ―――なんて、的外れなことを考えてしまう。
 「……待って、ちょっと、わかんない」
 「なにが?俺が由依子を好きだってことが?」
 「……っ」
 そんな、何回も言わないでよ!非難の気持ちを込めてヤナを睨むと、「怒るなって。てか、告白されて怒る女の子ってそうそういねえぞ」
とヤナが笑う。
 「どういう好きかわかんないって言うんだったら、教えてやろうか?」
 「え?」
 「こういう体勢でいると、キスしたり抱きしめたり、そういうことしたくなるような“好き”だよ」
 ヤナがそんなことを言うから、あたしの心臓がバクバクと暴れだした。よく考えたら、ここは暗がりで、あんまり人気もなくって、岸浜駅
までもまたちょっと距離があって……しかも、ヤナはあたしの両肩をがっしりと掴んでいて。確かに、そういうことをされてもおかしくない
シチュエーションでは、ある、けど……。
 「あ、そんな顔しないでいいって。俺、由依子の気持ちわかってるから、無理やり襲うとかしないし」
 「おっ、襲うって……ちょっと……」
 こんなの、あたしの知ってるヤナじゃない。あたしの知ってるヤナは、笑顔が可愛くて、表情がくるくる変わって、単純で、誰にでも優し
くて、誰にでも好かれて……。
 こんな、男の子って感じのヤナなんて、見たことないもん―――。
 「はいはい、そんな顔しない。で、由依子は、巧さんが好きなんだよな」
 ヤナは相変わらず、同じことばかりを訊いてくる。だいたい、自分の気持ちに気付いたの、ついさっきだし。いや、それでなくても、いま
あたし、ヤナに告白されたんだよ?自分に告白してくれた男の子に、他の人が好きだなんて、とてもじゃないけど……。
 「言えない、ってか?」
 あたしはハッとして、思わず顔を上げた。なんで?どうしてわかるの?
 「由依子、相変わらずおまえ、わかりやすすぎ。だから、俺がおまえに告白する前に、巧さんへの気持ちを言って欲しかったんだけどなあ」
 「……そんな、ヤナに告白……されるとか、わかんなかったし……」
 「だよなあ。でも俺さ、今さらかもしんないけど……同じクラスになれたとき、すっげえ嬉しかったんだよ。また一緒になったなって。
改めて由依子のこと見て、やっぱ可愛いな、変わってないな、好きだなって思った」
 「あのさ、ヤナ……ストレートすぎて、困る」
 「ストレートなのが俺のいいとこだから。好きなもんは好きって言うようにしたんだ。あんときに失敗してるから」
 「あんとき?」
 「中学時代の話。だから、いま由依子が巧さんのことを好きだったとしても、俺はそう簡単にはあきらめらんない」
 もしかして……中学のとき、ヤナがあたしのこと好きだった、って話か。そうか、両想いだったんだもんね、あたしとヤナ。
 やっぱり、あいこの言ったとおりだったよなあ……。あたしはぼんやりと思う。ヤナ、あたしのこと好きなんだ。中学時代の自分だったら、
きっと、すごく嬉しくて、飛び上がって喜んだ。
 だけど、いまのあたしは―――。
 脳裏に、巧の姿が蘇る。さっきの、気持ち良さそうに歌っている巧。掠れたような声。ギターを弾いているあの手が、男の人のものとは
思えないくらいに綺麗なことを、あたしは最近知った。
 ヤナじゃない。あたしは、いまのあたしは―――巧が好き。
 
 「……ヤナ、あのね、あたし……巧が……好きみたいなんだ」
 意を決してヤナに告げる。恐る恐る顔を上げると、ヤナはなんと、いつもみたいに笑っていた。あたしの言ったことがちゃんと伝わった
のかと思わず不安になる。
 「だから、知ってるって」
 「え?」
 「さっきから散々言ってんじゃん。なんだよ、真面目になにを言い出すかと思えば、そんなわかりきったことを」
 「どうして……」
 「見てりゃわかんだって。巧さん、男の俺から見ても超かっこいいしな」
 ヤナはあたしの肩を掴んでいた手をゆっくりと話すと、あたしの冷たくなった右手を、両手でぎゅっと包み込むように握った。ヤナの
手はびっくりするくらい温かい。
 「だけど、由依子には悪いんだけど……俺もさ、もう、そんなに簡単にあきらめたくないんだよな。由依子のこと、ちゃんと好きなんだ。
中学んときのことも含めて、幸せにしてあげたいって、本当に思ってる」
 ヤナの言葉に胸が熱くなって、そしてあたしは思う。どうしてこの人じゃないんだろう。あたしがいま好きなのは、どうしてこの人じゃない
んだろう―――と。
 「ごめんな、引き止めて。電車、次何分だっけ」
 ヤナはあたしの右手と自分の左手をぎゅっと繋いで、ゆっくりと歩き出す。あたしもヤナに引っ張られるかのように歩き出した。
 絶対、幸せになれるのにな……。そう思いながら、半歩前を歩くヤナの背中を追う。その後ろ姿は、さっきより背筋が伸びているようにも、
見えた。
 
 
 
 
 「あらー、由依子。遅かったわねえ」
 リビングに入ると、お母さんがパジャマ姿でコーヒーを飲みながら、夜のバラエティ番組を見ていた。
 「夜にコーヒー飲むと、眠れなくなるって」
 「お母さんは大丈夫よー。だって、一日何杯コーヒー飲むと思ってんの」
 「知らないよ」
 あたしは素っ気無くそう返すと、洗面所に入って手を洗ってうがいをする。小さい頃からの習慣だ。
 壁時計を見ると、もう午後10時半だった。当然巧は、まだ帰ってない。
 「……お母さん、巧から連絡あった?」
 「さっきね。終電で帰りますって」
 「そっか」
 ―――巧、打ち上げで遅くなると思う。もし終電逃したらうちに泊まってもらうから、心配しないでってお母さんに言っておいてね。そう
言って笑った詩織さんの綺麗な笑顔を思い出す。言うまでもなく巧から連絡来ましたよ、と詩織さんに言いたい気分だ。
 「どうせ遅くなるんだし、また酔っ払ってんだろうから、無理して帰ってこなくても、ねえ。お母さん、前にきつく言い過ぎちゃったかしら」
 「わかんない」
 あたしは呟くようにそう返すと、リビングを出て行こうとする。いつもなら、お母さんのお喋りに付き合ってもいいかなって思うはずなのに、
今日はなんだか一人になって考えたいことがたくさんあった。
 「なによ由依子、機嫌悪いわね。そういえば、今日、どこ行ってたのよ」
 「……ライブ。巧の」
 それだけを返して、「じゃああたし、寝るね」と言ってリビングを出た。お母さんはあたしを見て、ちょっと驚いたような顔をしたけれど、
またすぐにテレビのほうに向き直った。
 
 ……ああ、なんだか、なあ。
 結局ヤナには、家の前まで送ってもらった。手をずっと繋がれていたけれど、振りほどく勇気もなくて、ずっとそのままだった。
 あたし、巧のことが好き。じゃあ、ヤナのことは嫌い?……いや、嫌いでは、ない。むしろきっと、好き、なほうだと思う。
 だいたい、あたしが巧を好きになったところで、実る可能性ってどれだけあるんだろう。あたしの恋が実るってことは、イコール、巧が
詩織さんじゃなくてあたしを選ぶってこと。……いや、そんなの、万に一つだってないんじゃないかって思う。
 あーあ。我ながら、見込みのない恋、しちゃったよなあ……。
 あたしは、着替えもせずにベッドにごろんと寝転がると、天井をまっすぐ見る。漠然と、これからどうしようなんてことを考えてみた。
 
 それからすっかり眠ってしまったあたしは、少し後に、ノックの音で目を覚ますことになる。
 そのノックの主が誰かというと―――。
 いま、あたしが抱えている悩みの種の、一番真ん中にいるひとであった。
 
 
 
 
 
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