#15.好きになっちゃ駄目だからね
 
 
 
 
 「お、今日の朝飯は由依子か」
 巧が寝癖だらけの頭を掻きながらリビングに入ってきた。時計を見ると、まだ6時20分である。
 今日は、ゴールデンウィーク明け初日の5月7日、水曜日だ。巧は昨日も帰りが遅かったから、こんなに早く起きてくるなんて思わなかった。
 ―――やだ。目、腫れてるかも。髪も寝癖でぼさぼさだし。
 あたしはそんなことを無意識に考えながら、巧に「おはよ」と短く返す。……ていうか、なんでこんなこと考えてんだろ、あたし。一緒の
家に住んでるんだし、寝起きの顔を見られるなんて当たり前だっていうのに。
 「……今日、早いね」
 「あー、今日は授業が1講からなんだよな。めんどくせえよなあ」
 巧は独り言のように言うと、「俺、顔洗ってくるわ」と言って洗面所に引っ込んでしまった。あたしは手早く卵焼きを作り、お味噌汁を温め、
ご飯を二膳よそって、食卓テーブルに並べる。
 「巧、ご飯食べるよね」
 「ああ、食べる」
 巧はそう返事をして洗面所から出ると、「お、うまそう」と言いながら食卓テーブルについた。今日の朝ご飯は、白米にわかめのお味噌汁、
それから卵焼きに鮭の塩焼き。なんて標準的な日本の朝食だろう、と我ながら思う。
 「俺さ、朝は和食派なんだよな。あ、おばさんには言うなよ?」
 「わかってるって」
 ごく普通の朝ご飯なのに、こんなふうにおいしそうに食べてくれると、なんだか照れるな。巧ってあたしのことよくけなすけど、料理だけは
けなさないんだよね。巧のほうが料理上手なのに、あたしの作ったものをいつもおいしそうに食べてくれるし。
 「今日は学校昼で終わりだから、俺が夕飯作っとくわ」
 「え?」
 「俺が早く帰ってくることなんてそうそうないだろ。最近ずっとおばさん遅いし、適当に作っとくから」
 そう言って巧は「ごちそうさま」と席を立った。食べるの早いなあ。あたしなんてまだ、半分も食べてないのに。
 ……今日は、巧、家にいるんだ。
 なんだか嬉しいと思う自分がいることに気づく。なんだろう。この、ほっとしたような気持ちって。
 あたしはお味噌汁を啜りながら考える。巧が家にいることじゃなくって、巧のおいしい夕ご飯を食べれることに喜んでんのよ、あたしは。
 「……なに?」
 自分で自分に突っ込みを入れながら、あたしはいつの間にか巧の顔をじっと見つめていたらしい。洗い物をしている巧に、ものすごく怪訝な
顔をされてしまった。
 「い、いや、べつに」
 「洗いもん、あったら出せよ」
 「うん……」
 洗い物をしていたって寝癖がひどかったって、かっこいい人はかっこいいんだよね。不条理だな、この世の中って……。
 欠伸をしながら洗い物をしている巧を横目で見ながら、あたしはそんなことを思った。
 
 
 
 
 「え、あいこ、今日用事あるの?」
 「うん。岸浜の病院におばあちゃんが入院してるから、お見舞いに行くんだよね」
 学校からの帰り道、あたしとあいこはお喋りをしながら、岸浜駅までの道をゆっくりと歩く。
 「そっか。じゃあたし、今日一人だ。どっか寄ってこうかな」
 腕時計を見ると、まだ3時半だ。今日の夕ご飯は巧が作ってくれるみたいだし、前から気になってた雑貨屋さんでも覗いてみようかなあ。
 「あれ?今日は夕ご飯の支度しなくていいの?」
 「ん、今日は巧が作ってくれるって」
 「へえ。なんだかんだ言ってうまくやってるんだ」
 「うまく……っていうか、まあ、普通にね。同じ家にいても、毎日会うわけじゃないし」
 あいこだけは、あたしの家に巧が住んでいることを知っている。そういえば、巧の話なんてしたのすごく久しぶりかも。
 「あ、そうだ。梁江には、由依子んちに男が住んでるの、黙っておきなさいよ」
 ふいにあいこが、真顔でそんなことを言い出す。
 「え……」
 「梁江、ショックで卒倒するわよ。だって……」
 ……またヤナの話だよ、あいこってば。あたしはため息をつきながら、「あのね」とあいこの言葉を遮る。
 「ちょっと考えすぎだって。あたしとヤナはなんでもないの。だいたい、うちに巧が住んでることだってあいこにしか言ってないし、
ヤナにバレることがあるとも考えられないし」
 「……由依子、呼び方が梁江からヤナになってる」
 あいこはニヤニヤしながら言う。鋭いなあ、さすがあいこ。付き合いが長いだけあって、あいこの目だけはごまかせない、かあ……。
 「仲直りしただけ、だってば」
 一人で勝手に盛り上がっているあいこに、あたしは小さな声で言ってみた。だけど当然、あいこはまったく聞いてないのであった。
 
 
 「じゃ、気をつけてね」
 「うん。また明日ね」
 あたしはあいこと岸浜駅の西口で別れて、それから駅ビルに向かうことにした。
 あたしの気になっているその雑貨屋さんは、全部で4つある駅ビルのうちの一つに入っているはずだ。曖昧な記憶を頼りに、一番近くの
駅ビルに入ろうとした、そのときだった。
 ―――あれ……?
 この人ごみの中でも、パッと目を惹く存在があった。道行く人たちはほとんどみんな、彼女に視線を向けてから通り過ぎていく。
 あれだけ綺麗な人は、どんなに探してもなかなかいないだろう。間違いない。あれは……。
 「あれ?あなた、もしかして……」
 彼女の名前を思い出そうとした瞬間、あたしは彼女とばっちり目が合ってしまった。
 「ねえ、巧の住んでる家の子だよね?」
 彼女―――詩織さんは、あたしの顔を見ると親しげに話しかけてきた。こちらとしては話しかけるつもりなどまったくなかったので、びっくり
してしまって声も出ない。
 「あれ、覚えてないかな。一回会ってるはずなんだけど」
 「お……覚えてます」
 あたしはやっとのことで声を絞り出した。そして、こんな美人、一回見たら絶対に忘れないってば、と心の中でひっそりと付け加える。
 「びっくりした。人違いかと思っちゃった」
 「……」
 なんて返せばいいかわからない。この人、なんでこんなに親しげにあたしに話しかけてくるんだろう。前だって、二言三言話しただけなのに。
 しかし、こうして見ると本当に美人だ。こちらのほうが圧倒されてしまうような美しさ。容姿もそうだけれど、この人から滲み出る雰囲気
にも圧倒されてしまうような感じがする。不思議な人だ、と思う。
 「由依子ちゃん、だっけ?ね、いま、時間ある?」
 「え……」
 なんで名前知ってるのよ。あ、巧に聞いたのか。っていうか、いま時間ある?って、え?なに?どういうこと?
 頭の中が疑問符だらけで、どうしたらいいかわからない。あたし、ただ雑貨屋さんに寄ってこうって思ってただけなのに……。
 「そこのスタバで、ちょっとお茶しない?奢るわよ」
 そう言って詩織さんは、すごく綺麗に微笑んだ。有無を言わせない雰囲気がある。嫌って言っても聞いてくれないような気がする。
 「あ、はい……」
 案の定、あたしはすんなり頷いてしまった。詩織さんは満足そうに笑って、「じゃ、行きましょ」と歩き出してしまう。詩織さんの後ろを
歩いていると、いろんな人が詩織さんに視線を向けては通り過ぎていく、その様子がとてもよくわかった。
 ―――なんだか、すごい人、って感じ。
 圧倒的な美しさに、抜群のスタイルに、品のある話し方。……あたしみたいな平凡な高校生が一緒に歩いていい人じゃないって、絶対。
 とりあえず、あたしはドキドキしながら詩織さんの少し後ろを歩いた。いったい何の用だろう、あたしとお茶して、なにか話すことなんて
あるのかな……。
 あたしの頭の中はやはり疑問符だらけであった。今日のこの偶然を、ほんの少しだけ恨めしく思う。
 
 
 
 
 
 「由依子ちゃん、なにがいい?」
 「あ……なんでも、いいです」
 だって、スタバなんてあんまり入ったことないもん。友達とお喋りするときはたいていマックかミスド。
 スタバ、メニューがありすぎてどれがいいのかまったくわからないよ。どれもおいしいんだろうけど、どれも同じに見えちゃう……。
 「じゃ、キャラメルフラペチーノのトールサイズ二つ下さい」
 あたしが迷っていると、詩織さんがそう言って、バッグからお財布を出した。あ、あたしも払わないと。いくらかわからないけど。
 「あ、あの、お金……」
 「いいよいいよ。わたしが誘ったんだし。年下の子にお金なんか出させないって」
 そう言って詩織さんは、お財布からすっと千円札を抜いてお会計を済ませてしまった。
 ……なんか、かっこいい人だなあ。この人と巧が並んでたら、本当に絵になるんだろうな。綺麗な二人、って感じで。
 詩織さんがキャラメルフラペチーノを二つ持ってテーブル席のほうに行ってしまったので、あたしも慌てて追いかけた。なにをするのでも
スマートって感じ。すごいな。あたしといくつも年違わないはずなのに。
 ―――巧はこの人に、すごく惹かれているんだ。この人なら仕方ないかもしれない。だって、本当に魅力的な人だもの……。
 少し寂しさを感じながらも、あたしは巧の苦しげな表情や口調や、「もうそんな関係じゃない」という言葉を思い出していた。巧と
深い関係でいるのに、彼女じゃない女の人、か……。
 「由依子ちゃん、どうしたの?キャラメル、嫌いだったかな」
 「あ、いえ。すごくおいしいです。すみません、ご馳走になっちゃって」
 あたしは、詩織さんの声ではっと我に返った。そう言って、実はまだ口をつけていなかったキャラメルフラペチーノを飲んでみた。すごく
甘くておいしい。こんなお洒落なもの飲んだの、はじめてかも。
 「よかった。わたし、キャラメル好きなの。よく見かけによらないって言われるけど」
 「いえ、そんなことないです」
 「そう?嬉しいな」
 そう言って詩織さんは笑った。綺麗。美しい。そんな言葉しか浮かんでこないような、余裕のある笑みだ。
 
 「巧、この前、大丈夫だった?すごく酔っ払って帰ったでしょ」
 「えっ」
 この前って……ああ、あの日か。巧、自分で歩けないくらい酔っ払ってたから、あたしがリビングまで巧を引っ張ってったんだっけ。
 「あ、えっと……。玄関で倒れてて、あたしがリビングまで運びました」
 「電車乗って、しかもちゃんと新岸浜で降りられただけ凄いよねえ。なんであんなに飲むのかな。あんまりお酒強くないのに」
 「お酒、強くないんですか」
 「うん。好きなだけで、強くはないと思う。あの日も、わたしの家泊まってく?って言ったのに、帰るって言うから」
 泊まるという言葉に過剰に反応してしまって、思わずドキッとした。行けねえよ。もう、そんな関係じゃない。巧の言葉を思い出す。
 「……あ、ちょっと、刺激強かったかな。泊まるなんて」
 「あ、いえ。大丈夫です。詩織さんの家に泊まったことあるの、知ってますし」
 あたしが慌てて言うと、詩織さんがかすかに驚いたような顔になった。え、なにかまずいこと言ったかな、あたし。
 「巧、言ったの?わたしのところに泊まったこと」
 「え……はい。お母さんには言ってないので、あたししか知らないですけど……」
 「へえ……」
 詩織さんは神妙に頷くと、静かにストローに口をつける。いつの間にか、詩織さんのキャラメルフラペチーノは半分に減っていた。
あ、早く飲まないと溶けちゃうかな。そう思って、あたしも慌ててキャラメルフラペチーノを飲んだ。
 気まずい沈黙が流れる。詩織さん、さっきとちょっと雰囲気……変わったかも。なんかまずいこと言ったかな。でも、ずっと世間話
してたし、うっかり変なこと言っちゃうような間柄でもないし。
 
 「由依子ちゃんって、可愛いよね」
 沈黙を破ったのは詩織さんだった。あたしはその言葉を聞いて、思わずむせてしまう。
 「え……」
 「あれ、可愛いって言われない?モテると思うんだけどなあ、由依子ちゃんみたいなタイプって」
 「え、そんな、全然です。全然、モテないです!」
 突然なにを言い出すかと思えば……詩織さんって、いったいなにを考えてるんだろう。わからない。そういえばずっと前、巧が詩織さんの
こと「掴みどころない」って言ってたっけ。確かに、そんな感じがする。
 「うん、そんなところがね。すっごく、モテそう」
 詩織さんはそう呟くと、あたしの顔をまっすぐ見た。詩織さんのあまりにも整った顔がこんなに近くにあると、思わず身構えてしまう。
なんだか、直視できない……。
 「ね、由依子ちゃん。巧って、かっこいいよね」
 「へ?」
 ……かと思ったら、今度は巧の話?どうなってるのよ、詩織さんの思考回路って。
 「すごく綺麗な顔よね。背も高いし」
 「え……っと、まあ、外見的には、言うことなしだと思いますけど」
 外見的には、だけどね。性格には多少問題ありだし。……まあ、悪いってわけではないけど。
 「そうよね。ねえ、わたし、可愛らしい由依子ちゃんに言っておきたいことがあるの」
 詩織さんはそう言うと、キャラメルフラペチーノを一気に飲み干してしまった。わ、見かけによらない豪快な飲みっぷり……。あたしは
そんなことを考えながら、背筋にぞくっと寒気が走ったことに気づく。
 なんだろう。この、お化け屋敷にでも入ったような感じ。目の前にいる詩織さんは笑ってるのに。
 
 「由依子ちゃん。巧のこと、好きになっちゃ駄目だからね」
 詩織さんは綺麗な微笑みをまったく崩さないまま、そんなことを口にした。喧騒の中なのに、やたらはっきりと聞こえたその言葉は、あたしの
中にどすん、という重々しい音を立てて落ちていく。
 「え……」
 「由依子ちゃんって可愛いから、心配なの。巧はわたしのだから、取っちゃ駄目よ。……なんてね」
 詩織さんは冗談っぽく言ったけれど、本気で言ったようにしか聞こえない。
 喉がからからに渇いている。どうしてだろう。言葉が出てこない。
 「あれ?由依子ちゃん、どしたの?わたし、そんなに本気っぽかった?」
 「え……いや、大丈夫、です」
 なにが大丈夫なんだろう。自分でもわからない。
 詩織さんは綺麗な微笑みを絶やさない。しかも、口にしたのは彼女なら当然のセリフ。そうよね。彼氏が他の女の子と同居してるなんて、
あんまりいい気しないもの。
 わかってる。詩織さんの言ったことに、間違いなんてなにもないことを。
 ―――それなら。それなら、あたし。
 どうしてこんなに、動揺してるんだろう……?
 
 
 
 
 詩織さんの家は岸浜駅のすぐ近くだというので、あたしと詩織さんはスタバの前でそのまま別れた。
 あたしは行きたいと思っていた雑貨屋さんに行く気にもなれず、そのままふらふらと改札を通って帰路につく。家に帰ると、玄関まで
いい匂いが漂ってきた。
 「お、由依子。俺、今日はロールキャベツに挑戦したんだけど」
 「……いま着替えてくるから、それから食べるね」
 あたしは素っ気なく返すと、階段をゆっくりと上った。今日こそちゃんと食べないと、巧、また不機嫌になっちゃうかな……。
 
 今日詩織さんに会ったことを、巧に言う気にはなれなかった。もちろん、あの人に言われたことも。
 ―――巧のこと、好きになっちゃ駄目だからね。
 思い出すと、ずきんと胸が痛む。どうしてだろう。詩織さんのあの目。声。存在感。雰囲気。
 ……やだ。あたし、なに考えてるんだろう。動揺する理由なんて、どこにもないじゃない。
 
 あたしは巧のこと、そんなふうに見てない。
 自分にそう言い聞かせてみたけれど、いまいち信憑性がないような気がした。
 あたしは巧のことなんて、好きにならない。
 そう言い聞かせても、もっと信憑性がなくなってしまうだけであった。
 どうしてだろう。
 どんな言葉も、すべて薄っぺらい嘘に聞こえてしまうのは―――。
 
 
 
 
 
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