#15.好きになっちゃ駄目だからね
*
「お、今日の朝飯は由依子か」
巧が寝癖だらけの頭を掻きながらリビングに入ってきた。時計を見ると、まだ6時20分である。
今日は、ゴールデンウィーク明け初日の5月7日、水曜日だ。巧は昨日も帰りが遅かったから、こんなに早く起きてくるなんて思わなかった。
―――やだ。目、腫れてるかも。髪も寝癖でぼさぼさだし。
あたしはそんなことを無意識に考えながら、巧に「おはよ」と短く返す。……ていうか、なんでこんなこと考えてんだろ、あたし。一緒の
家に住んでるんだし、寝起きの顔を見られるなんて当たり前だっていうのに。
「……今日、早いね」
「あー、今日は授業が1講からなんだよな。めんどくせえよなあ」
巧は独り言のように言うと、「俺、顔洗ってくるわ」と言って洗面所に引っ込んでしまった。あたしは手早く卵焼きを作り、お味噌汁を温め、
ご飯を二膳よそって、食卓テーブルに並べる。
「巧、ご飯食べるよね」
「ああ、食べる」
巧はそう返事をして洗面所から出ると、「お、うまそう」と言いながら食卓テーブルについた。今日の朝ご飯は、白米にわかめのお味噌汁、
それから卵焼きに鮭の塩焼き。なんて標準的な日本の朝食だろう、と我ながら思う。
「俺さ、朝は和食派なんだよな。あ、おばさんには言うなよ?」
「わかってるって」
ごく普通の朝ご飯なのに、こんなふうにおいしそうに食べてくれると、なんだか照れるな。巧ってあたしのことよくけなすけど、料理だけは
けなさないんだよね。巧のほうが料理上手なのに、あたしの作ったものをいつもおいしそうに食べてくれるし。
「今日は学校昼で終わりだから、俺が夕飯作っとくわ」
「え?」
「俺が早く帰ってくることなんてそうそうないだろ。最近ずっとおばさん遅いし、適当に作っとくから」
そう言って巧は「ごちそうさま」と席を立った。食べるの早いなあ。あたしなんてまだ、半分も食べてないのに。
……今日は、巧、家にいるんだ。
なんだか嬉しいと思う自分がいることに気づく。なんだろう。この、ほっとしたような気持ちって。
あたしはお味噌汁を啜りながら考える。巧が家にいることじゃなくって、巧のおいしい夕ご飯を食べれることに喜んでんのよ、あたしは。
「……なに?」
自分で自分に突っ込みを入れながら、あたしはいつの間にか巧の顔をじっと見つめていたらしい。洗い物をしている巧に、ものすごく怪訝な
顔をされてしまった。
「い、いや、べつに」
「洗いもん、あったら出せよ」
「うん……」
洗い物をしていたって寝癖がひどかったって、かっこいい人はかっこいいんだよね。不条理だな、この世の中って……。
欠伸をしながら洗い物をしている巧を横目で見ながら、あたしはそんなことを思った。
*
「え、あいこ、今日用事あるの?」
「うん。岸浜の病院におばあちゃんが入院してるから、お見舞いに行くんだよね」
学校からの帰り道、あたしとあいこはお喋りをしながら、岸浜駅までの道をゆっくりと歩く。
「そっか。じゃあたし、今日一人だ。どっか寄ってこうかな」
腕時計を見ると、まだ3時半だ。今日の夕ご飯は巧が作ってくれるみたいだし、前から気になってた雑貨屋さんでも覗いてみようかなあ。
「あれ?今日は夕ご飯の支度しなくていいの?」
「ん、今日は巧が作ってくれるって」
「へえ。なんだかんだ言ってうまくやってるんだ」
「うまく……っていうか、まあ、普通にね。同じ家にいても、毎日会うわけじゃないし」
あいこだけは、あたしの家に巧が住んでいることを知っている。そういえば、巧の話なんてしたのすごく久しぶりかも。
「あ、そうだ。梁江には、由依子んちに男が住んでるの、黙っておきなさいよ」
ふいにあいこが、真顔でそんなことを言い出す。
「え……」
「梁江、ショックで卒倒するわよ。だって……」
……またヤナの話だよ、あいこってば。あたしはため息をつきながら、「あのね」とあいこの言葉を遮る。
「ちょっと考えすぎだって。あたしとヤナはなんでもないの。だいたい、うちに巧が住んでることだってあいこにしか言ってないし、
ヤナにバレることがあるとも考えられないし」
「……由依子、呼び方が梁江からヤナになってる」
あいこはニヤニヤしながら言う。鋭いなあ、さすがあいこ。付き合いが長いだけあって、あいこの目だけはごまかせない、かあ……。
「仲直りしただけ、だってば」
一人で勝手に盛り上がっているあいこに、あたしは小さな声で言ってみた。だけど当然、あいこはまったく聞いてないのであった。
「じゃ、気をつけてね」
「うん。また明日ね」
あたしはあいこと岸浜駅の西口で別れて、それから駅ビルに向かうことにした。
あたしの気になっているその雑貨屋さんは、全部で4つある駅ビルのうちの一つに入っているはずだ。曖昧な記憶を頼りに、一番近くの
駅ビルに入ろうとした、そのときだった。
―――あれ……?
この人ごみの中でも、パッと目を惹く存在があった。道行く人たちはほとんどみんな、彼女に視線を向けてから通り過ぎていく。
あれだけ綺麗な人は、どんなに探してもなかなかいないだろう。間違いない。あれは……。
「あれ?あなた、もしかして……」
彼女の名前を思い出そうとした瞬間、あたしは彼女とばっちり目が合ってしまった。
「ねえ、巧の住んでる家の子だよね?」
彼女―――詩織さんは、あたしの顔を見ると親しげに話しかけてきた。こちらとしては話しかけるつもりなどまったくなかったので、びっくり
してしまって声も出ない。
「あれ、覚えてないかな。一回会ってるはずなんだけど」
「お……覚えてます」
あたしはやっとのことで声を絞り出した。そして、こんな美人、一回見たら絶対に忘れないってば、と心の中でひっそりと付け加える。
「びっくりした。人違いかと思っちゃった」
「……」
なんて返せばいいかわからない。この人、なんでこんなに親しげにあたしに話しかけてくるんだろう。前だって、二言三言話しただけなのに。
しかし、こうして見ると本当に美人だ。こちらのほうが圧倒されてしまうような美しさ。容姿もそうだけれど、この人から滲み出る雰囲気
にも圧倒されてしまうような感じがする。不思議な人だ、と思う。
「由依子ちゃん、だっけ?ね、いま、時間ある?」
「え……」
なんで名前知ってるのよ。あ、巧に聞いたのか。っていうか、いま時間ある?って、え?なに?どういうこと?
頭の中が疑問符だらけで、どうしたらいいかわからない。あたし、ただ雑貨屋さんに寄ってこうって思ってただけなのに……。
「そこのスタバで、ちょっとお茶しない?奢るわよ」
そう言って詩織さんは、すごく綺麗に微笑んだ。有無を言わせない雰囲気がある。嫌って言っても聞いてくれないような気がする。
「あ、はい……」
案の定、あたしはすんなり頷いてしまった。詩織さんは満足そうに笑って、「じゃ、行きましょ」と歩き出してしまう。詩織さんの後ろを
歩いていると、いろんな人が詩織さんに視線を向けては通り過ぎていく、その様子がとてもよくわかった。
―――なんだか、すごい人、って感じ。
圧倒的な美しさに、抜群のスタイルに、品のある話し方。……あたしみたいな平凡な高校生が一緒に歩いていい人じゃないって、絶対。
とりあえず、あたしはドキドキしながら詩織さんの少し後ろを歩いた。いったい何の用だろう、あたしとお茶して、なにか話すことなんて
あるのかな……。
あたしの頭の中はやはり疑問符だらけであった。今日のこの偶然を、ほんの少しだけ恨めしく思う。
*
「由依子ちゃん、なにがいい?」
「あ……なんでも、いいです」
だって、スタバなんてあんまり入ったことないもん。友達とお喋りするときはたいていマックかミスド。
スタバ、メニューがありすぎてどれがいいのかまったくわからないよ。どれもおいしいんだろうけど、どれも同じに見えちゃう……。
「じゃ、キャラメルフラペチーノのトールサイズ二つ下さい」
あたしが迷っていると、詩織さんがそう言って、バッグからお財布を出した。あ、あたしも払わないと。いくらかわからないけど。
「あ、あの、お金……」
「いいよいいよ。わたしが誘ったんだし。年下の子にお金なんか出させないって」
そう言って詩織さんは、お財布からすっと千円札を抜いてお会計を済ませてしまった。
……なんか、かっこいい人だなあ。この人と巧が並んでたら、本当に絵になるんだろうな。綺麗な二人、って感じで。
詩織さんがキャラメルフラペチーノを二つ持ってテーブル席のほうに行ってしまったので、あたしも慌てて追いかけた。なにをするのでも
スマートって感じ。すごいな。あたしといくつも年違わないはずなのに。
―――巧はこの人に、すごく惹かれているんだ。この人なら仕方ないかもしれない。だって、本当に魅力的な人だもの……。
少し寂しさを感じながらも、あたしは巧の苦しげな表情や口調や、「もうそんな関係じゃない」という言葉を思い出していた。巧と
深い関係でいるのに、彼女じゃない女の人、か……。
「由依子ちゃん、どうしたの?キャラメル、嫌いだったかな」
「あ、いえ。すごくおいしいです。すみません、ご馳走になっちゃって」
あたしは、詩織さんの声ではっと我に返った。そう言って、実はまだ口をつけていなかったキャラメルフラペチーノを飲んでみた。すごく
甘くておいしい。こんなお洒落なもの飲んだの、はじめてかも。
「よかった。わたし、キャラメル好きなの。よく見かけによらないって言われるけど」
「いえ、そんなことないです」
「そう?嬉しいな」
そう言って詩織さんは笑った。綺麗。美しい。そんな言葉しか浮かんでこないような、余裕のある笑みだ。
「巧、この前、大丈夫だった?すごく酔っ払って帰ったでしょ」
「えっ」
この前って……ああ、あの日か。巧、自分で歩けないくらい酔っ払ってたから、あたしがリビングまで巧を引っ張ってったんだっけ。
「あ、えっと……。玄関で倒れてて、あたしがリビングまで運びました」
「電車乗って、しかもちゃんと新岸浜で降りられただけ凄いよねえ。なんであんなに飲むのかな。あんまりお酒強くないのに」
「お酒、強くないんですか」
「うん。好きなだけで、強くはないと思う。あの日も、わたしの家泊まってく?って言ったのに、帰るって言うから」
泊まるという言葉に過剰に反応してしまって、思わずドキッとした。行けねえよ。もう、そんな関係じゃない。巧の言葉を思い出す。
「……あ、ちょっと、刺激強かったかな。泊まるなんて」
「あ、いえ。大丈夫です。詩織さんの家に泊まったことあるの、知ってますし」
あたしが慌てて言うと、詩織さんがかすかに驚いたような顔になった。え、なにかまずいこと言ったかな、あたし。
「巧、言ったの?わたしのところに泊まったこと」
「え……はい。お母さんには言ってないので、あたししか知らないですけど……」
「へえ……」
詩織さんは神妙に頷くと、静かにストローに口をつける。いつの間にか、詩織さんのキャラメルフラペチーノは半分に減っていた。
あ、早く飲まないと溶けちゃうかな。そう思って、あたしも慌ててキャラメルフラペチーノを飲んだ。
気まずい沈黙が流れる。詩織さん、さっきとちょっと雰囲気……変わったかも。なんかまずいこと言ったかな。でも、ずっと世間話
してたし、うっかり変なこと言っちゃうような間柄でもないし。
「由依子ちゃんって、可愛いよね」
沈黙を破ったのは詩織さんだった。あたしはその言葉を聞いて、思わずむせてしまう。
「え……」
「あれ、可愛いって言われない?モテると思うんだけどなあ、由依子ちゃんみたいなタイプって」
「え、そんな、全然です。全然、モテないです!」
突然なにを言い出すかと思えば……詩織さんって、いったいなにを考えてるんだろう。わからない。そういえばずっと前、巧が詩織さんの
こと「掴みどころない」って言ってたっけ。確かに、そんな感じがする。
「うん、そんなところがね。すっごく、モテそう」
詩織さんはそう呟くと、あたしの顔をまっすぐ見た。詩織さんのあまりにも整った顔がこんなに近くにあると、思わず身構えてしまう。
なんだか、直視できない……。
「ね、由依子ちゃん。巧って、かっこいいよね」
「へ?」
……かと思ったら、今度は巧の話?どうなってるのよ、詩織さんの思考回路って。
「すごく綺麗な顔よね。背も高いし」
「え……っと、まあ、外見的には、言うことなしだと思いますけど」
外見的には、だけどね。性格には多少問題ありだし。……まあ、悪いってわけではないけど。
「そうよね。ねえ、わたし、可愛らしい由依子ちゃんに言っておきたいことがあるの」
詩織さんはそう言うと、キャラメルフラペチーノを一気に飲み干してしまった。わ、見かけによらない豪快な飲みっぷり……。あたしは
そんなことを考えながら、背筋にぞくっと寒気が走ったことに気づく。
なんだろう。この、お化け屋敷にでも入ったような感じ。目の前にいる詩織さんは笑ってるのに。
「由依子ちゃん。巧のこと、好きになっちゃ駄目だからね」
詩織さんは綺麗な微笑みをまったく崩さないまま、そんなことを口にした。喧騒の中なのに、やたらはっきりと聞こえたその言葉は、あたしの
中にどすん、という重々しい音を立てて落ちていく。
「え……」
「由依子ちゃんって可愛いから、心配なの。巧はわたしのだから、取っちゃ駄目よ。……なんてね」
詩織さんは冗談っぽく言ったけれど、本気で言ったようにしか聞こえない。
喉がからからに渇いている。どうしてだろう。言葉が出てこない。
「あれ?由依子ちゃん、どしたの?わたし、そんなに本気っぽかった?」
「え……いや、大丈夫、です」
なにが大丈夫なんだろう。自分でもわからない。
詩織さんは綺麗な微笑みを絶やさない。しかも、口にしたのは彼女なら当然のセリフ。そうよね。彼氏が他の女の子と同居してるなんて、
あんまりいい気しないもの。
わかってる。詩織さんの言ったことに、間違いなんてなにもないことを。
―――それなら。それなら、あたし。
どうしてこんなに、動揺してるんだろう……?
*
詩織さんの家は岸浜駅のすぐ近くだというので、あたしと詩織さんはスタバの前でそのまま別れた。
あたしは行きたいと思っていた雑貨屋さんに行く気にもなれず、そのままふらふらと改札を通って帰路につく。家に帰ると、玄関まで
いい匂いが漂ってきた。
「お、由依子。俺、今日はロールキャベツに挑戦したんだけど」
「……いま着替えてくるから、それから食べるね」
あたしは素っ気なく返すと、階段をゆっくりと上った。今日こそちゃんと食べないと、巧、また不機嫌になっちゃうかな……。
今日詩織さんに会ったことを、巧に言う気にはなれなかった。もちろん、あの人に言われたことも。
―――巧のこと、好きになっちゃ駄目だからね。
思い出すと、ずきんと胸が痛む。どうしてだろう。詩織さんのあの目。声。存在感。雰囲気。
……やだ。あたし、なに考えてるんだろう。動揺する理由なんて、どこにもないじゃない。
あたしは巧のこと、そんなふうに見てない。
自分にそう言い聞かせてみたけれど、いまいち信憑性がないような気がした。
あたしは巧のことなんて、好きにならない。
そう言い聞かせても、もっと信憑性がなくなってしまうだけであった。
どうしてだろう。
どんな言葉も、すべて薄っぺらい嘘に聞こえてしまうのは―――。