#13.ふたりの一日
 
 
 
 ―――これでよし、と。
 あたしは自分の部屋の全身鏡に映った自分の姿を見て、こくんと小さく頷いた。うん、そんなに悪くないんじゃないかな、今日のあたし。
 5月に入ってからめっきり春らしい気候になって、今日も雲ひとつない快晴だ。北海道は4月中はまだまだ寒くて上着を手放せない日が
多いけど、5月に入るとそんな日も少しずつ減っていく。
 あ、でも、帰ってくるのはきっと夕方だから、やっぱり少し冷えるかな。あたしはそう思い直してクローゼットから薄手のカーディガンを
取り出す。
 いつもはあまり穿かないスカートに、トップスは春らしくふわっとした生地のものを選んだ。……うーん、あたしらしくないかなあ。
でも、男の子と二人で出かけるなんて初めてだから、何を着ていったらいいのか、いまいちよくわからないな……。
 自分が持っている“よそ行き”の服をほとんどすべて出してきてあれこれ試着していたら、もうすでに9時20分になっていた。やだ、
髪とかまだなにもしてないのに!
 あたしは結局、試着した中で一番自然かつ可愛い組み合わせのものを選んで、それを着て慌てて階段を下りた。あたしの髪はせいぜい
肩をすこし過ぎるという程度の長さなので、髪はそんなに工夫のしようがないんだけど。
 髪をブローしている最中に、ふと自分が必要以上に緊張していることに気づく。別にデートなわけでもないのに。
 ……そうだよ、なにを浮き足立ってるんだ、あたし。相手は梁江だし。ただお花見の買い出しに行くだけだし。
 あたしと梁江の二人で出かけるということに特別な意味など何もないのに、相手が梁江だというだけで変に緊張してしまう。ふいに戻って
くる中学時代の自分。あんなことをされたのに、あたし、いつの間にか気にしなくなっちゃってる……。
 「あら由依子、出かけるの?可愛い恰好して」
 寝癖をつけたままのお母さんが、洗面所にひょいっと顔を出す。昨日遅かったから、いま起きたのかな。
 「う、うん……ちょっとあいこと買い物に」
 「あ、そうなの。気をつけてね」
 本当は男の子と二人で出かけるなんて、恥ずかしくて言えない……なあ。
 あたしは呑気に「さあて、コーヒー飲もう」とリビングに戻っていくお母さんを見ながら、そんなことを考えていた。
 
 
 
 
 新岸浜駅の改札口前に立っていると、まもなく梁江がやって来た。腕時計を見ると10時5分前。梁江が待ち合わせに遅れずに来る
なんて、と思う。こんなに時間にきっちりしている人だったっけ?
 「え、あれ、由依子?由依子だよな?」
 「えっ」
 あたしを見た瞬間、目を丸くして素っ頓狂な声をあげた梁江に、こちらのほうがびっくりしてしまう。
 「……その、私服だと、わかんないもんだな。いや、俺、一瞬わかんなかった……由依子だって」
 「あ、ごめん……」
 「いや、謝ることではないだろ……」
 あたしと梁江の間に、妙な空気が流れる。やだ、やっぱり失敗したのかも。この服、ちょっと可愛いらしすぎた?もうちょっとシンプルな
服のほうがあたしらしかったかも。……何て言ったらいいんだろ、こういうときって。
 「あ、いや……その、由依子、そういうのも、似合うんだな……」
 梁江は雑踏にかき消されてしまうくらいの小さな声で呟いて、「や、なんでもない!早く行こうぜ、電車来るし」と早口で言って一人で
改札口を抜けてしまった。
 「ちょっと、梁江……」
 なんなのよ、もう。あたしもバッグから定期を出して、慌てて改札口を抜けた。梁江の後を追う。
 ―――由依子、そういうのも、似合うんだな……。
 でも、ばっちり聞こえちゃったよ、さっきの。もしかしてこれ、照れ隠し……かなあ……。
 少しだけ、いや、すごく嬉しい気持ちを隠すように、あたしは「なんで先に行っちゃうのよ」と怒ったように梁江に言ってみる。だけど
梁江は「いや、その、ごめん」とまた早口で言っただけで、他にはなにも言わなかった。梁江の耳が少しだけ赤いのは、あたしの気のせい……かな。
 
 
 岸浜駅に着くと、ゴールデンウィーク中だからだろうか、いつも以上に人が多かった。ちょっとでも目を離したら、すぐに梁江とはぐれて
しまいそうだ。
 「由依子、俺のこと見失うなよ。おまえ、結構ボーッとしてるとこあるから」
 梁江があたしをからかうかのようにそう言う。さっきの妙な空気は、電車に乗っていた5分の間にどこかにいってしまったらしい。
よかった、と内心ほっとする。
 「しっかし、人すげえなあ。とりあえずどこ行くよ?なんか食う?」
 「えっ」
 あたしと梁江はとりあえず、地下に続くエスカレーターを降りて駅ビルに入った。ざわめく人ごみの中、あたしは梁江を見失わない
ようにするのが精一杯だ。
 「俺、腹減った。なんか食おうぜ、安いモンなら奢ってやるよ」
 「え、え……下見とか、買い出しとかは?」
 「そんなの後だって。せっかく来たんだからいいじゃねえか、ほら」
 そう言って梁江は、あたしにすっと左手を差し出した。その左手の意味がわからなくて、あたしは思わず立ち止まって梁江の顔をまじまじと
見てしまう。
 「おい、いきなり止まるなよ。人にぶつかるぞ」
 「え、だって……」
 あたしが立ち止まったまま梁江の左手と顔を交互に見比べていると、案の定、道行く人にぶつかってしまう。
 「ほら、言ったろ。早く行くぞ」
 「え、ちょっ……」
 梁江の左手があたしの右手を強引にさらって、ぐいぐいと引っ張る。予想しない出来事の連続に、あたしの頭がついていけていない。
ただ、いまわかるのは、梁江の大きな手にぎゅっと握られているあたしの右手が、ほんのり温かいということで。
 「……梁江、手……」
 「いいだろ、デートみたいで」
 梁江はさらっと言って、「俺、甘いモン食いたい。ミスド行こうぜ、ミスド」と早口で続けた。あたしは「う、うん」という曖昧な
返事を返すことしかできない。
 ……なんであたし、梁江と手繋いでんの。ちょっと前なら絶対に嫌だったし、こんなの、すぐに振りほどいていたのに。だいたい、
デートってなによ、デートって。ただのお花見の買い出しと下見でしょ。梁江は誘いやすいからあたしを誘ったわけで。
 心の中で、いろんな角度からいろんな自分の声が聞こえた。だけど、ぎゅっと握られた手や“デート”っていう梁江の言葉に、ちょっと
だけ浮き足立っている自分もいるわけで。
 ―――ま、いいか。
 あたしより半歩前を歩いている梁江の表情は、ここからでは見えない。だけどやっぱり、ちょっとだけ耳が赤いかも。さっきも、あたしの
気のせいじゃなかったのかな。
 歩く速さが遅くなったり速くなったりしている梁江をちらっと見て、あたしはちょっとだけ笑ってしまった。歩く速さを合わせてくれよう
としているのかもしれない。
 今日、来てよかったかも。そんなことを思いながら、あたしは黙って梁江について行くことにする。もちろん、手は繋いだままで。
  
 
 「そーだなあ、とりあえず中央公園だろ?でも、場所取り、すっげえ大変そう」
 梁江は本日3個目のドーナツ――ちなみにポンデリング――を美味しそうに頬張りながら言った。
 気がつくともう昼の12時を回っていた。あたしたちは結局、ずっとここで今日明日の計画を練っているのだった。花見をやろう、と
言い出したのは梁江なのに、細かいことはあまり決めていなかったらしい。ここら辺の大雑把さが、さすが梁江という感じだ。
 「中央公園でも、人気ありそうな場所は避けたらいいんじゃない?」
 「いや、でもなあ……やっぱり俺が朝4時から張り込むか……」
 張り込むって、刑事じゃないんだから。あたしは梁江のセリフに思わず突っ込みを入れそうになってしまう。
 「でも、どうやってここまで来るわけ?4時なんて、電車もバスも地下鉄も動いてないよ」
 「それは問題ないだろ。チャリっていう便利なモンがあるじゃねえか」
 梁江はあたしの疑問をばっさりと切り捨てる。ああ、そうでしたか……。やっぱり現役運動部は違うよね。あたしなんて、新岸浜から
岸浜まで自転車で来たら、たぶん次の日は筋肉痛で動けないと思う。
 「んー、でも、一人じゃ寂しいよなあ。中央公園に家近いやつって、うちのクラスにいる?」
 「どうだろ……」
 岸浜の中央公園は、名前の通り岸浜のど真ん中にあるすごく広い公園だ。あまりにも広いので、運動場もあれば噴水もあるし、ちょっとした
野外ホールのようなものもある。
 「まあ俺が言いだしっぺだし、べつに一人でやってもいいんだけどな。こればかりはおまえに頼むわけにいかねえし」
 そう言って梁江が、あたしの顔を見て少し笑ってみせる。不覚にもドキッとしてしまったので、あたしはそれをごまかすように、慌てて
チョコレートドーナツに噛りつく。
 「おまえをチャリに乗せるのはいいんだけど、女の子をそんな朝っぱらから引っ張り回すわけにいかないもんな」
 梁江の言葉に、あたしはまたドキッとしてしまう。女の子、だって。もしやあたし、梁江に女の子扱いされてる?違和感はもちろん感じる
けれど、それより、嬉しい。梁江があたしのことを、女の子、だなんて。
 「やっぱ、岸浜に住んでるやつ探すわ。うん。それがいい」
 あたしの気持ちなんて知るはずもなく、梁江はそう言って一人でうんうん頷いている。「由依子がそれ食ったら、中央公園行ってみようぜ」
梁江が言うので、あたしは少しだけ急いでチョコレートドーナツを食べ終えた。
 
 
 
 
 「よし、決めた。やっぱ俺、明日は朝3時半にうちを出て、4時に中央公園に着いて、場所取りするわ」
 新岸浜駅からの帰り道、あたしと梁江はもう手を繋いでいない。だけど二人の距離はいつもよりも少しだけ近くて、さっきまで梁江に
握られていたあたしの右手は、まだ温かい。
 「30分で着く?」
 「当たり前だろ。俺の脚力をなめんなって」
 ……脚力の問題じゃない気もするけどなあ。そう思ったけれど、梁江はなにやら自信ありげなので、なにも言わずに黙っておくことにする。
 「あ、梁江の家、こっちでしょ。あたし、ここまっすぐだから」
 あたしと梁江の家は結構近い。距離にすると500メートルほどだろうか。ちなみに、梁江の家は次の角を右に曲がってまっすぐ行った
ところに、あたしの家はこの小さな道をもう少しまっすぐ行ったところにある。
 「なに言ってんだよ。ちゃんと家まで送るって」
 「え、でも、近いし」
 「そういう問題じゃないだろ。だいたい、デートの帰りってのは、男が女の子の家までちゃんと送り届けるもんなの」
 ―――また、女の子って言った。
 自分の頬がほんのり熱くなるのを感じて、あたしは梁江からさっと視線を逸らしてしまった。梁江に女の子扱いされるなんて、なんだか
すごく変な感じだよ。恥ずかしいような、くすぐったいような、嬉しいような。
 しかも、またデートって言ってるし。ただの買い出しと下見だよ?……そりゃ、手は繋いでたけど。
 「お、見えてきた。確かに近いよな、俺んちとおまえんち」
 あたしの家の玄関先に明かりが灯っている。珍しい。まだ6時すぎなのに、お母さんが帰ってきてるんだ。
 「じゃ、明日、10時に中央公園な。まああとで全員にメール回すけど」
 「うん」
 「今日楽しかった。付き合ってくれてありがとな」
 梁江はそう言って、あたしの頭をポン、と軽く叩いた。そしてくるっと踵を返して、いま来た道をまた歩いていく。
 ……送ってくれてありがとうって、言えなかったな。
 少しずつ小さくなっていく梁江の後姿を見ながら、あたしはそんなことを考えていた。いつもよりちょっとだけ速い鼓動。なんだか、
今さらになってドキドキしてきた。
 なにもなかったような顔して家に入らないと、お母さんに余計な詮索をされかねない。ただでさえ最近、「ねえ由依子ぉ、彼氏できないの?
高校2年生にもなって」なんて言われるのに。
 あとでちゃんとメールしよう。送ってくれてありがとうって。それくらいはちゃんと言わなきゃ……だよね。
 
 家に帰ると、巧は不在だったけれど、お母さんは仕事から帰っていた。
 あたしはリビングには顔を出さずに、すぐに自分の部屋に戻った。鏡を見ると、やっぱり顔がちょっとだけ赤い気がする。
 『さっき送ってくれて、ありがとう』―――部屋に戻ってカーディガンを脱ぐと、それだけ書いたメールを梁江に送信する。
 リビングに行くときに、いつも通り散らかった巧の部屋をちらっと見てみた。不在なんだから当たり前だけど部屋の中は真っ暗で、それが
なぜか少し寂しく感じる。
 巧、今日はちゃんと帰ってくるんだろうか。あたしはふと、そんなことを思った。
 
 
 
 
 
 
シュガーベイビィTop Novel Top
 
 
inserted by FC2 system