#11.プラスマイナスゼロ
 
 
 
 
 「それじゃ、うちのクラスの学級委員は梁江で決まりだな。半年間、ちゃんとやれよー」
 担任の先生が言うと、梁江は「もちろんです!」と大声で答えた。そんな梁江を見て、クラスのみんなから笑いが巻き起こる。
 「すっごいねー、梁江。ほぼ満場一致で学級委員。超人気者じゃない」
 隣の席の女の子が、あたしに向かってそう呟いた。とりあえず「そうだね」と返しておく。クラスの人気者なのは中学時代から変わって
ない。梁江、中学時代も3年間学級委員だったもん。
 「よっしゃ、5年連続学級委員」
 梁江があたしの頭をポンと軽く叩いて、笑いながらそう言った。ちょっとドキッとしたけれど、なんでもないような顔をして「よかった
じゃん」と返した。隣の席の女の子があたしを見て「梁江と仲いいんだね」と言う。
 「そんなことないって。中学一緒だったから、ちょっと喋るだけ」
 だいぶ普通に話せるようにはなったけれど、まだ動揺しちゃうなあ。梁江、本当に普通なんだもん。中学のときとまったく同じ調子で
接してくるし。
 4月23日木曜日の5時間目、ロングホームルーム。もうすぐ桜が咲きそうだなと、あたしは窓の外の桜の木をぼんやり見つめてみる。
 
 
 
 
 「由依子、一緒に帰らねえ?」
 放課後、いつも一緒に帰っているあいこが部活なので、あたしは一人で教室を出ようとしていた。
 「え?」
 「今日、皆瀬が一緒じゃないみたいだから。俺今日、部活休みなんだ」
 そう言いながら、梁江はあたしの顔を見たり下を向いたりと忙しない。心なしかいつもよりそわそわしている気もする。
 「別に、いいけど……」
 「マジで?!」
 「うん……」
 「じゃ、俺、鞄持ってくるから、ちょっと待ってて!」
 そう言って梁江は慌てて教室の中に戻って、自分の鞄を引っつかんであたしのところに戻ってきた。5秒もかかってないくらいの早業だ。
 「……そんなに、急がなくても」
 あたしはそう言いながらも、梁江の行動がちょっとかわいく思えて笑ってしまった。ついこないだまで、梁江をかわいいと思う日が来る
なんて、予想もしていなかったのに。
 「いや、急ぐだろ。だって由依子、俺のこと嫌いだから、先に帰っちゃうかもしれねえもん」
 「あのね……」
 せっかくあのトラウマを徐々に克服しているところなのに、なんてことを言うんだ、という気持ちを込めて梁江を睨む。梁江が慌てた
ように「いや、冗談、冗談だよ」と笑って言った。
 「せっかく由依子と帰れんのに、俺、自分から雰囲気悪くしてどうすんだ」
 梁江は自分で自分に突っ込みを入れて、あたしに困ったような顔を見せた。その表情はやっぱり中学時代とまったく変わらなかったので、
あたしは可笑しくなって、また笑ってしまう。
 
 「すげーいい天気だなあ」
 「だね」
 春らしい柔らかな風が吹く中を、梁江と二人でゆっくりと歩いている。なんだか変な感じだ。
 「こうしてっと、中学ん時に戻ったみたいだな」
 「うん……」
 あの出来事があるまでは、クラスで一番仲のいい男の子だった梁江。だから二人で一緒に帰ることはよくあった。あたしはずっと梁江の
ことが好きだったから、「由依子、一緒に帰ろうぜ」って言われるたびにドキドキしてたな……。
 「俺さあ、学級委員になったからには、絶対やりたいことがあんだよな」
 あたしが回想に耽っていると、梁江は大きく伸びをしながらそう言った。
 「やりたいこと?」
 「いままでずっと学級委員やってきたけど、いまだに実現してねえんだよな。1年のときのクラスは、ノリがイマイチ悪かったし」
 「ノリって……」
 梁江でもノリが悪いクラスに当たること、あるんだ。梁江は中学の3年間もずっと学級委員をやっていたけど、どのクラスも梁江の
明るさに引っ張られて最終的にはすっごくノリが良くなったのだ。
 「だけど今回のクラスはなかなかいい感じだし、だいたい、このクラスで卒業するわけだろ?そしたらやっぱり実現しないとな!」
 「……だから、なにを?」
 「クラス全員で花見!」
 あまりにも気合のこもった梁江の声が、誰もいない広々とした歩道に響く。春の訪れを喜んでいるかのような鳥の鳴き声に、遠くから
聞こえる車の音。
 いったいどんな大きいことを実現したいのかと思ったら、クラス全員で花見?あたしは自信満々な表情でいる梁江をぽかんと見たまま、
固まってしまった。
 「……花見、って、あの、サラリーマンとかが桜の木の下で宴会とかやる、あれ?」
 「なんだよその顔。おまえな、花見を馬鹿にするなよ?あれ、すっげえ楽しいぞ。場所取りとか気合入れて朝4時とかからやってさ、
んで昼はみんなで焼肉だろ?もちろん酒はナシだけど、俺、ジュースでも十分ハイになれるし……」
 梁江が一人で暴走し始めたので、あたしは思わず「ちょ、ちょっと」と突っ込みを入れてしまった。
 「なんだよ」
 「いや、特に何もないけど……梁江が暴走し始めたから、止めないとと思って」
 「止めるなよ!俺の計画、ぜんぶ話しきってないだろ」
 梁江は怒ったようにそう言ったけれど、顔は笑っている。怒るんだか笑うんだかどっちかにしてよ、と突っ込みたくなるけど、あたしは
とりあえず黙っておくことにした。
 「そんで、遊びたいやつは遊んで、寝たいやつは寝て、夜までみんなで騒ぎまくる。来年は俺ら受験生だからそんなことやってる暇ない
だろうし、今年、絶対実現させてやる!俺、そのために毎日、桜の開花予想チェックしてるし」
 「……うっそお」
 あたしは、桜の開花予想をチェックするために梁江が真剣に携帯に向かっている図を想像して、可笑しくなって吹き出してしまった。
そうそう、梁江はこんなやつだった。面白いことや楽しいことが何よりも好きで、それを少人数じゃなくて、クラスや部活みたいな集団で
やるんだよね。ムードメーカーや人気者って言葉が誰よりもぴったり合う人。それが梁江将郁だ。
 「おい由依子、笑うなよ。俺は本気だって。ゴールデンウィーク、全部空けとけよな」
 「はいはい」
 笑っているうちに、あっという間に岸浜駅が見えてきた。梁江とまともに話したのは本当に久しぶりだけど、そのブランクを感じさせない
くらいの梁江の明るさと話しっぷり。これは天性のものなんだろうな、と思う。
 心の傷が少しずつ癒えてきているのを感じながら、あたしは中学時代に戻ったような気持ちで梁江の隣を歩いた。いつの間にか、梁江と
話すことを楽しいとさえ感じている自分がいる。
 
 
 
 
 「由依子、ご飯できたから巧くん呼んできて」
 「はーい」
 今日、4月29日水曜日は、祝日だから学校はお休みだった。あたしはいい匂いの漂うリビングで、毎月買っているファッション雑誌を
ぼんやりと眺めていたところだ。
 「まったく由依子は、手伝いもしないで」
 お母さんの小言に気づかないふりをして、あたしはそっとリビングを出て巧の部屋に向かう。
 ―――なんだか、行きづらいなあ、巧の部屋。
 巧が朝帰りした日以来、ずっと機嫌悪いんだもん。いや、機嫌悪いっていうか、元気ないっていうか。たまに話しかけてみても、「ああ」
とか「うん」とか、そんな返事ばかりだし。
 
 「巧ー、ご飯できたよ」
 巧の部屋のドアをトントンとノックしながらそう言ったけれど、返事はない。あれ、今日はうちにいるはずだよね。寝てるのかな。
 「巧、ご飯だってば」
 もう一回、今度はさっきよりも少し大きい声で言ってみる。だけどやっぱり返事はない。
 ……寝てんのかな?いいや、勝手に入っちゃえ。そう思ってドアノブを掴もうとした、そのとき。
 「……ん、わかった。練習は明日の深夜2時だな?」
 ドアの向こうからかすかな声が聞こえて、電話してるんだなとわかった。なんだ。電話してたんだ。それなら、またあとで呼びにこよう
っと。そう思ってあたしは、巧の部屋の前から立ち去ろうとしたのだが。
 「終電で岸浜行くからさ……ああ、また詩織んちにお邪魔するわ。練習まで時間あるし」
 ―――詩織、さん?
 詩織という名前が巧の口から出てきて、あたしは思わず足を止める。電話の相手は詩織さんだ。あたしはそう直感して、なぜか巧の部屋の
前まで戻ってしまう。
 「ああ、メシとかは食ってくからいいよ。おまえ、料理なんてほとんどしねえだろ。その辺は気にしなくていいから」
 ドアに張り付くみたいな格好になってよく耳を澄ますと、巧の声はよく聞こえた。盗み聞きなんて良くないってば、と自分に言い聞かせる
けれど、なぜかあたしはその場から動 くことができなかった。心臓がどきどきと大きな音を立てている。
 「……なに言ってんだよ。練習あんだぞ」
 巧の声が少し低くなった。やだ、なんの話してるんだろう。話の内容が気になるのと、盗み聞きをしているという罪悪感からあたしの
鼓動はどんどん速くなっていく。
 「……馬鹿か。……んなにおまえのこと、何度も抱けるかよ」
 ―――え?
 つま先と指の先が一瞬で体温を失って、すっと冷たくなっていく。……あたし、いまなにか、聞いちゃいけないことを聞いた気がする。
 「……俺がおまえを抱くのに、どんだけ緊張したと思ってんだ。そういう気もないのに、思わせぶりなことばかり言ってんじゃねえよ」
 巧は少し早口でそう言うと、「切るぞ。明日、12時過ぎに岸浜駅に着くから」と続けて、電話を切ったらしかった。しーんとしている
中で、巧の深いため息が聞こえた。
 ―――抱く、って。
 心臓のどきどきっていう音と、自分の服のかすかな衣擦れの音が響いている薄暗い廊下で、あたしは呆然と立ち尽くしていた。抱くって、
そういうこと?……そういう、ことよね。
 巧も詩織さんも大人だから、そういうことも、あるんだ。頭をガンと思いきり殴られたような衝撃の中で、あたしはそんなことしか考える
ことができなかった。そうか、そうよね、家に泊まるくらいの関係だし、と頭の中で何度もくり返す。
 大人が付き合うと、そういうことって、付き物なんだ。ファーストキスもまだのあたしには、まだまだ遠い世界。
 ……やだ。あたし、なんでこんなにショック受けてるんだろう。巧はただの居候で、あたしとはなんの関係もない人なのに。
 ふいに頬がカッと熱くなって、あたしは自分の部屋に飛び込んだ。ドアをバタン、と閉める。混乱の中で、巧を呼びにいかないと、
と思う。でもいま巧にどんな顔をしたらいいのかわからない。
 ―――巧が、詩織さんを。
 あたしにはあまりにも遠い世界すぎて、ぜんぜんわからないよ。一度だけ見たことのある、すごく美人な詩織さん。巧が好きな、でも
彼女ではない女の人。
 さっきの巧の声、すごく切なそうだった。思いつめているような、苦しそうな。なんであんなに張り詰めたような声で、詩織さんと
話すんだろう。それだけ一生懸命なのかな、あの人に。
 ……わかんないや、あたしには。あたしが抱いているこの感情がいったいなんなのかも、巧のことも。
 
 「ちょっと由依子、早く巧くんのこと呼んできてよ!」
 階下からお母さんの怒ったような声が飛び込んできて、あたしは慌てて立ち上がった。いまの声、たぶん巧にも聞こえてたよね。
 あたしが部屋を出ると、案の定聞こえていたらしくちょうど巧が部屋から出てきたところであった。表情はやはり暗い。
 「……呼ぶの遅くなってごめん。友達からメール来てて」
 あたしは巧の顔を見るなり、とっさにそんな嘘をついた。
 「いや、俺も、いまちょうど電話切ったところだったから」
 「そう」
 なんでもないような顔をして返すと、巧はかすかにほっとしたような表情を浮かべた。電話の内容を聞かれていないか心配だったのだろう。
 
 ―――ほんとに、なんなんだろう。あたしの、この気持ち。
 黙ってあたしの後ろを歩く巧を少しだけ意識しながら、あたしはぼうっと考える。
 べつに、巧と詩織さんがそういう関係だっていいじゃない。あたしにはぜんぜん、関係ないもの……。
 「おい、由依子!」
 耳元で巧の低い声がした。一瞬なにが起こったかわからなくて、あたしは自分の右腕が力強く掴まれていることにも気づかなかった。
 「あっぶねえなあ、おまえ、ちゃんと前見てんのか?」
 「あ……」
 どうやらあたしは、階段を踏み外したらしい。ずるっ、という音がしたのはわかったんだけど、こういうときって、なにが起こったか
当人が一番理解できないんだよね。
 「こんなとこから落ちたら、下手すりゃ骨折るぞ。気をつけろよ」
 「……」
 巧が呆れたように言う。そこであたしは初めて、自分の腕が掴まれたままでいることに気づいた。
 「おい由依子、聞いてんのか……」
 「……腕、痛い」
 あたしは無意識にそう呟いていた。跡が残るんじゃないかってくらい強く掴まれた、あたしの右腕。
 「おまえなあ……せめて、お礼くらい言えよ」
 「……うん、ありがと」
 あたしは素っ気なく言い、「ったく、可愛くねえ」と呟いた巧を置いて早足で階段を下りた。巧に掴まれた右腕。痛くて、すごく熱い。
じんじんしている右腕を無意識に押さえて、あたしはこみ上げてくる感情が何なのかを必死に理解しようとした。
 ―――あたし、どうしちゃったんだろう。なんだか最近、巧に対して、普通の態度でいられない。
 やっと降りてきたの、まったく由依子は……というお母さんの小言もまったく耳に入らなかった。自分で自分がわからない。
 どうしちゃったのよ、あたし。
 自分に問いかけてみたが、もちろん、答えはわかるはずもなかった。
 
 
 
 
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