#10.彼女<the presentB> 巧視点
 
 
 「元気そうでよかった。どうしてるか気になってたの」
 詩織の口調は1年の歳月を感じさせないものだった。まるで毎日会っているような口調。何事もなかったかのように。
 「……嘘つけ。俺のことなんか、今ばったり会わなかったら永遠に忘れてただろ」
 「そんなことないって。覚えてたよ、ちゃんと。神川に置いてきちゃったイケメンの巧くんは、もう新しい彼女できちゃったのかなあって」
 「置いてきちゃった、って、おまえなあ……」
 「冗談だって。でも、覚えてたのは本当よ?だって、わたしのことをあんなに熱心に追いかけ回してくれた男の子、巧だけだったもの」
 それに、初めてまともに付き合った男の子も巧だけだったから、と詩織は付け加えた。1年前とちっとも変わってない笑い方。くすくす
という笑い声が、俺の耳元を静かに通り過ぎていく。
 「時間あるなら、いま部室に来てくれる?ギターボーカルやってくれるのよね?うちの軽音、ギターボーカル少ないから、先輩喜ぶわ。
特に女の先輩は喜ぶんじゃないかな」
 「……」
 「ね、巧。1年前より格好良くなったみたい。大人になったって感じ」
 詩織の言葉に、俺は胸が詰まりそうになった。悔しい、悔しい、悔しい。それなのに嬉しい。詩織はやっぱりずるい女だった。何も
変わってない。何も。
 「……詩織、彼氏できた?」
 「どうして」
 詩織は立ち止まって、俺を振り返った。俺のことを試しているかのような笑みを浮かべている。俺の次の言葉を待っているのだ。
何を言うのかわかっているくせに。
 「……綺麗になった、前よりずっと」
 俺が小声で言うと、詩織はふふっと笑った。巧の言うことなんてわかってたわよ、とでも言わんばかりに。
 「彼氏なんていないわ。わたし、巧のこと待ってたの」
 そう言って詩織はまた歩き出す。大学の敷地内はまだ不慣れだから、俺は慌てて詩織の後に続いた。部室まで案内してくれるつもり
なのだろう。
 気付かないうちに鼓動が速くなっていた。詩織はいつもこうだ。俺を突き放して、引き寄せて、また突き放しての繰り返し。詩織と
一緒にいるときに感じる、多くの期待と絶望。それでも俺は、詩織のことを諦めきれなかった。
 ―――嘘をつくなよ。どこに行ったかも知らせてくれなかったくせに。
 俺は詩織の背中に向かって、心の中で毒づいた。それを本人に言えないことが、歯痒くて苦しい。
 
 
 
 
 軽音楽部に正式に入部した俺は、経験者ということもあって先輩たちがすぐにバンドを組んでくれた。
 「詩織ちゃんと同じ高校だったんだって?なんなら、詩織ちゃんと組むか?」
 そう言った3年生の先輩がメンバーを集めてくれて、詩織がボーカルでバンドが結成された。詩織は歌がすこぶる上手く、詩織がボーカル
だというだけでどのバンドの演奏も素晴らしく聞こえた。詩織はすでに7つのバンドを掛け持ちして組んでいたが、「巧となら組んでもいい
ですよ」と快く引き受けてくれた。
 大学の軽音楽部でも、詩織は「マドンナ」的存在だった。新入生歓迎飲み会でそれとなく先輩に話を聞いたところ、軽音楽部だけではなく、
大学全体でも詩織は有名らしい。あんな美人はそうそういないからなあ、俺も巧くらい顔が良かったら詩織ちゃんと付き合いたかったよ、と
酔っ払った先輩は言った。半分当たっているので、俺はとりあえず苦笑いでごまかした。
 
 
 「あの子と、仲良くしてる?」
 「あの子?」
 「巧が住んでる家の女の子」
 スタジオで練習した帰り、俺と詩織は岸浜駅の近くにある詩織のマンションへ向かっていた。その日はもともと泊めてもらう約束をしていたが、
詩織と泊まりなんて久しぶりだから、少し緊張していた。
 「ああ、由依子か。まあ、仲良くも悪くもないって感じ」
 俺は咲坂家の一人娘、由依子のことを思い出す。特別可愛くもなく不細工でもない、いたって普通の女子高生。性格とかも考慮してみると、
まあ、可愛くないってわけでもないな、うん。
 さっき家を出てくるときにきつく言い過ぎたことを思い出して、俺は少し後悔した。余計なことまで言い過ぎたよな、さすがに。でも、ケンカ
売ってきたのはあいつのほうだし。だいたい、なんであいつ、あんなにイライラしてたんだ?
 「可愛らしい子だったよね。素直そうで」
 「そうか?素直じゃねえぞ、全然」
 さすが岸浜、夜中でも車がひっきりなしに通っている。街の明かり、風の匂い、曇った夜空。すべてが神川とは違う。まだこっちに越してきて
2週間余りなので、岸浜の空気にまだ慣れない。24時間無休で賑わう街にも、かすかに排気ガスの混じったような風の匂いにも、星の見えない
夜空にも。
 「ちょっと、面白くないかも。巧が女の子と住んでるなんて」
 「……あ、そ」
 「なあに、その気のない返事」
 また期待持たせるようなこと言いやがって、と思う反面、嫉妬してくれてるのかもしれないと思う自分がいる。馬鹿だなあ、これが詩織の
やり方なんだよ。わかってはいるんだけど。
 「あ、ここ。わたしのマンション。泊まってくんでしょ?もう終電ないもんね」
 大きい通りから小さな通りに入ったところで、詩織がそう言った。10階建てくらいの小奇麗なマンションだ。壁はレンガ風の作りに
なっている。
 「家賃高そうだな。詩織の家って金持ちだっけ」
 「そこそこね」
 俺の家なんて金持ちじゃないから、わざわざ咲坂家に居候させてもらってるのに、世の中は不公平だなあ。そんなことを考えながら、
詩織に続いてエントランスに入った。エレベーターに乗る。詩織は8のボタンを押した。
 「8階なんて、眺めいいんじゃねえの?いいなあ、おまえ」
 「わたしの部屋のベランダって繁華街の方しか見えないから、夜中とかに外出てみてもうんざりするだけなのよね。あれ見るたび思うわ、
神川に帰りたいって」
 詩織が冗談めかして言う。すぐに8階に着いて、俺たちはエレベーターから降りた。詩織の部屋。これから朝まで、俺と詩織、二人きり。
1年ぶり。
 ―――どうすりゃいいんだ、俺。いや、男女のアレとかっていう意味ではなくて、ただ単に緊張が絶えない。朝まで持つのかよ、これ。
 
 「ここ。なにもなくて質素な部屋だけど、入って」
 803というプレートのかかった部屋の鍵を開けて、詩織は言った。「おじゃまします」と小さな声で言って、詩織の部屋に足を踏み入れる。
 確かに家具が少なく、女子大生の部屋という雰囲気がない。詩織はシンプルを好むから、小物などもデザイン重視ではなく、機能美を
追求したという感じだ。
 「寝室は、あっち」
 大学生の一人暮らしなのに、部屋が二つあるらしかった。なんていい暮らしをしてるのだ、と少し恨めしくなる。
 「俺はソファーで寝るからいいよ。おまえはいつも通り寝室で寝るんだろ」
 「一緒に寝ないの?」
 「……馬鹿かおまえは」
 俺はわざと大袈裟にため息をついてみせて、背負っていたギターを真っ白い壁に立て掛けた。
 詩織は沈黙している。俺の心臓の音が聞こえてしまいそうなくらいの静寂。窓の外からクラクションの音が聞こえて、繁華街の喧騒が
伝わってくるような気さえした。
 沈黙に耐えかねて、俺が「なんなら一晩中、新曲の音取りでもしてるか」と言おうとしたときだった。
 「久しぶりじゃない。二人きりなんて」
 じっとりと汗ばんでいる自分の背中に、華奢な身体が抱きついているのを感じた。詩織の髪の匂いがする。シャンプー、変えてないんだ。
懐かしいその匂いに、そんな場違いなことを思う。
 「……なんだよ、突然」
 「巧の匂い、懐かしい。香水、変えてないんだ」
 詩織は俺と同じことを考えていた。頬がカッと熱くなる。心臓がドクドクと音を立てて、さらに鼓動が速くなっていく。
 「この部屋にね、初めて男の子を上げたの。巧がわたしのことを追いかけてくるかもって、少しだけ思ってたから。でも、まさか岸浜まで
来ないよねって思ってたのもほんと」
 詩織の細い腕に力が込められる。心臓が壊れそうなくらいの俺の鼓動。華奢なのに柔らかい詩織の感触。
 「そしたら巧、岸浜まで来ちゃった。ねえ、わたしのこと、忘れられなかったの?」
 ―――馬鹿かおまえは。忘れらんなかったよ、片時も。
  俺は詩織の腕を乱暴に解いて、振り返って、詩織を思いきり抱きしめた。壁時計の秒針が進む音ばかりがやたらと耳につく。俺は詩織を
きつく抱きしめたまま、貪るようにキスをした。
 「……前はこんなに乱暴じゃなかったのに」
 「うるせえな。おまえが馬鹿なことばかり言うから、乱暴にもなる」
 俺がそう言うと、詩織はふう、とため息をついた。なんなんだよという表情を作ってみせると、詩織は笑って言った。
 「顔を歪めてみても綺麗なんだもの」
 それはこっちのセリフだ、と思う。俺は苦笑いして、詩織をまた抱きしめた。長い時間、まるで1年の空白を埋めるかのように―――。
 
 
 
 
 俺と詩織は1年ぶりのセックスをして、それから朝の9時までぐっすりと眠っていた。詩織とそういうことをしたのは2度目だ。付き合って
いた頃、俺はなかなか詩織に手を出せなかった。半年経って、やっとそういう関係になれたのだ。
 起きてからすぐにシャワーを借りて、朝ごはんを食べて、すぐに部屋を出た。普通の恋人同士みたいに朝にもう一発、なんていう考えは
まったくなかった。昨晩だけでもうお腹一杯だ。
 岸浜駅までの道のりをゆっくりと歩きながら、俺は詩織のなんなんだろうと漠然と考えた。昨日、「愛してる」「好きだ」は腐るほど言った。
髪を撫でる手が、愛撫をする指が、いちいち震えていて、情けない気持ちになった。それでもその指先から、俺が詩織をどれだけ好きでいるのか
ってことが伝わればいいと思っていた。
 朝までずっと一緒にいたのに、「また付き合おう」という話題はただの一度も出なかった。いや、出せなかったのだ。詩織を抱いたあと、俺は
幸せな気分に浸っていて、この気分が壊れてしまうのではないかと怖くて仕方がなかったから。
 詩織は誰にでもそういうことをさせる女ではない。それはわかっているけど、それなら俺は詩織にとって特別な存在なのか?あいつは彼女でも
ないのに?もしかしたら、俺みたいな存在の男がまだいるかもしれないじゃないか。
 俺を待っていたのか?本当に?詩織は俺をどう思っているんだ?高校の頃だって今だって、あいつの考えていることなんてほとんど俺にはわからない。
 ―――俺はなんなんだ?どうして岸浜まで、詩織を追いかけてきたのだ?
 ぐるぐると考えているうちに、岸浜駅に到着して電車に乗り込んで、新岸浜駅で降りた。足が勝手に咲坂家に向かっていることにしばらく気が
つかなかった。
 
 どうしてだ?
 どうして今も昔も、俺は守川詩織に惹かれ続けているんだ?
 
 
 
 
 「おいおい、巧、飲みすぎだろ。吐くなよ頼むから、吐くならトイレで吐けよ、おい」
 この春から、遊佐も岸浜の大学に進学していた。俺とは違う大学だが、入学してからも何度か遊んでいる。
 日曜の夕方、俺は岸浜駅の近くのアパートで一人暮らしをしている遊佐を突然訪ねた。考えれば考えるほど深みに嵌っていって、一人で
いたらどうにかなりそうだったのだ。
 「巧、おまえ、どうしたんだよ。んな、浴びるように飲んで」
 「……ビール、もうねえの?」
 「おまえが飲み尽くしたんだよ!ったく、突然来たと思ったら……なにやってんだ、おまえは」
 「買ってくる」
 「おいおいおい!外なんか出れるかよ、それで!いいからもう止めとけって」
 遊佐が俺の肩をがっしりとつかんで、「どうしちゃったんだよ、ほんとに……」とため息をついた。
 「また詩織さん絡みか?もういいから、あの人は止めとけよ。思い出してみろ、おまえ、散々ひどいことされたろ」
 遊佐が呆れたように言う。そんなことはわかってんだよ、と、心の中で毒づいた。ものすごい酩酊感があって、自分でなにを考えている
のかすらよくわかっていないのだけど。
 「……酒、ないのかよ」
 「だから、巧が飲み尽くしたんだろ。飲みすぎだぞおまえ、今日はもう飲むな」
 ―――酒でも飲まないと、とてもじゃないけどやってらんねえんだよ。
 そう言い返そうとしたが、心配そうな顔をして俺を見ている遊佐が視界に入って、なにやってんだ俺は、と自分で自分にうんざりした。
 
 俺のこの恋は、いったいどこまで行くのだろう。予想もつかないくらい遠くへ行ってしまうかもしれないし、明日には終末が訪れるかも
しれない。
 わからないのだ。俺はずっと詩織に振り回され続けていて、もう振り回されることに慣れてしまった。この気持ちが恋なのかどうかすら
わからない。心地よい痺れがあるばかりで、俺の心臓はもう何年も前から麻痺し続けているようだ。
 ただ、と俺は思う。酔ってぼうっとしている頭の中で。
 ただ、俺はこの気持ちにまっすぐに従って、納得のいくまで走り続けなければならないのだと。息切れなら、もう何度もしてきた。だけど
俺は止まることができなかったのだ。もしかしたら今までに、止まるチャンスがあったのかもしれないのに。
 好きなのだ。ひどいことをされたって、騙されたって、どうしたって、俺はみっともないくらい、彼女のことが―――。
 
 「……止めておけよ。俺はおまえが心配だ」
 遊佐がため息とともに吐き出した言葉を、俺は眠りに落ちていく寸前に聞いた。
 止められないんだ、と言った。もっとも、きちんとした言葉になっていたかは覚えていない。頭の中にもやがかかったような感覚があって、
もうなにがなんだかわからなくなっていたから。
 
 詩織は美しくずるい女だ。いつまでも俺を縛り続ける。俺は彼女を諦めることができない。「好き」が強すぎて、抗うことができない。
 だが俺は詩織を愛していた。彼女を嫌いになれない自分が、情けなく哀れだ。
 
 
 
 
 
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