#09.彼女<the past/A 巧視点
 
 
 何かを追いつづける行為は、時に虚しく、時に楽しく、時にやるせなくなる。
 俺はあいつを追いかけ始めてから、何度こうして暗い天井を見つめただろう。何度こうしてため息をついたことだろう。
 追いかけることをやめてしまえばいいのだけど、こんなところまで来てしまったのだ。もう今更引き返せない。
 実家から程遠い岸浜にある、咲坂家の一室の暗い天井を、俺は飽きもせず見つめている。4月20日の午後11時、春はまだ遠く、
窓の外から強い風の吹く音が聞こえる。
 
 
 
 
 この地方の中心都市である岸浜から、普通列車で2時間ほど下ると、神川という小さな町がある。
 岸浜から神川に行く路線はローカル線で、快速列車なんていう便利なものは当然通っていない。普通列車で2時間という微妙な距離の
せいか特急列車もないので、岸浜と神川を行き来するには2時間かけて普通列車に乗って行くしか方法はない。
 電車は1時間に1本か2本、終電は20時。そんな調子だから、神川には電車を利用する人はほとんどいない。みんなバスか車を使う。
 もちろん俺も、今年の春まで岸浜に来たことなんてほとんどなかった。小学生の頃に何度か親に連れてきてもらったことはあったけど、
それ以降はさっぱりだ。遠いし、もし終電を逃したら大変なことになるので、行こうという気にもならなかった。
 そんな俺が、なぜ岸浜の大学に進学しようと思ったのか。ひとつ、俺はそこそこ勉強が出来たから。ひとつ、俺の行きたい学部がちょうど
あったから。ひとつ、国立大で学費が安いので、親に進学を許してもらえたから。それから―――その大学に、守川詩織が進学したから。
 最後の理由は誰も知らない。おそらく詩織は気付いているんだろうけど。そうじゃなかったら、1年ぶりに再会した俺に対して、あんな風に
笑ったりはしない。
 ―――あら、巧じゃない。久しぶり。どこの学部?へえ、経済学部。あ、巧、まだギター続けてる?わたしね、いま軽音楽部に入ってて、
新入部員を勧誘中なのよ。よかったら見学にこない?
 卒業、大学進学と同時に突然俺の前から姿を消したくせに、“久しぶり”と笑って言えるこの女の図太さは表彰モノだ、と強く思ったのを
覚えている。恐ろしいくらいの美人で、よく通る心地よいハスキーボイス。艶々した長い黒髪に、透き通るような白い肌。1年ぶりに会った
詩織は、俺が知っている詩織よりもさらに綺麗になっていた。
 見学したその日に軽音楽部に入ると伝えたときの、詩織のあの表情。余裕ありげな、勝ち誇ったような。結局わたしが好きなのね、巧は。
そう思ったに違いない。
 どんどん深みに嵌っていく。なんで好きなんだろうと思えば思うほど惹かれていく。俺は泥沼の中に嵌りに嵌って、ついにこんなところに
まで来てしまったのだ。
 
 
 
 
 自分が入学する高校にすごい美人がいるという噂は、中学の頃から知っていた。
 こんな田舎の進学校にそんな美人がいるなんていう話は、俺はまったく信じていなかった。噂なんてものは、多かれ少なかれ尾ひれが付く。
どうせちょっと可愛いだけの、垢抜けない女だろうと思っていた。
 俺はその頃から結構モテていて、中学時代も何人かの女の子と付き合っていた。友達と比べても、自分だけ格段にモテていたような
記憶がある。
 「なあ巧、おまえさ、その美人、落としてみろよ。おまえならできんじゃねえの?中学ん時も、どんな可愛い女だって巧なら落ちた
じゃねえか」
 きっかけは、いつも一緒に行動していた友達のその一言だった。雨ばかり降っていた時季だったから、確か高校1年の6月だったか。
 「いいじゃんそれ。でさ、みんなで賭けようぜ。“神川高校のマドンナ”が、巧に落ちるかどうか」
 「いくらにしとく?一人千円くらいでいい?」
 「よっしゃ、乗った」
 当の俺の意思はまったく尊重されないまま、俺はマドンナを1ヶ月で落とすことになった。成功したら俺に5千円、失敗したら俺が
5千円払う。その時俺は珍しくフリーだったので、まあ暇だしいいかと、軽い気持ちでその賭けに乗った。
 「で、どんな顔してんだ?そのマドンナは」
 俺が訊くと、友達はみんな口を閉ざした。それもそのはずで、誰も彼女の姿を見たことがないのだった。
 
 最初の1週間は、彼女を探すことに費やした。すぐ上の学年のはずなのに、なぜか見つからない。名前も知らなかったから、誰かに
訊くにも訊けない。俺は途方に暮れてしまったが、友達に5千円払うのが嫌なので、休み時間やら放課後に校内を駆けずり回った。
 探し始めてから7日目に、やっとマドンナを見つけた。彼女は立ち入り禁止の屋上で、燃えるような橙色をした夕焼けを食い入るように
見ていた。
 つくりものみたいな横顔は、なにかを憂いているようだった。精巧に作られた日本人形のような顔立ちに、すらっとした華奢な身体。
第一印象は「何かと思った」である。
 「……ここ、入ってきちゃ駄目でしょ」
 彼女の声は、よく響くハスキーボイスだった。俺が今まで相手にしてきた女の子の、あの甘ったるい声とは似ても似つかない。静かなのに
存在感のある、静と動、表と裏が同居しているような、なんとも不思議な声。
 「あ……あいてた、から……」
 怒られているわけでもないのに、俺はまごついた。彼女の圧倒的な美と佇まいに戸惑った。こんな女の人を今まで見たことがない。綺麗、
美しい、可愛い……どんな褒め言葉も似つかわしくないように思えた。彼女を前にすると、どの言葉も陳腐に思えてくるのだ。
 「わたしのこと、探してたんでしょ?よかったね、見つかって」
 “神川高校のマドンナ”は、そう言ってうっすらと微笑んだ。俺は背筋が凍るような震えを感じて、「はい……」と消え入るような声で
呟いた。恐ろしいくらいの、完璧な美しさ。
 「荻原くんでしょ?間違ったら失礼だから、念のために聞くけど」
 「あ……あの、なんで、俺の名前」
 「1年生の超イケメンが、わたしを落としたがってるって。いろんなとこから聞いたの」
 かっと頬が熱くなって、俺は彼女から目を逸らした。自分たちが始めた遊びとはいえ、この人の口から聞くと、本当にくだらなく思えた。
恥ずかしいことこの上ない。
 「確かに綺麗な顔してるね。荻原くん、モテるでしょ?わたしなんか落とすより、わたしの友達、落としてあげてよ。荻原くんになら
遊ばれてもいいって騒いでる子、いっぱいいるから」
 「……あ、あの……」
 「わたし、どう?そんなにみんなが騒ぐほど、綺麗な顔してる?」
 そう言って俺をまっすぐに見た彼女は、世界中のなによりも美しく思えた。燃えるような橙色は、彼女の長く黒い髪や白い肌をも鮮やかな
色に染めている。
 「……はい」
 長い長い沈黙のあと、俺はゆっくりと頷いた。圧倒され、彼女の虜になっていた。俺は射抜かれたのだ。そう思った。一瞬で恋に落ちること
なんて、俺には一生ないと思っていたのだ。
 
 
 
 
 落とすつもりが落とされて、俺は彼女を追いかけた。彼女は守川詩織という名前であると知った。そして、どんな男にも靡かないことも
知った。
 あの賭けに参加していた友達は「巧がマジになった」と面白がって、俺は5千円を払わずに済んだ。5千円よりも、俺が本気で誰かに恋を
したことのほうが重要なようだった。
 詩織を好きになってから、どんな可愛い女の子に告白されても片っ端から断った。おかげで女子の評判はがた落ちだったが、まあいいと
割り切った。
 あっという間に1年が経ち、俺は高校2年、詩織は3年になった。普通に会話するようになって、たまに昼休みを一緒に過ごすようにも
なったけど、付き合う気配はまったくなかった。
 
 「巧、まだ落とせねえの?詩織さん」
 「……うるせえな」
 その日、俺は友達の遊佐と一緒に職員室に向かっていた。
 「巧で落ちないって、ホント、相当だな。おまえにあんだけ全力で来られたら、俺が女なら落ちちゃう」
 「気持ち悪いこと言うな」
 そう遊佐に返しながら、何気なく職員室前の掲示板の横を通り過ぎた。だがなぜか内容が気になって、俺はなにも言わずに引き返した。
いつもは気にもしていない掲示板なのに。
 「なんだよ巧、どうかしたのか?」
 「いや……」
 俺が気になったのは、“学校祭オープニング オープニングバンド急募!”という貼り紙だった。“学校祭のオープニングを飾る、カッコイイ
バンド大募集!1年でも3年でも、男でも女でもOK!希望者は生徒会室まで!”とある。しかも期限は今日の午後5時。あと1時間しかない。
 「……遊佐、おまえ、ベースやってたよな?」
 「は?なんだよいきなり」
 「俺、バンドやることにした」
 「は?え、ちょっと、話が見えないんだけど」
 「ギター弾けるやつとドラム叩けるやつ、ちょっと思い出して」
 「……おまえ、まさか、このオープニングバンドっての……」
 「かっこいいことやんねえと、詩織は落とせない」
 「おいおい……」
 呆れ顔の遊佐を余所に、俺は生徒会室へ走った。ギターは中学の頃にちょっと齧った。コードくらいなら弾ける。リードギターは無理だと
しても、ギターボーカルならできるはずだ。
 登録用紙には、俺の名前と遊佐の名前と、遊佐から教えてもらったギターとドラムができるクラスメイトの名前を書いた。
 学校祭まであと3週間を切った、初夏のある放課後のことであった。
 
 それからというもの、俺はとにかくギターの練習に励んだ。朝に1時間、放課後に1時間、家に帰ってからだいたい2、3時間。トータル
すると1日5時間近くの練習時間だ。
 ギターとドラム担当のクラスメイトやベース担当の遊佐と違って、ギターに関して俺はほとんど素人同然だったから、たったの3週間で
人に見せられるくらいの力をつけるには、とにかく猛練習することしか道はなかったのである。
 歌を歌うことはもともと好きだったし、それなりに得意でもあったからボーカル担当ということについては問題なかった。まあ、最初は
ギターを弾きながら歌うということに慣れなくて、大変な思いをしたけれど。
 スコアの読み方やリズムの取り方など、細かいことはメンバーの3人が親切に教えてくれた。個人でもバンドとしても練習に練習を重ねて、
全5バンドの中から俺たちはオープニングバンドに選ばれた。
 オープニングバンドに選ばれたことは、詩織には黙っていた。学校祭当日に驚かせようと思ったのである。もともとは詩織を振り向かせ
たいと思いついたことだったし、詩織のためにあんなに練習したと言っても過言ではない。
 ―――ここまでやれば、さすがの詩織もグッとくるだろ。
 毎晩ギターの練習を終えたあと、俺はそんなことを考えながらニヤニヤしていた。学校祭が楽しみで仕方がなかった。しかしその半面で、
1年間頑張っても駄目なんだから、こんなことくらいで振り向くわけないだろうと思っている自分もいた。
 しかし、単なるひらめきから始まった俺のこの作戦は、なんとあっさり成功してしまうことになる。
 
 それは学校祭1日目、オープニングバンドである俺たちの演奏が終わった直後であった。
 「巧、わたし、負けちゃった」
 バンドのメンバーと「お疲れさま」を言い合っているときのことだ。俺たちは自分たちの演奏が成功したことにものすごい満足感を覚えて
いた。一瞬、自分がなんのためにバンドを始めたかを忘れてしまいそうになったくらいである。
 「……え?」
 詩織の言葉の意味がわからなくて、俺はそんな間抜けな声を出してしまった。周りで遊佐たちが「おい、マドンナ」「やっぱ巧とできてんの?」
「てか、ホントに人間?美しすぎんだけど」などと囁きあっていたのを鮮明に覚えている。
 「最初の曲……わたしのために、うたったの?」
 「……」
 詩織の言葉に、俺は思わず俯いてしまった。俺たちが演奏したのは全部で3曲。そのうち最初の1曲は、まさに詩織のことを考えて歌った曲
だったのである。好きな人がいるけど想いがなかなか届かない、でも届けたい、そんな男が主人公の曲。アップテンポなラブソング。
 「好きだよ、って歌詞、まるで本当に巧に言われてるみたいだった」
 「……」
 「負けちゃった。巧があんまりにもまっすぐだから、わたし、もうお手上げ」
 その詩織の言葉に、俺だけでなく遊佐たちもがはっと顔を上げた。しかも4人揃って、口をあんぐり開けたまま。
 「なあによ、その顔。……巧、一番間抜けな顔してるよ」
 脇が、背中が、ていうか全身が、汗で濡れている。むしろ演奏直後よりも汗をかいている。
 ―――俺がいま耳にしたことは、もしかして幻か?
 「……ねえ、巧。聞いてるの?お付き合いしましょうっていう話なんだけど」
 詩織のその言葉に、俺は宇宙までぶっ飛んだような気分になった。生きててよかったとか嬉しいとか、そういう気持ちは落ち着いてから
出てくるものなのだと初めて知った。とてもじゃないけれど、いまこの瞬間に、そんなことを考えるのは不可能だ。
 「ああもう、駄目ね。綺麗な顔、台無し」
 詩織のくすくすという笑い声が耳元を通り過ぎていく。それさえも、遠い国の出来事みたいに思える。
 
 ―――俺はおそらく、この世界で誰よりも幸せな男だ。
 
 高校2年生の夏、学校祭1日目。詩織の口から思いも寄らぬ言葉を聞いた俺は、そう信じて疑わなかった。
 
 
 
 
 
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