#08.週明けの朝
 
 
 浅い眠りばかりを繰り返して、気付けばもう午前6時を回っていた。
 昨日の晩、目覚し時計をセットしないで寝てしまったから、いま起きなかったら大変なことになっていた。きちんと6時に目が覚めて
よかった、とほっと胸を撫で下ろす。
 ベッドから降りると、ふと肌寒さを感じた。まだ4月中旬、朝や夜はまだ冷える。あたしは机の椅子に掛けてあったカーディガンを羽織り、
部屋を出た。
 隣の部屋のドアは、開け放たれたままだ。遠目から見てもわかるくらい散乱している。床に散らばっているのは、やっぱりスコアや何かの
線やらであった。
 ―――巧は、昨日の晩も帰ってこなかった。
 正確に言うと、土曜の昼過ぎに一度帰ってきて、その日はずっと部屋に篭っていたのだ。そして昨日の夕方にふらっと出かけて、帰って
こなかった。
 だから、あたしと巧がこの土日に交わしたのは、「おかえり」「うん」というやりとりと、「ご飯できたよ」「わかった」というやりとり
だけだ。
 昨日も詩織さんの家に泊まったのだろうか。おそらくそうだろう、とあたしは思っている。
 
 「あ、由依子、おはよう」
 「おはよ」
 お母さんがちゃんと起きて、朝ご飯を作っている。ちょっと珍しいことだ。
 「巧くん、昨日も帰ってこなかったわね。彼女の家にでも泊まってんのかしら」
 お母さんが苦笑いをしながら言う。金曜の晩に彼女の家に泊まったっていうことはごまかせたけど、昨日も帰ってこなかったから、
さすがにお母さんも感づいたみたいだった。
 「そうじゃないの」
 あたしはロールパンを齧りながら、なんでもないような顔でそう返した。まだ温かいオムレツに、ウィンナーに、野菜スープ。お母さんの
朝ご飯はいつも洋食だ。あたしが作る朝ご飯はいつも和食。朝はお味噌汁を飲まないと、なんだか落ち着かない。
 「帰ってこないのはいいんだけど、連絡くらい欲しいわよね。お母さんも、ちーちゃんから巧くんを預かってるんだから、責任ってものが
あるし」
 お母さんは巧が無断外泊をしたことについて、少し怒っているみたいだった。あたしは無言で頷いて、温かい野菜スープを飲む。やっぱり
朝はお味噌汁のほうがいいと思ったけど、なにも言わないでおいた。
 「巧くんになにかあったら、お母さん、ちーちゃんに合わせる顔がないもの」
 お母さんが呟くようにそう言った瞬間、ピンポーン、とチャイムが鳴った。あたしとお母さんは顔を見合わせる。午前6時25分。こんな
朝早くに、来客?
 「はーい?」
 『すいません、俺です』
 インターフォン越しに聞こえたのは、巧の声だった。あたしとお母さんはもう一度顔を見合わせてから、二人でリビングを出た。
 
 「すいません、こんな朝早くに」
 ドアを開けると、巧が立っていた。なんとなく、寝てないのかな、と思う。顔色がよくないし、目の下に少し隈ができているから。
 「こんな時間に、どうしたの?」
 お母さんが目を丸くして巧に尋ねる。文字通りの“朝帰り”だな、とあたしは思った。
 「始発で岸浜から帰ってきたんです」
 「そう。まあとりあえず入って。由依子、お父さん、起きちゃった?」
 お母さんは、チャイムの音でお父さんが目を覚ましていないか心配なようだった。お父さんは昨日、仕事で帰りが遅かったので、今日は
8時くらいまで寝ているはずだ。
 「いや、大丈夫みたい」
 「あ、すいません」
 「ううん、いいのよ」
 3人でリビングに戻る。巧はなんだかふらふらしていた。それに、すごくお酒くさい。自分の後ろを歩く巧の存在を感じながら、あたしは
なぜかどぎまぎしていた。
 「巧くん、朝ご飯は?」
 「食べてないけど、いいです。食欲ないんで」
 「そう。まあそんなにお酒くさいんだもの、ひどい二日酔いでしょ。食欲なんてないわよねえ」
 お母さんがそう言って屈託なく笑うと、巧はばつの悪そうな顔をした。あたしはオムレツを食べながら、いったいどれだけ飲んだらこんなに
お酒くさくなるんだろうと考えていた。
 「……あの、すいません。連絡しないで」
 「あ、待って。巧くん、コーヒー飲む?」
 「え?あ、はい……じゃ、いただきます」
 お母さんはコーヒーを淹れて飲むのが好きだ。時間に余裕のある朝は、いつもコーヒーを飲んでいる。
 「はい」
 「あ、ありがとうございます……」
 巧は不思議そうな顔をして、湯気の立つマグカップをお母さんから受け取った。リビングの中に、いい香りが充満する。
 お母さんと巧は、ソファーに向かい合って座っていた。あたしは食堂テーブルで朝ご飯の途中だから、まるでテレビでも見るように二人を
見ていた。
 
 「巧くん。わたしね、ちーちゃんから、責任持って巧くんを預かりますって言ったの」
 お母さんはコーヒーを一口啜ると、思いのほか厳しい口調で切り出した。
 「……はい」
 「もちろん、お金も頂いてます。アパートの家賃払ったり、学校の寮に入るよりずっと安いからって」
 「……」
 「うちは寮や下宿じゃないから規則もないし、もちろん自由にしてくれて構わないし、極端な話、巧くんが煩わしくなったなら、うちを
出てもいいのよ。ちーちゃんにはわたしから話すわ」
 そこで巧が、はっと顔を上げた。さっきよりもばつの悪そうな顔。早く準備しないと学校に間に合わないかも、と思うけど、あたしの目は
二人に釘づけで、体がそこから動いてくれない。
 「でもね、夜ご飯いらないとか、帰りが遅くなるとか、どこかに泊まるとか。そういう最低限のことはね、ちゃんと知らせてほしいのよ。
うちに住んでる限りは」
 「はい……」
 「巧くんはうちの子じゃないけど、ちーちゃんの息子さんだし、由依子とは年も近いから、ある意味、自分の子どもみたいな気もしてくる
のよね。だから心配もするし、怒りもするの。わかる?」
 「はい……」
 「だから、そういうのが面倒くさくなったら、いつでも言って。絶対うちに住まなきゃいけないことはないのよ。ただ、わたしは巧くんを
預かることを承諾したわけだし、巧くんもうちに住むことを承諾してくれたわけでしょ。だから、連絡とかはよろしくねってこと。なにより、
心配しちゃうからね」
 お母さんはそこでまたコーヒーを啜った。湯気はもう昇っていない。冷めてしまったみたいだ。巧はコーヒーにまったく手をつけていないのに。
 「あ、でも、干渉とかするつもりはないからね。まあ、そんなにふらふらになって帰ってきたら、何事かって思うけど」
 お母さんが冗談めかしてそう言うと、巧は「本当にすいません」と頭を下げた。
 「今更なんですけど……その、昨日、ちょっと連絡できる感じじゃなくて。最初、泊まるなんて思ってなかったんです。でも、ちょっと……
あの、とにかく、迷惑かけてすいませんでした」
 巧は頭もうまく働かないらしく、日本語になっていなかった。謝りたいっていうのは伝わってくるけど、外泊した理由はまったく説明
できていない。
 二日酔いっていうのはこんなにも人間を駄目にしちゃうのか。あたしも近い将来、気をつけよう。
 「うん、わかってくれたならいい。説教はおしまいにしましょ。巧くん、今日、学校は?」
 「あ、今日は全休なんで、大丈夫です」
 あたしは自分の食器を洗い終えると、洗面所に入った。お母さんと巧のやりとりがあまりにも真剣だったから、一部始終見ちゃった。
どうしよう、電車に間に合わないかも。
 急いで歯を磨いて、顔を洗って、化粧水と保湿クリームを顔に塗る。リビングの壁時計は、ちょうど7時を指していた。
 
 早く着替えないと、と階段を上ろうとしたとき、あたしの前に大きな背中が見えた。なんとなくいつもよりもしょんぼりとしている背中。
 「……巧」
 あたしが呼びかけると、「なに?」と巧がのっそりとした動作で振り返った。
 「早く、寝たら。寝てないみたいだし」
 「言われなくてもそうする。おまえこそ、早くしないと電車乗り遅れるんじゃねえの?」
 もともと低めな巧の声が、今日はいつもよりさらに低い。昨日の晩、なにかがあったのは確実みたいだ。
 「なにかあったの」
 「……おまえに関係ないだろ。迷惑かけたみたいだから、謝ってはおくけど」
 巧は投げやりな口調であたしにそう返すと、さっさと階段を上っていってしまった。胸の奥がちくりと痛んだのに気付かないふりをして、
あたしも黙って階段を上る。
 「……あ」
 あたしが自分の部屋に入ろうとした瞬間、巧がなにかに気付いたように自分の部屋の前で立ち止まった。
 「由依子、おまえ、おばさんに黙っててくれたろ。金曜の晩、詩織んちに泊まったこと」
 「え……あ、ああ……」
 ―――やっぱり泊まったんだ。詩織さんの家に。
 「サンキュな、助かった。じゃ、俺は寝るわ」
 巧が部屋に入って、ドアを閉めようとした瞬間―――。
 「待って。ひとつ、訊いてもいい?」
 あたしは無意識のうちに巧を引き止めていた。訊きたいことがあるって思った瞬間、あまりにも自然に引き止めてしまったから、自分でも
少し戸惑ってしまう。
 「なんだよ」
 「昨日の晩も、詩織さんの家に泊まったの?」
 なぜかちょっと声が震えてしまったし、あたしの指先は冷たい。緊張してるの?まさか。
 巧はちょっと意外そうな顔をしたあと、傷ついたような顔になった。笑っているような泣いているような、微妙な表情を浮かべる。
 「……だったら、なんだよ」
 自嘲するような笑みを浮かべて、巧は部屋のドアをパタンと静かに閉めた。答えとも言えないような答え。
 「答えになってないじゃん……」
 あたしはぽつりと呟いたあと、自分のした質問の意味がわからなくなって、呆然とした。
 ―――なにを訊きたかったんだ、あたしは。
 気が付くと、いつも乗っている電車にはもう間に合いそうもない時間になっていた。早くもひっそりと寝静まってしまった巧の部屋を
横目に、あたしはあいこにメールを打った。ごめん今日、次の電車で行く。寝坊しちゃった。
 
 なにを気にしてるんだかわからないことを気にしながら、制服に着替えて寝癖を直して、家を出た。
  学校に行けばまた新たに考えなければならないことがあるなんて、そのときはすっかり忘れてしまっていた。
 
 
 
 
 「……あ」
 ギリギリセーフで学校に着いた途端、玄関で梁江将郁に会ってしまった。
 「オス。由依子、今日は遅いんだな。寝坊したか?」
 梁江が笑いながらあたしに話しかけてくる。昨日の出来事が一気にフラッシュバックした。そうだ。あたし、昨日……。
 ―――俺、あんとき、本当はおまえのこと、好きだった。
 梁江の言葉を思い出して、思わず俯いてしまう。どうすればいいんだろう。無視してるわけじゃないのに、無視してるって思われるかも。
ちゃんと返事はしないと。
 「う、うん……」
 あたしが小さく頷くと、梁江が小さく「おっ」と言った。
 「ちゃんと返事できんじゃん。呼び捨てにしても怒んないし」
 「え……」
 「……昨日のこと。俺、おまえに悪いことしたって本当に反省してんだ。だから、ちょっとずつでも、中学んときみたいに話せるように
なると嬉しい」
 ざわめく玄関の中、梁江の声だけがきちんとあたしの耳に届いてくる。やっぱりまっすぐだ、と思う。梁江の声や視線は、まっすぐに
人を射抜く。
 「俺、由依子とまた仲良くしたいんだ」
 梁江は屈託なく笑ってそう言うと、「じゃあ俺、先行くな」と言って小走りで階段を上っていってしまった。
 
 ……仲良くしたいんだ、って、そんな。
 その場でしばらくぼうっとしていたあたしは、チャイムの音で我に返った。やばい、遅刻になっちゃう。
 あたしは教室まで走りながら、二人の男について少しだけ考えた。
 ……もしかしてあたしは、なにか面倒くさいことに巻き込まれようとしてるのかも。漠然とそう思ったけど、もちろん直感だ。確信はない。
 
 4月のやわらかな春風が、開け放たれた廊下の窓から吹き込んでいる。
 先週よりも少しだけ軽い気持ちを抱えて、あたしはそうっと教室のドアを開けた。
 
 
 
 
 

シュガーベイビィTop Novel Top

inserted by FC2 system