#07.奴のこと
 
 
 ―――俺、あんとき、本当はおまえのこと、好きだった。
 
 新岸浜駅からの帰り道、心地よい春風があたしの火照った頬を撫でていく。
 何度も思い出しては顔が熱くなって、息が苦しくなった。ほんとうに、梁江のまっすぐな視線に射抜かれてしまったかのように。
 もう4月も中旬を過ぎたから、だいぶ暖かくなってきたな……なんて、どうでもいいことを考えてみたりもするけれど、やっぱりあたしの
頭の中は、さっきの梁江の言葉でいっぱいだった。
 
 駅から続く大きな通りを曲がって小さな道に入っていくと、だんだん住宅地が広がってきた。あたしの家は、この住宅地の中にある。もう
すこし奥のほうだけれど。
 「……ほんとに、告白、されたみたい」
 ゆっくりと歩きながら、あたしは思わず呟いてしまっていた。口に出してしまってから、誰かいなかったかと慌てて周りを見回す。幸い誰も
いなかったので、ほっと胸を撫で下ろした。
 馬鹿だな。だってあれは、2年前の梁江の気持ちなのに。まるで気持ちだけ2年前の戻ってしまったかのように、あたしの心臓はドクドクと
大きく高鳴りつづけている。
 2年前、あんなふうに梁江に“好きだ”なんて言われてたら、きっと卒倒しちゃってただろうな。もしそうだったとしたなら、どんなに幸せ
だったか―――。
 嫌いだったのに。あんなに大嫌いで、もう一生顔も見たくないし、口も利きたくないって思ってたのに。2年間、憎んでたって言っていい
くらいなのに。
 それなのにあたし、どうしてこんなにドキドキしているのだろう。認めたくないけど、嬉しい、だなんて思っている自分がいるのだろう。
 もう、わけわかんないや―――梁江のことも、あたし自身の気持ちも。
 
 気付かないうちに、自分の家のすぐ近くまで来ていた。考えごとしながら歩いてたら、いつの間にか自分の家ですら通り過ぎちゃってそうだな、
あたし。
 近づいていくと、家の前に誰かが立っているのが見えた。髪の長い女の人だ。
 誰だろう。お母さんの友達だろうか。それにしては随分若い気がするのだけど……。しかも、遠目から見てもわかるくらいの美人だ。少なく
とも、あたしの知っている人ではない。
 「……あの」
 あたしは思い切って声をかけてみた。それまであたしに背を向けるような格好になっていたその女の人が、くるっと振り向く。
 ―――うわ、すっごい美人。
 その人が振り向いた瞬間、ふわっといい匂いが漂った。小柄ではなく、身長は160センチ以上あるように思えた。だけどすらっとしていて、
艶々とした黒髪がまっすぐ腰まで伸びている。色が抜けるように白くて、典型的な日本美人だ、という印象を受けた。
 すごい。こんな美人、あたし、今まで見たことないかも。派手な顔立ちじゃないのに、なんだか品がある美しさという感じだ。
 「あれ、もしかして、ここの家の子?」
 低めだけど、耳に残るような特徴的な声だった。なんて言ったらいいんだろう……聞いていて心地よいというか、聞く者を落ち着かせると
いうか、とにかくそんな雰囲気を持った声をしている。
 「あ、はい……あの、どちらさまで?」
 こんなに綺麗な人、咲坂家の知り合いでいたっけ―――と、記憶を掘り返してみる。だが、やっぱり見つからない。
 「うーん、どちらさまなんだろう、わたし。巧って、ただの居候だしねえ」
 「……え?」
 いま、この人、なんて言った?巧とかって、言わなかった?
 「とりあえず、巧のお友達ってことにしておこうかな。あの人は、そう言わないかもしれないけれど」
 そう言って、その人はにっこりと微笑んだ。どうしたらこんなにきれいに笑えるのだろう、毎日鏡の前で練習でもしているのだろうか。そんな
ことを考えてしまうくらいの、美しすぎる笑顔だ。
 ―――ていうか、この綺麗な人、もしかして。
 いや、もしかしなくても、きっとそうだ。おそらく、この美人は―――。
 
 「詩織、おまえ、新曲のスコア持ってんだよな?!」
 もう既に聞き慣れてしまった声が、突然飛び込んできた。玄関に目を向けると、巧がちょうど、慌てた様子で外に出てくるところだった。
 「んー、持ってるけど。一部しかないよ?コピーしなきゃ。わたしもまだ、音程覚えきってないの」
 「詩織はどうせ、いつでも完璧に歌えんだろ。あの曲難しすぎて、耳コピでも限界があるんだよ」
 巧は大きな黒いギターケースを背負っていた。ここはうちの前だというのに、あたしに構わず――たぶん、巧はあたしが帰ってきたことにすら
気付いていない――話を続けている。
 「えー、巧でも耳コピできないの?」
 「難しいんだよ、スコア見たらわかんだろ。あれ、歌もすげえ難しいんじゃないか?」
 「あー、難しいっちゃ、難しいかも」
 「だろ?あれ歌えるのは、詩織くらいしかいない」
 ……ちょっと。ちょっとちょっとちょっと。あたし、ここにいるんですけど。むしろここ、あたしの家なんですけどね。どうして当然のように
“詩織”さんがうちの前にいて、あたしに構わず話し続けてるわけ?
 「まあとにかく、合わせてみないことには……」
 「ちょっと」
 あたしはそこで、巧の言葉を遮った。自分の中で最大限の低い声を出してみたつもりだ。
 「……由依子、帰ってきたのかよ。いつ?」
 「アンタが外に飛び出してきて、わけわかんない話してるときも、ずっといたんだけど」
 巧は驚いたのか、言葉を失っている。詩織さんはきれいな顔を少しだけ歪ませて、あたしをまじまじと見ていた。
 「ちょっとうちん中入って。巧の彼女さんは、悪いけど外で待ってて下さい。すぐにこいつ、戻しますから」
 さっき詩織さんが巧を“お友達”扱いしたのを思い切り無視して、あたしは言った。なにがお友達よ、と心の中で毒づく。
 
 
 
 
 「なんだよおまえ、怒って」
 「怒ってない」
 そうは言いつつも、苛々しているのは事実だった。どうして苛々しているかはわからない。巧とあの人があたしの存在を無視して喋りつづけて
いたから―――というだけでは、もちろんないだろう。
 「詩織がなにかまずいこと言ったわけじゃないだろ?」
 「巧とお友達ですって言ってたけどね。彼女なんでしょ、どうせ」
 そのとき、巧の表情に一瞬、影ができたのをあたしは見逃さなかった。前に言ってた「彼女なんだか彼女じゃないんだかよくわかんねえ女」
とは、やはり詩織さんのことなのだろう。
 「……彼女では、ない。それは本当に」
 「巧は好きなのに」
 「……そう上手くはいかねえんだよ」
 胸にズキンと、鈍い痛みが走る。巧がつらそうな顔をしているからか、巧が詩織さんを好きだということを否定しなかったからか、この
痛みの理由は自分でもよくわからない。
 「とにかくね」
 痛みを押し殺すように、あたしは厳しい口調で切り出した。
 「巧がうちに住んでるっていうこと、あまり他の人に言わないで。あたしも一番仲いい友達にしか言ってないの。彼女連れてくるなんて、
なに考えてんのよ」
 巧の背負っている重そうなギターケースが、かすかに揺れた。「彼女じゃないって言ってるだろ」と、掠れたような声で言い返してくる。
 「べつに、アンタとあの美人の関係がどうだろうといいけどね、でも、女の人なんて連れてこないで。ここ、一応あたしの家ですからね」
 「……えっらそーに。俺がギター取りに帰ってきたのに、たまたま着いてきただけだろうが」
 「偉そうなのはどっちよ。住ましてもらってるくせに、あたしに言い返してこないでよ」
 ズキンズキンと、胸が痛くなったり痛くなくなったりしている。変なの。どうしてだろう。
 「おまえって、可愛くないを地で行くやつだな。ほんと、可愛くねえ。性格も顔も、全部、可愛くねえ」
 ズキンっていう痛みが、思い切り跳ねた。痛い。痛くて痛くて仕方ない。
 「……今日、深夜スタジオ練だから、帰ってこないからな。詩織の家に泊めてもらう」
 「あっそ。勝手にしたら?一応お母さんには伝えといてあげる」
 いっそのことあの人の家に住んだら、と言って、あたしは階段を駆け上った。なにかが吹き出してくる。感情だろうか、痛みだろうか、
汗だろうか、それとも涙だろうか―――。
 
 
 「どうせあたしなんて、可愛くないっての!」
 クッションを思い切り壁に投げつけて、叫ぶように言った。窓の外に、二人の姿が見えた。容姿端麗で、お似合いのカップル。そのうち
雑誌にでも載りそうな。
 どうしてこんなに苛々してるんだろう、あたし。なにが面白くないんだろう。さっきの梁江のことを引きずってた?詩織さんのことが
気に食わなかった?あたしを無視して話しつづけてたのが気に食わなかった?それとも、巧が詩織さんをうちに連れてきたことに、腹を
立てている?
 「……もー、わけわかんない」
 制服のまま、ベッドに寝転がった。わけのわからない苛々が、心の中を真っ黒に染めていく。昨日だってあまり寝れていないのに、この
分じゃ今日も安眠することは難しそうだ。
 巧がうちに来てからというもの、あたしの生活はどんどん濃くなっているような気がする。まるで、いままでずっと止まっていた時計が
再び動き出したかのように。
 「詩織の家に泊めてもらう、かあ……」
 あんなことさらっと言えるなんて、きっと今までも、泊めてもらったことあるんだろうな。なんだ、それならちゃんとした恋人同士じゃない。
何が「彼女じゃない」よ。何が「お友達」よ。付き合ってんならはっきりそう言えばいいのに、変なの。
 ふと机の上に目を向けると、机の上に置いてあるデジタル電波時計が、17:32を示していた。もう5時半を回っていたなんて、全然
気付かなかった。
 仰向けに寝転がって天井を見つめながら、今日の出来事を思い返す。梁江に2年前の告白をされたこと。詩織さんが超美人だったこと。
巧と詩織さんの関係。巧が今夜は帰らないこと。巧が詩織さんの家に泊まること……。
 ―――なに考えてるんだろうあたし。巧のことばっかりじゃない。今日の一番の出来事は、梁江のことだっていうのに。
 あまりにもむしゃくしゃするから、「うー」とうめき声をあげながらベッドの上を転がっていると、下から「ただいまあー」と間の抜けた
声がした。お母さんだ。
 今日は早い。この分なら、夕飯を支度しなくて済みそうだ。
 「由依子ぉ、帰ってる?」
 「うん、帰ってるよ」
 ベッドから起き上がって、大声で返事をしながら部屋のドアを開ける。階段を下りながら、「今日、巧は帰ってこないよ」と努めて
なんでもない調子で言う。
 「あら、なんで?」
 「なんかバンドの練習で、泊まりなんだって」
 彼女の家に泊まることは伏せてやった。感謝してよね、とここにはいない巧に向かって、心の中で呟く。
 「へえー。あの子、バンドなんてやってるの。かっこいいわねえ」
 お母さんは感心したようにそう言ったあと、「久しぶりにイケメンの顔、見たかったのに」と呟きながらリビングに入っていった。
 あたしはその後ろ姿を見ながら、イケメンなんて言葉いつ覚えたのよ、とため息をつく。
 
 
 
  
 目を覚ますと、家の中はすっかり寝静まってしまっていた。枕元の携帯を開いて時間を確認すると、午前2時35分。真夜中だ。
 おそらく巧は本当に帰っていないのだろう。それがどうしてこんなに寂しく心細いのか、自分でもわからない。
 寝惚けた頭でなにかを考えようとして、やめた。さっきから浅い眠りばかり繰り返しているから、眠くて仕方がない。
 わけのわからないもやもやと苛々を抱えたまま、あたしは再び浅い眠りに落ちた。
 
 
 
 
 
 
 
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