#06.縁は異なもの 味なもの
 
 
 時間どおりに行くのもなんだか悔しくて、あたしは4時を回ってから教室に戻った。帰りのホームルームが終わって20分くらい経って
いる。
 誰もいないので、不思議に思って教室中を見回したら、窓際の一番うしろの席で梁江が居眠りをしていた。あたしがなかなか来ないから、
寝て待っていようとでも思ったのだろうか。
 「……かわいい顔して寝ちゃって」
 梁江に近づいて、あたしは思わず呟いた。美形ではないけれど、愛嬌のある顔。髪はすこしくせっ毛だけど、ワックスで整えられている。
 変わってない。中学生の頃のままだ。ちっとも成長していない感じがする。
 「……ヤナ」
 中学生の頃に戻ったような錯覚を覚えて、あたしはあの頃の呼び方で梁江を呼んでみた。
 なんて不思議な感覚だろう。まるで、梁江に一生懸命恋をしていた頃の気持ちが戻ってきたみたいだ―――。
 
 「……んー、あれー?由依子、もう来たんか?」
 なんだか切ない気持ちになって梁江の寝顔をじっと見つめていたら、梁江が急にむくっと体を起こしたから、あたしは思わず「うわっ」
と言ってしまった。黒目がちの大きな目が、あたしを捉えている。あたしは気まずくなって、慌てて俯いた。
 「俺、おまえ、絶対来ねえと思ってたー。やべー、すっごい嬉しい」
 梁江は屈託のない笑顔をあたしに見せて、のんびりとした口調で言った。お昼休み、あたしを呼び止めたときの雰囲気とは180度違って
いる。
 「こうしてたらさ、中学ん時に戻ったみたいだな。俺とおまえ、よく喋ってたよな。くっだらねえ話を、誰もいない教室で、延々と―――」
 梁江の声が、だんだん小さくなっていく。どうしたんだろうって思ったけど、あたしは顔を上げようとしなかった。
 「―――延々とさ、クラスの奴らの噂話だろ?先生の悪口だろ?あとは、受験嫌だとか勉強したくねーとか、いろいろ、ほんと、いろいろ……」
 がたん、という音がして、梁江が立ち上がったんだ、というのがわかった。あたしは少しだけ顔を上げてみる。
 「……由依子、ごめん」
 思ってもみなかった光景が、目に飛び込んできた。
 梁江が立ち上がって、あたしに頭を下げていたのだ。予想もしてなかった光景を前にして、あたしは驚いて声も出ない。
 「ごめん。本当に、ごめん。もう2年も前のことだし、今更って感じだろうけど……」
 「や、梁江……」
 搾り出すようにして、からからに乾いた声が出た。急展開に頭がついていけてない。さっきまで、梁江は思い出話をしていなかった?
 「皆瀬に、聞いたんだ。由依子がどうしてあんなに俺を嫌ってるのか、俺が由依子になにをしたのか、全部。あいつに聞いて、納得したよ。
あんなことしたら、確かに俺はおまえに嫌われても仕方がない」
 あいこが話してくれたんだ―――靄のかかった頭の中で、それだけははっきりと理解できた。ってことは、梁江はいま、全部事情を知ってる
ってことだよね。
 「おまえ、トラウマになってんだってな。あんたのくだらない一言のせいで好きな男の子に告白もできないのよあの子は、って皆瀬に
怒られたよ」
 「あ……うん……」
 どう返事をしていいのかわからない。あたしは座ったまま、立っている梁江の顔をぼうっと見ていた。だけど頭の中が混乱しすぎて、
たまに輪郭がぼやけてしまう。
 「俺には、ごめんしか言えない。無神経なことして、由依子を傷つけて、本当に悪かった」
 そう言って、梁江がもう一度頭を下げた。
 「も、もういいよ……いや、よくないけど。よくないけど、顔は、上げて……」
 「いや、俺、土下座でもしたいくらいの気分なんだ。本当に申し訳なくて、どう謝ればいいかすらわかってない」
 「でも、その……頭下げられても、あたし、正直言って、困るし……」
 あたしは俯いたまま、ぽつりぽつりと呟くように言った。どうしたらいいのかわからないのはこっちのほうだ。こんな可能性、微塵も
考えていなかったのだから。
 梁江将郁があたしに謝ってくる―――なんて。
 
 「あ、あたしは、ね……確かに、すっごく傷ついたよ。その、あのときは……梁江のこと、好きだったし」
 2年前のこととはいえ、本人の前で認めるのは悔しい。あたしのそんな気持ちを読み取ったかのように、梁江が「いまは大嫌いだけどな」
と補足した。
 「うーん……大嫌い、っていうのは、ちょっと」
 「昨日言ったろ、俺に面と向かって。いや、由依子のああいう、思ったこと言っちゃうのはいいところだけどな」
 「……」
 どうしてこう、返答に窮するような発言をするのだろう。あたしが黙っていると、「いや、悪い。違うんだ。俺って調子いいから、なんだか
こう、思ったことはすぐ口に出るっていうか……」と、梁江が言い訳をしてきた。
 「……ってことは、あたしと梁江は、同じ性格ってこと?」
 「え?」
 「思ったことすぐ言っちゃうんでしょ、あたしって」
 「だから、悪かったって」
 梁江がそう言った瞬間、あたしと梁江の目がばっちり合ってしまった。不本意にも、お互い同時に吹き出してしまう。
 「そういや、いつもこんなんだったよな、俺ら。お互い嫌なことばっか言いあってんのに、なんか途中で笑っちまうの」
 梁江が可笑しそうに笑った。大きな目が半分くらいの大きさになる。笑ったらすっごく可愛いから、あたし、この笑顔も、好きだった
んだよなあ……。
 そう。あたし、数え切れないくらい、梁江の好きなところがたくさんあった。この表情が好き。喋り方も好き。汚い字も好き。声が
でっかくて、調子いいところも、全部、好き―――中学生のあたしは、毎日、そんなことを思っていたんじゃなかったっけ。
 淡い初恋の記憶が蘇って、あたしは目の前の梁江に、思わず微笑みそうになる。だけどその瞬間に、あのことを思い出す。
 
 ―――由依子?ああ、あいつはただの友達だって。付き合ってるなんて、んなことあるわけないだろ。あいつ、女じゃねえもん。
 
 いままで生きてきて、一番傷ついた言葉―――。
 「由依子?」
 目の前には、あたしの気持ちを踏みにじった、張本人が―――。
 「由依子?なした?」
 「……そんな、簡単に」
 「え?」
 「そんな簡単に、許せないよ」
 あともう一歩で、許してしまいそうになっていた。やっぱりあたしの心のどこかで、許しちゃ駄目だって思っているんだ。
 「……」
 「ほんとに、ほんとうに、傷ついたんだよ。トラウマになるくらい。好きな男の子ができても、告白するのが怖いくらい。あたし可愛く
ないんだ、だって女じゃないんだもんって、あのときからずっと思ってる」
 流されてしまいそうだった。あたしの初恋の記憶に。いまの梁江の謝罪の言葉に。梁江の無邪気な笑顔に。
 きっと梁江は、あいこに話を聞いて、心から悪いと思っているのだろう。あたしに申し訳ない、なんてことをしてしまったんだろうと。
それはさっきの梁江の態度や言葉から、なんとなくわかった気がした。
 だけど、そういう問題じゃないのだ。梁江がいくら謝ってくれたって、傷ついていたあたしの2年間は戻ってこない。
 「―――あたしの初恋だったの」
 「……」
 「初恋の相手にあんなふうに言われたら、どんなに傷つくか、わかる?」
 あたしの声が、がらんとした教室に響いていた。梁江はもう笑ってなどいなかった。
 何秒か経ったあとに、梁江は「ごめん」と洩らした。あたしがなにを言ったって、梁江は謝ることしかできないのだ。当たり前なんだけど。
 「俺は、謝るしかできないんだ。胸は痛いし、申し訳なさでいっぱいだし、正直、泣きそうだけど……でも、そんなん、由依子に伝える
わけにいかないだろ。傷ついたのは由依子で、傷つけたのは俺なんだから。だから俺は、謝るしかできないんだ」
 それから梁江は、ごめん、と呟いた。もう何回目だろう。梁江は事情を知ったのだし、謝ってもくれた。これはもう、あたしの気持ちの
問題なのだけど。
 
 
 「……梁江がこのことを知ってくれて、謝ってくれた。それだけで、十分だよ」
 いま言える精一杯の言葉だった。嘘でも、「いますぐ許せるよ」とは言えない。
 「あいこに感謝する。それで、二度目の恋は踏みにじられないように、ちゃんと相手を選ぶよ」
 これが嫌味だということに、梁江は気付いてくれたのだろうか。ずっと俯いたままでいるから、表情がわからない。
 「じゃあ、あたし、帰るね。謝ってくれて、ありがと」
 いますぐには許せない。だけど残るは、あたしの問題だ。梁江はちゃんと謝ってくれたのだから。
 心の中でぶつぶつ呟きながら、あたしは席を立つ。鞄を持って、ゆっくりと歩いた。
 トラウマなんて、すぐに消えるものじゃないから、トラウマなんだ。だけど、少しずつ、消せるように努力していこう。“もしも”は
起こらなかったけれど、長い時間をかけたら、きっとあたしは梁江を許せる。
 
 「……由依子!」
 あたしが教室を出ようとした瞬間、不必要なくらいに大きな声が教室中に響いた。ずっと黙っていた梁江の声だった。
 「……なに?」
 ゆっくりと振り向くと、梁江がまっすぐにあたしを見つめていた。あたしが一番好きだった、あのまっすぐな瞳だ。
 「言い忘れてたことが、ひとつあった」
 一言一言を噛みしめるように、梁江が言った。痛いくらいにあたしを見つめている。目を逸らしたいのに、逸らせない。
 
 「大事なこと。俺がおまえにいちばん伝えたかったことが」
 目を逸らせない。痛いくらいの視線と、まっすぐな言葉が、あたしに突き刺さって―――。
 
 「―――俺、あんとき、本当はおまえのこと、好きだった」
 
 あたしを貫こうとしている。“もしも”が起こった。
 
 
 
 
 体中の血が逆流したみたいにかっと熱くなって、あたしはなにも言わずに教室を出た。
 嘘でしょ、と思う。嘘じゃないことは、あたしが一番よくわかっているくせに。
 梁江はあんな目をして、嘘をつかない。あれは誰よりも真剣なときの梁江の表情だ。“瞳は嘘をつかない”という言葉を、あれほどまでに
体現している人はいないってくらい、梁江の瞳は嘘をつかないのだ。
 
 「……うそでしょ」
 岸浜駅までの道を、小走りで抜けた。何度も呟く“嘘でしょ”という言葉。
 嘘じゃない。嘘ならよかった。嘘なら、梁江を許す必要はなかったのに。
 
 息が苦しい。梁江の言葉が、あたしの胸を焦がしている。
 
 
 
 
 
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