#05.戸惑ってばかり
*
「ただいま……」
あいこと駅前の喫茶店でお茶して、午後6時過ぎ、あたしは帰宅した。家の中に入ると、心なしかほっとする。
あのあと、2時間目からはどうにか授業に参加した。隣の席の梁江は、当然、あたしにちょっかいをかけてくるどころか目も合わせようと
しなかった。
素直な気持ちとしては、それがすこし嬉しく、すこし寂しかった。あんなに嫌っていたはずなのに、どうして寂しいのか。それはおそらく、
朝のあいこの言葉がずっと気に掛かっているからだろう。
中学生のころ、あたしが好きだった、梁江。
中学生のころ、あたしのことが好きだったかもしれない、梁江。
―――駄目駄目。いくら考えたって、ちっとも現実味を帯びてこない。やっぱりあいこの勘違いだよ、こんなのって。
「お、やっと帰ってきたか」
リビングに入ると、巧がソファーに座って新聞を読んでいた。なんだかお父さんみたいだ。
「やっとって、まだ6時だよ」
「おまえなあ、まだ高校生だろ?ったく、一丁前に」
言うことまでお父さんみたいだ。思わず、いったいあんたはあたしの何なんだ、と突っ込みたくなってしまう。
「ビーフシチュー作ったけど、食うだろ?」
「えっ」
「今日もおばさん遅いって。おじさんは、いつも通りの時間に帰ってくるだろうし」
さっきから漂っていたこのいい匂いは、ビーフシチューの匂いだったのか。
……それにしても、なんだって巧は、いきなり料理なんかしたんだろう。結局あたしに作らせてばかりだったくせに。
「おい、なんだその顔は」
「え?」
「由依子には言ってなかったけどな、実は俺、すっげえ料理得意なんだからな。そりゃ、おまえなんかよりずっと上手いぞ。もったい
ねえからいままで食わせなかっただけだ」
「あ、そう……」
世の中の大学生って、みんなこんなに幼稚なんだろうか。いや、そんなはずはない。こいつが特別に幼稚で、根性が悪いだけだ、うん。
「そういうわけで、シーザーサラダも作ったから、食えよ」
「……うん、いいや」
あたしはゆっくりと首を横に振りながら言った。どういうわけでシーザーサラダなのかはよくわからなかったけれど、もうそこに突っ込む
気力も残っていなかった。
今日だけは、巧の憎まれ口も全然気にならない。どうしたんだろう、あたし。本当に参っているみたい。
「え?」
「ごめん、食欲ないの。ビーフシチューなら日持ちするでしょ。明日食べるから、残しておいて」
あたしは一方的にそう言って、ぽかんとする巧をリビングに残し、早足で階段を駆け上った。
あんなにいい匂いがするのだから、巧は本当に料理上手なのかもしれない。巧がへそを曲げてビーフシチューを全部食べてしまわなかったら、
明日まで残っているだろう―――。
そんなことを考えながら、自分の部屋に入って、ドアを閉めた。机の上に鞄を置いて、電気も付けずに、制服のままベッドに寝転がる。
―――梁江だって、由依子のこと……。
あいこの言葉が蘇ってきて、あたしは思い切り首を横にぶんぶんと振った。そんなことないんだってば、絶対に。そう自分に言い聞かせる。
2年も前の話なのに、どうしていまになって、こんなに気にしているんだろう。あれはあくまであいこの推測であって、絶対に違うのに。
だいたい、もしあのときの梁江が、あたしのことを好きだったとしても―――あたしが梁江に傷つけられたという事実は変わらないのだ。
そう、変わらない、のに……。
その“もしも”を、懸命に考えている自分がいるのはなぜだろう。そして、その“もしも”が起こったときを考えると、梁江への怒りの
気持ちが和らいでいってしまうのはなぜだろう。
あたしがこの2年間、気にしていたことって、そんなに軽いことだったのかな。あいつのせいで、好きな男の子に告白もできなかったのに……。
頭が混乱する。ああ、眠たくなってきたな。泣いたからかな。それとも、ベッドに寝転がっているせいだろうか―――。
ごちゃごちゃになった頭の中を整理することもせずに、あたしはそのまま眠りに落ちてしまった。
*
「……由依子、由依子!早く起きろって」
あたしは、誰かに軽く身体を揺さぶられていた。深い眠りに落ちていたのに、突然現実に引き戻されるような感覚。
「風呂、早く入れって。おまえ、俺の後に入るの嫌なんだろ?ったく、どこまで自分勝手なやつだ……」
低いけど、耳に心地よい声。なんだかぶつぶつ文句を言っている。誰だっけ……ああ、巧か。あたし、うちに巧が住んでいることに
やっと慣れてきたみたい……。
半分寝惚けたまま、あたしはむくっと体を起こした。なにも掛けずに寝てしまっていたから、少し肌寒かった。
「おまえさ、いつも風呂入る前に寝ちまうのな。前にもこんなことあっただろうが」
巧の機嫌が悪い。きっとあたしが、ビーフシチューを食べなかったからだ。せっかく作ってくれたのに。
「……巧」
「あ?」
「ごめんね、ビーフシチュー、食べれなくて」
思ったよりも乾いた声が出た。泣いたのに水分を取らなかったから、喉がからからに渇いている。
「……別に、んなことどうでもいいから、早く風呂に入れ。もう9時過ぎたぞ」
少し間があった。やっぱり気にしてたんだ。分かり易いなあ、この人。あたしは思わず笑ってしまう。
「なに笑ってんだよ。ていうか、おまえ、前と反応が全然違うな。前は思いっきり叫んでたろ」
ああ、そんなこともあったっけ。だってあのときは、巧がうちに住むっていうことに、全然現実味がなかったんだもの。1週間も経てば、
嫌でも慣れるってば。
それに―――。
「―――彼女いる人が、わざわざあたしなんか、取って食ったりしない、でしょ?」
あたしは軽い調子で口に出したつもりだった。だけど実際に言葉になってみると、なんだか妙な空気を纏って聞こえた。
……嫌だな。巧が変に思わないといいんだけど。
「……俺に彼女がいてもいなくても、俺はおまえを、取って食ったりはしない」
数十秒後、ため息とともに吐き出されたのはそんな言葉だった。やっぱり分かり易い人だ、と思う。
「否定しないっていうのは、肯定してるのと同じことなんだよ」
「……彼女なんだか彼女じゃないんだか、よくわかんねえ女ならいるけどな」
巧が辛そうな声で言った。真っ暗な部屋の中、巧はあたしのベッドに腰掛けている。頭をくしゃくしゃと掻いているのがわかった。
「綺麗なひと?」
どうしてそんなことを訊いたのか、自分でもわからなかった。巧の彼女の話なんて聞いて、いったいどうするつもりなのか。
「……ああ、綺麗だよ。掴みどころのない女だけど」
巧のその言葉は、なぜかあたしの胸にずしん、と響いた。どうしてだろう。巧がこんなにも簡単に、誰かを綺麗だと認めるなんて思って
いなかったから?それとも、巧の口振りが、あまりにもその人への愛情に満ちていたから?
どちらだとしても、あたしがショックを受ける必要なんてないだろうに。
「綺麗だったから、好きになったの?」
なに訊いてるんだろ、あたしは。今日のこと、やっぱり引きずってる。男の人はみんな、かわいかったり綺麗だったりする人を好きに
なるのか、なんて。
「最初はな。でも、すごい変わったやつでさ……なんていうか、目が離せなくなってたんだよな、いつの間にか」
巧がこんなことを素直に話してくれるなんて思っていなかったから、あたしは少し戸惑ってしまう。「別にどうだっていいだろ」って
言われると思ってたのに。
「不思議なもんだよな。俺は未だに、あいつのどこがいいんだか、自分でもわかんねえや」
巧はふっと笑い、「さっさと風呂入れよ」と言って立ち上がった。暗闇の中に浮かび上がる、端整なシルエット。後ろ姿だけでも、格好
いい人だってことがわかるくらいに。
―――なんで、寂しい気がするんだろう。
取り残されたあたしは、とりあえずベッドを降りて、チカチカとランプが光っている携帯を手にした。メールが1件入っている。あいこ
からだ。
―――梁江だって、由依子のこと好きだったんだよ。
思い出すのは十何回目のあいこの言葉を、また思い出した。胸の奥の、いままで放っておいたままの部分が、ずきんと痛む。
だからどうしたっていうのだろう。あたしは無理やり、その痛みを押し戻そうとする。
*
「由依子、ちょっといいか?」
次の日のお昼休みに、あたしは突然呼び止められた。職員室に、課題のプリントを持っていく途中だった。
振り向くと、もう話すこともないはずの梁江将郁が立っていた。あたしはびっくりして、思わず持っていたプリントを落としそうになる。
「そんなにびっくりするなよ。驚かせるつもりはなかったんだけど」
梁江は罰の悪そうな顔をして、ぽりぽりと頭を掻いた。変わっていない仕草だ、と瞬時に思う。なにか良くないことがあったときに、頭を
右の人差し指でぽりぽりと掻く癖。
「……あたし、もう、話すことないよ」
ぽつりぽつりと言葉を洩らす。あんなふうになってしまった昨日の今日で、いったいなにを話せばいいのか。
「ごめん、悪いんだけど、俺にはあるんだ。それも、由依子に絶対聞いてほしい話が」
梁江の瞳が、まっすぐにあたしを捉える。鼓動がほんの少し速くなって、あたしは目を逸らした。
「おまえが俺を嫌ってるのは、もう十分にわかった。だけど聞いてほしいんだ」
「……」
「放課後、教室にいるから。絶対来いよ」
そう言って梁江は、あたしの横を通り過ぎていった。自分の心臓がバクバクとうるさい音を立てている。
何の話かは、わかりそうでわからない気がした。わかっているのは、昨日の話の続きだろうってことくらいだけど。
―――絶対来いよ。
梁江の、あのまっすぐな瞳が好きだった。2年前のあたしは、あんなふうに見られただけで、どうにかなりそうなくらい緊張してたな。
2年も前のことなのに、昨日のことのように思い出す。だってあれが、あたしの初恋だったんだもの。
嫌いなはずの梁江。きっと、いままでのあたしなら、「絶対来いよ」って言われたって、行こうとも思わなかっただろう。
―――だけど。
いまのあたしは、なぜか行こうって気になってる。どうしてだろう?心のどこかで、“もしも”を期待しているから?
お昼休みの喧騒の中、あたしはプリントを持ったまま、廊下のまんなかで立ち尽くしていた。