#04.オールド・スカー
 
 
 4月15日の朝。いつも通り朝6時に起きて、眠い目をこすりながら階段を下りて、リビングに入る。
 お母さんは昨日帰ってきたのが遅かったから、おそらくまだ起きてこないだろう。しょうがない、あたしが朝ご飯作っておいてあげよう
か……。
 そんなことを考えながらキッチンに入ろうとしたとき、食堂テーブルの上に置かれたメモ用紙にふと目が止まった。
 『由依子へ 朝7時に起こして 巧』
 ……あいつ、あたしのこと、家政婦かなんかと勘違いしてないか?
 おかげで、半分眠ったままの脳みそが一瞬で覚醒した。巧のやつ、お母さんがいるところではしおらしくしてるくせに、あたしには本当に
態度でかいんだから!
 ていうか、目覚ましくらい自分でかけなさいよ!あたし、7時半には家出るんだから、そんなに暇ないのに!
 心の中で毒づきながら、とりあえずお湯を沸かし始める。顔は物凄くいいくせに、性格は物凄く悪い――あくまで推測だけど、だんだん確信
に近づいてきている――男の顔を思い出しながら。
 ……悔しいから、あいつのご飯だけ作らないでおこうかな。
 そんなことを思いながらも、結局はできない自分に呆れながら、あたしは黙って4人分のお味噌汁を作ることにする。
 
 
 「巧、起きて」
 あたしは7時になった途端、巧の部屋のドアを乱暴に開けて、布団に埋もれている巧の体をこれまた乱暴に揺すり始める。
 よくわからない楽譜――スコアっていうんだっけ、これ――とか、よくわからない線とかでごちゃごちゃしている巧の部屋。まだうちに
来てから1週間なのに、随分と汚いものである。
 とりあえず床に落ちているものを踏まないように気をつけながら、あたしは「巧、はやく起きてってば!」とだんだん声を大きくして
いく。
 「んー……」
 寝顔がびっくりするくらい綺麗で、ときどき漏れる眠そうな声がなんとも色っぽい。あたしは少しだけドキドキする気持ちを抑えながら、
「はやく起きて!はーやーくー!」と巧の体をばしばし叩いた。
 「うっせえなあ……いま何時だよ……詩織」
 「うっせえって、あんたが起こしに来いって言ったんでしょうが!7時よ7時!……って、え?」
 ―――なんだろう。いま、何か一瞬違和感を感じたような。
 「いつからおまえは、んな言葉遣いするようになったんだ?なあ、詩織……」
 巧は寝ているのか起きているのか、目をこすりながら呟くように続ける。
 さっき自分が感じた違和感が間違いではなかったことを悟って、あたしは思わずその場で固まってしまう。
 ―――あたしの名前じゃない。巧、いま、『しおり』って言わなかった……?
 「……とにかく、はやく、起きて!」
 あたしは巧の体を一発だけバシッと叩いてやった。巧、寝起き悪かったんだ。いつも朝は会わないから、知らなかった。
 「って……詩織、てめ、叩くなって……」
 巧が目を開ける。ようやく起きたみたいだ。痛そうに顔をしかめている。
 「……あれ、おまえ……由依子?」
 なんでいるのか、という顔だ。あたしのこと、『しおり』って人と間違えてたんだ、完全に。
 「せっかく起こしてあげたのに、そんな顔しないでよ。あたし、もう学校行くからね」
 まったく、どこまではた迷惑なやつなのだ。人が朝の貴重な時間を裂いて、せっかく起こしてやったというのに。
 「ごめん、俺、すげえ勘違いしてて……」
 巧があたしに謝っている。すごく貴重な光景じゃない?これって。
 そんなことを考えながら、あたしは黙って巧の部屋を出た。そして、自分の部屋に鞄を取りに行く。
 
 ―――『しおり』って人、たぶん、巧の彼女だよね。そうじゃなきゃ、あんなに自然に名前を呼んだりしないもの。
 巧のまた違う一面を見たような気がして、ちょっとだけドキッとした。そっと自分の部屋を出る。そしたら、巧があたしの部屋の前に
立っていて、思わず「わっ」と驚いてしまった。
 「由依子、その……べつに、なんでもないから」
 「な、なにがよ。どうでもいいけど、もっと寝起きよくなったほうがいいんじゃないの?」
 あたしはいつものように憎まれ口を叩きながら、さっさと歩いて階段を下りようとした。
 「……詩織って女、べつになんでもないから。忘れて」
 その口調に、あたしはなにかを感じてしまった。どう表現していいかはわからない“なにか”―――巧のその言い方は、『しおり』って
人をよく知っています、ていうか、ぶっちゃけただならぬ関係なんですよ、と言っているようにしかあたしには聞こえない。
 ―――そもそも、なんでもなかったら、こんなふうに言い訳したりしないって。
 あたしはそう思いながらも、「ああはいはい、あたし遅刻するから、行くね」と返事をしておく。
 べつに、関係ないもの。巧はただの居候なんだし、こいつに彼女がいたっていなくたって、あたしには、関係ないもの。
 
 
 
 
 席替えは当分の間しません、というのが、担任の意向らしかった。
 少なくとも5月のゴールデンウィークが過ぎるまでは、このままの席で授業を受けなければならない。隣に梁江がいるこの席で。最悪で
ある。
 「お、由依子、オス」
 「……」
 いつものように梁江の挨拶を無視して、席に着く。梁江はなぜか、毎日あたしに挨拶をする。しかも笑顔で。
 ―――笑った顔、中学のときと全然変わってないや……。
 梁江に恋をしていたときの感情が一瞬だけ蘇ったように、ドキッとする。だけどすぐ後に、あのときのことを思い出して、胸が苦しくなる。
 「由依子、ちょっと話さない間に、耳聞こえなくなったんか?なに、それとも、話せなくなったとか?」
 「……アンタと、口利きたくないだけよ」
 「ふーん。嫌われたもんだなあ、俺も。俺たち、仲良かっただろ」
 「……」
 「あ、そういえば、前にもこんなことあったよなあ。いつだっけ、確か、中学3年のときだったような……」
 梁江がなにかを思い出すような遠い目をして呟いた。「いつだっけ、夏過ぎだったような……いつの間にか、話さなくなってたんだよ
なあ」と続ける。
 
 ―――由依子?ああ、あいつはただの友達だって。
 また、記憶が蘇る。夏の終わりの、放課後の教室。あたしは担任に提出する日誌を教室に置き忘れて、教室まで戻ったところだった。
 ―――えー、だってお前ら、めっちゃ仲いいじゃん。咲坂は、絶対ヤナのこと好きだぜ?
 クラスの男子の声だった。それは事実だったから、あたしの頬はかっと熱くなったけど、梁江――あの頃は、ヤナって呼んでたっけ――の
本音が聞きたくて、あたしは教室のドアの前で、じっと耳を澄ませていた。
 ―――バカ言え。付き合ってるなんて、んなことあるわけないだろ。
 ―――照れんなって。どうせなんだから、付き合っちまえよ。
 ―――冗談だろ?あいつ、女じゃねえもん。俺、もっと女らしいやつと付き合いてえよ。
 梁江のその言葉を聞いた瞬間、指先が、すっと冷えていくのがわかった。足場がガラガラと音を立てて崩れていく感じがした。
 あたしはそれ以上梁江たちの話を聞いていられなくて、思わずその場から駆け出した。日誌のことなんて、頭の中から吹き飛んでいた。
 純粋に、ひどい、と思った。あんなに仲良くしていたのに。少しは望みあるって、思ってたのに……。
 それ以来あたしは、恋をするのが怖くなってしまった。高校に入ってからだって、いいなって思う男の子はいた。だけど告白なんて
できずに、友達のままで終わってしまっている。
 
 「……依子、由依子?」
 「えっ」
 我に返って、声のした方を向く。そこには中学時代から全然変わってない梁江がいた。いま思い出していたときの梁江と、ほんと、全然
変わってない……。
 「どしたんだよ、おまえ。いま、すんげえ険しい顔してたぞ」
 そう言って梁江はケラケラと笑った。……あのときも、こうしてあたしのことを笑ってたんだろうか。怖くて聞けなかった、あの話の続き。
もしかしたら、あれよりもひどいこと、言われてたのかもしれない。
 「由依子、おい……」
 「やだっ」
 あたしの手首をつかもうとした梁江の手を、思い切り振り払う。やだ。やだやだ。怖い。また、あんなふうに言われたら。また、あんな
ふうに、気持ちを踏みにじれられたら―――。
 「やめて、あたしに話しかけないで。嫌なの。嫌いなの。アンタのこと、大っ嫌いなの!」
 思わず大声を出してしまったから、周りにいた人たちが何事かという表情であたしと梁江のことを見ている。
 「ちょっと待てよ、なんだよそれ。俺がなにしたって……」
 「はいはい、ちょっとストップね。梁江、あんまり由依子のこと苛めないで」
 梁江が声を荒げかけたとき、あいこがあたしと梁江の間に入ってくれた。泣きそうになっているあたしを見て、あいこが優しく微笑んで
くれる。
 「ねえ梁江。あんたが由依子に何をしたか、覚えてないならべつにいいのよ。でも、確かに由依子は、梁江のせいで傷ついたの。だから、
必要以上に関わらないであげて。お願い」
 「……」
 梁江は絶句していた。何を言っているかわからない、という顔だ。本当にわからないのだ、この人は。
 「由依子。ちょっと、廊下行こっか。先生来たら、由依子が具合悪いから、あたしが保健室連れてったって言ってくれる?」
 あいこは近くにいた女子にそう声をかけて、あたしの腕をつかんだ。あたしはゆっくりと立ち上がって、あいこの後についていく。
 ―――やさしいな、あいこは。
 そう思ったら、あたしは思わず泣けてきてしまった。
 
 
 
 
 「あれだけ言えば、あいつももう由依子に絡まないでしょ。ったく、何なんだろうね、あいつは」
 あいこはあたしの想像以上に梁江に腹を立てていた。もう1時間目が始まったけど、あたしとあいこは人気のない廊下のベンチに座って
話をしていた。
 「ありがとね、ほんと。やっぱり、梁江本人を目の前にしたらさ、なかなか言えないもんだよね」
 あたしはすっかり泣き止んで、いつもの調子を取り戻した。あいこがあんなふうに言ってくれたから、ちょっとだけすっきりしたのだ。
 「毎朝だもんね。梁江のやつ、いまになって由依子に惚れたんじゃないの?」
 「やだ、やめてよ。それ、冗談でも嫌」
 「ごめんごめん。ちょっと思っただけだから、気にしないで」
 あいこが笑ってあたしの頭をポンポンと優しく叩いた。そして、形のいい唇の端を上げて、きれいに笑う。
 「あたしもあいこくらい可愛かったら、よかったのになあ」
 「なに言ってんの。由依子のほうが、ずっと可愛い。由依子は、性格がほんとに可愛いもん。もちろん、顔も可愛いけどね」
 「……そんなことないよ。もしあたしが可愛かったら、あのとき、梁江に傷つけられずに済んだもん」
 「あのときは、さ。梁江、子供だったんだと思うよ。だいたいあれ、本心だったのかなあ?って思う。友達の前だったから、調子に乗って
言い過ぎただけじゃないのかって」
 「……」
 「あたしね、いまだから言えるけど、中学のときの由依子と梁江、両想いだったと思う。梁江だって由依子のこと好きだったんだよ、
きっと。あたしは二人のこと見てて、そう思ってた」
 あいこは一つ一つ言葉を選ぶようにゆっくりと言った。あいこがこんなことを思っていたなんて知らなかったから、なんて言っていいか
わからない。
 「まあ、本当に今更なんだけどね。だからって由依子が、梁江を許せるはずないだろうし」
 そろそろ戻ろっか、とあいこが立ち上がる。「うん」と言ってあたしも立ち上がった。どこかの教室から、先生の声が聞こえてくる。
 
 あいこの言葉を鵜呑みにするわけじゃないけれど、それでもあたしの心の中はさっきとどこか違ってきていた。
 ―――梁江だって由依子のこと好きだったんだよ、きっと。あたしは二人のこと見てて、そう思ってた。
 そんなこと、一度だって考えたことなかった。
 もし、本当にそうだったなら。あのとき、あたしがあの話を聞かなければ。状況は、いまと全然違っていたのに。
 
  すこしの歓喜と、すこしの後悔を抱えて、あたしとあいこはとりあえず教室に戻ることにした。
 傷跡がほんのすこしだけ癒えた気がしたのは、梁江にはっきり言ったからなのか、それとも、さっきのあいこの言葉のおかげなのか。
 あたしはちょっと考えてみたけれど、さっぱりわからなかった。
 
 
 
 
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