第一篇.初恋
 
 
 終わる、終わらない、終わる、終わらない……終わる。
 「著者・編集協力者一覧」が書かれた最後のページをため息をついて眺め、俺は教科書を
閉じた。その後ですぐ、俺なにやってんだ、と笑いがこみ上げてくる。
 深夜の2時に、200ページ以上ある現代文の教科書を1ページずつめくっていた。心の
中で、終わる終わらない、を幾度となく呟きながら。
 自分は余程の暇人なのだ、と思う。こんなことをしたってなんの慰めにもならないこと
は、俺が一番分かっているはずなのに。
 2時間前に18歳になった。蒸し暑いこの時期に生まれた割には、俺は夏が苦手だ。こう
して窓を開け放っていても、ゆるやかな風がたまに部屋に入ってくるだけ。じとっとした汗
が引かないので、Tシャツが少し湿っている。
 
 真央、誕生日おめでとう―――彼女のメールは質素で、しかしだからこそ、温かみがあっ
た。0時ちょうどに届いたそのメールから、真面目できっちりとした彼女の性格が窺える、
ような気がする。
 18歳になった。7月の終わり、蒸し暑い季節の、月の出ない晩に。
 大人になったのだから、大抵のものは手に入るはずであった。エロ本だって堂々と買える
し、車の免許だって取れるし、それになにより―――俺はもう、結婚ができる。大事な人を一
生守っていけるような、そういう歳になったのだ。
 俺はもう子どもではないから知っている。大人になると、できることも増えるけれどでき
ないことも増えるということを。我儘を言って他人を困らせてはいけないことも、どうして
も欲しいものだって、時には諦めなければいけないことも、知っている。
 彼女は行ってしまう。遠くに。うんと遠くに、俺が追いつけないところに。
 市ヶ谷ちゃんケッコンするんだって、と教えてくれたクラスメイトの顔が浮かぶ。そうかよかったなあ、でも市ヶ谷ってまだ若いよな。
俺はおそらく何の違和感もない笑顔で、そう返せていただろう。
 彼女は結婚する。もう夏も去りつつある、秋の初めに。
 いなくなってしまうんだなあ、とぼんやりと思った。あと2ヶ月もしないうちに、俺と絵麻は、ただの生徒と先生という関係に戻って
しまう。
 
 
 
 
 「あーあ、俺の楽しみがなくなっちまうよ。市ヶ谷ちゃん可愛かったのになあ。俺、市ヶ谷ちゃんに会いたいがために保健室通ってた
のに」
 松山は心底残念そうにそんなことを言った。絵麻が結婚するということを無邪気な笑顔で教えてくれたクラスメイトだ。
 「俺以外にだって、市ヶ谷ちゃん目当てで保健室に通ってたヤツ、たくさんいるんだよなあ。だって新卒だぜ?一昨年までおばさんだ
ったじゃん、保健室の先生」
 「まあ、そりゃそうだけど」
 俺は適当に相槌を打ちながら、今日提出の数学の課題をこなしていた。松山が「お前って、市ヶ谷ちゃんに興味ないよな。市ヶ谷ちゃ
んがうちの高校に来たときも、全然騒がなかったし」とつまらなさそうに呟く。
 逆だよ逆、本気だから、そんなふうに軽々しく言えないんだ―――俺はそんな言葉を飲み込んで、「ああ、あんまり俺のタイプじゃない
んだよな」」と笑いながら言う。
 ポケットの携帯が震えたので、松山には見えないように携帯を開いた。絵麻からだ。
 『今日残れる?5時くらいに保健室に来てほしいんだけど』
 俺と絵麻のメールの内容は、至ってシンプルだ。愛しているとか好きだとか、そんなやり取りをしたことは一度もない。だいたい、メ
ールでそういうやりとりをするのは、なんだか安っぽい感じがして好きではない。
 しかし、保健室に呼ばれるのは初めてであった。もし俺と絵麻が二人っきりで保健室にいるところを見られたら、俺ではなく絵麻が困
る。松山のような奴が多くいることからも分かるように、絵麻は若くて可愛くて、男子生徒の憧れの存在である。だから、妙な誤解を
されて変な噂を立てられる可能性が大いにあるのだ。
 「おーい、相原?なにぼーっとしてんだよ、彼女からメールか?」
 松山の言葉に、一瞬ドキッとした。しかしすぐに「んなわけねえだろ、メルマガだよ、メルマガ」と言い返す。
 彼女、か……。彼女ではないんだよな。彼女ではない、恋人ではない、恋人になることはできない―――そんな関係。
 明日から夏休みだ。夏休みが明けて学校に来たとき、もう絵麻はいない。遠い遠い、俺の知らないどこかで暮らしている……なんて、
ちょっとオーバーか。結婚するだけって言われたら、それまでなんだけど。
 それでもやっぱり、絵麻は遠いところに行ってしまう。俺の知らないどこかで、俺の知らない誰かと、新しい生活を始める。
 
 
 
 
 彼女に言われたとおり、俺は5時過ぎに保健室のドアをノックした。俺はほとんど風邪も引かない健康体で、保健室にはほとんど縁が
ないので、なんだか変な感じがする。
 「はい、どうぞ」
 柔らかな声がした。彼女の、すべてを包み込んでくれるようなこの声が、俺はとても好きだ。
 「……ちょっと座ってて。ドアに“不在”の札、掛けておくから」
 俺の顔を見たとたんそう言って、彼女は一旦廊下に出て行ってしまった。俺は言われたとおりに、ソファに腰を下ろす。
 「久しぶり」
 ドアに鍵を掛けて、彼女は柔らかな微笑みを浮かべながら俺のほうに歩いてきた。いつも通りのゆったりとした足取りである。痩せて
 いないけど太ってもいない、均整の取れた体型。160センチの身長。きめ細やかな色白の肌。派手ではないけれど整った顔立ち。小
さな手。俺は彼女のすべてを頭の中に刻み込みたくて、彼女を睨み付けるように見つめた。
 「真央、痩せた?受験勉強疲れ……じゃ、ないよね」
 「……だな」
 俺は曖昧な返事をした。絵麻は俺から少し離れて腰を下ろす。俯いているのでどんな表情をしているかはよく分からないが、ぎゅっと
握り締めている両手がかすかに震えていたので、きっと笑ってはいないだろう、と思う。
 「……18歳、おめでとう」
 「ああ」
 「直接言うの、遅くなってごめんね」
 「いや、メールくれたし、十分」
 なんでもない振りをしようとすると、どうしても素っ気無くなってしまう。俺はわざと絵麻から視線を逸らして、窓の外を見た。晴れ
ている。腹が立つくらいに晴れていて、腹が立つくらいに暑い。きっと今日の晩も寝苦しいのだろう。今年の夏は猛暑になりそうです、
と今朝のニュースで言っていたことを思い出した。
 「……暑いな」
 俺が何気なくそう口にすると、絵麻はぱっと顔を上げて救われたような顔をした。そして、うんそうね、とさっきよりも明るい口調で
言う。
 「9月は暑くないといいな。今年は、残暑が厳しくないといい」
 俺の言葉に絵麻は一瞬きょとんとしたが、すぐに意味を察したらしかった。なにも言わずに俯いてしまう。手の震えが激しくなってい
る。小さな身体も、小刻みに震えていた。
 「暑いときついだろ、ああいうのって。俺、よくわかんないけど」
 俺がさらに続けると、絵麻は小さく「ごめんなさい」と呟いた。こういう場面になったときに絵麻が謝るだろう、ということは想像し
ていた。しかし、自分の好きな女の人に謝られるというのは、思ったよりもつらい。
 「……ごめんなさい、わたし……」
 「絵麻に付き合ってる人がいるのは知ってたんだしさ、いずれはこうなるって思ってたから」
 それに、俺が無理やり迫ったんだし―――と付け加える。本当でもないし嘘でもない。しかし、俺と絵麻に身体の関係はまったくなかっ
た。それは誓ってもいい。
 純粋だったのだ、俺も絵麻も。純粋だから残酷で、してはいけないことを平気でできた。罪悪感はある意味での快感だと思っていた。
秘密だとか秘め事だとか、そういう言葉に酔っていた。
 俺は今までの自分たちについて、冷静に分析する。大人だから。俺は大人になったのだから。
 「―――終わるだろ、俺たち」
 その言葉は、ぽろっと零したように見せかけた。上手くそう聞こえただろうか?俺の隠した切り札だ。“別れる”ではなくて、“終わ
る”―――。
 
 「……わたし、馬鹿だった」
 永遠にも思える数秒間のあと、絵麻が零したのはそんな言葉であった。俺は目を閉じて、黙って話の続きを待つ。
 「馬鹿だった、馬鹿だった……後悔してる。わたしが悪かったの。あの人のことも、真央のことも裏切ってた。あの人から結婚しよう
って言われたとき、真央のこと、いちばんに思い出した。馬鹿だった。あなたと、こんな関係にならなければよかった」
 俺は奥歯をぐっと噛み締める。つらかった。とてつもなくつらかった。いつかこういう日が来るとは思っていたのだ。それでもいい、
と言ったのは俺なのだから。
 一目惚れだった。まともに女と付き合ったこともないくせに、絵麻への気持ちは本気だと確信していた。実際本気で好きだった。高校
生がなにを生意気な、と思われるかもしれないけれど、とにかく本気だったのだ。
 「真央が、わたしのことを好きにならなければよかった。わたしがこの学校に赴任しなければよかった。真央に好きだと言われたとき、
無視していればよかった。わたしが、わたしが」
 真央に惹かれなければよかった。消え入りそうな声で、彼女は言った。
 「真央のこと、好きだった。凄く素敵な子だと思った。駄目だって思ったら、欲しくてたまらなくなった。だけどあの人のことを手放
すことも、できなかった……」
 絵麻は真面目できっちりとしていて、頭の良い女性だ。狭き門と言われる教員採用試験に受かったのも彼女の努力が実ってのことだし、
傍にいるだけで彼女の聡明さは垣間見ることができた。
 だから好きになったのだ。可愛いだけじゃ、こんなに惹かれたりはしなかった。
 「馬鹿だったの。わたしはあなたより長く生きているから、分かっているはずなのに。物事に終わりがあることも、わたしと真央の関
係に未来がないことも……全部分かっているのに。分かっていたのに、分かっていたのに、自分で終わらせることができなかった―――」
 彼女の左手の薬指に、華奢な指輪が嵌っていた。彼女は結婚する。幸せになるために、遠くに行く。
 俺は彼女のことを、まるで遠い国で起こった出来事を見るような気持ちで眺めていた。そして、子どものように思う。なぜ彼女は泣い
ているのだ、と。幸せになるのに、なぜ彼女は泣いているのだ、と。
 
 「……絵麻、化粧、崩れる」
 俺はティッシュを一枚取って、彼女の頬に流れる涙を拭ってやろうとした。そのときに、自分の手が震えていることに気づく。
 「あなたの……あなたの気持ちは、本当に純粋だったのに……。わたしは駄目だって言えなかった。大人なのに。子どもの間違いを、
大人は正してあげるべきなのに」
 「俺は子どもじゃないよ」
 思ったより強い口調で言ってしまったので、絵麻が驚いたように俺の顔を見る。薄く引いたアイラインが崩れて、目の下がうっすら黒
くなってしまっている。
 「俺は子どもじゃない。それに、純粋なのは俺だけじゃないよ。絵麻もだ」
 「……わたしは」
 「純粋だから、こんなことを続けられたんだ。俺は大人になったんだよ、絵麻。これは、俺と絵麻が純粋だったからできたことなんだ
って、今なら分かる」
 若くて可愛い、みんなの“市ヶ谷ちゃん”は、俺たちが思っているよりもずっと大人だけど、今時の女性には珍しいくらい純粋なんだ。
俺は松山にそう教えてあげたくなった。
 どうして大人は、罪を一人で背負いたがるのだろう。恋愛なんて一人ではできないのに。恋愛は二人でするものなのに。二人で始めた
ものは、二人で終わらせなければならないのに。
 「終わらせたくないとは言わないし、行かないでとも言わない。絵麻を困らせたいとは思わない。幸せになってほしい。絵麻を幸せに
してあげるのが俺じゃないことは残念だけど、仕方ない」
 俺は一気に言ってしまってから、ふうとため息をついた。いつも賑やかな保健室は、いまは怖いくらいに静まり返っている。
 「俺が好きだったんだよな、絵麻は。それで、俺も絵麻が好きだった」
 絵麻は小さく、しかし確かに頷いた。こくん、こくんと、二回。確かめるように、噛み締めるように。
「それでいいよ。もう十分だ」
 大人になったのだ。自分にそう言い聞かせる。大人なのだから、泣いてはいけない。
 「……真央、好きだった」
 「うん、分かってる」
 「わたしが高校生だったら、きっと、真央との未来を夢見てたと思う」
 「うん」
 「なにも知らないままで大人になりたかった。……真央、わたし、純粋なんかじゃないよ」
 それだけは否定するから、と言って絵麻は笑った。
 「純粋だよ。俺が言うんだから、本当」
 「真央……ごめんね。わたしみたいなおばさんを好きになってくれて、ありがとう」
 「おばさんじゃないよ。絵麻はまだ若いだろ」
 俺はそう言うと、ソファから立ち上がる。さようらならだ、お別れだ、お終いだ―――喉の奥になにかつかえて、気を抜くと吐いてし
まいそうだった。だけど最後くらい恰好良くいたい。大人でいたい。
 「……絵麻、俺、18になったよ」
 どうしてそんなことを言ったのか、自分でもわからない。だけど絵麻は、こくんと頷いてくれた。
 「だけど、追いつけないんだよな。俺が年を食えば絵麻だって年を食うし―――次に会ったときは、絵麻、すっげえ老けてるかもしれ
ないな」
 俺が冗談めかしてそんなことを言うと、絵麻は「ひどい」と言って笑った。だけど彼女は相変わらず泣いているので、泣き笑いみた
いになっている。
 化粧が崩れて涙で滅茶苦茶になっている顔が、ひどく可愛くて、綺麗で、純粋で、愛おしい。
 「なあ絵麻……絵麻だって、初恋は実らなかっただろ?」
 絵麻は答えない。しかし構わずに俺は続けた。
 「初恋は実らないし、苦いものだよ。俺はそれをいま、しみじみと実感してる」
 だけど幸せだ。死にたいくらいに幸せだ。俺は市ヶ谷絵麻という女性を好きになった。ただそれだけの事実が、単純に嬉しい。
 「……好きだったよ。もう、どうにもなんないくらいに」
 俺は震える声でそう言うと、黙って保健室を出た。きっと絵麻は追ってこないだろう。
 
 大人の振りをした子ども。俺のことだ。
 もう18歳、まだ18歳……なにを言っても、絵麻には追いつけないんだよ。悔しいことに。
 
 保健室前の廊下は、薄暗くてしんとしている。俺はうずくまって、声を押し殺して泣いた。
 あまりにも苦くて、純粋で、瑞々しくて、幸福な初恋の終わりを―――自分が持てるすべてのもので実感したい。終わったんだと思い
たい。だけど思いたくない。信じたい。信じたくない。彼女に会いたい。会いたくない。
 
 ―――好きだった。
 
 本当に大人になったとき、俺は初恋について、この一言で片付けることができるようになっていたい。
 好きだった。救いようのないくらい残酷な、しかし純粋な恋だった。
 初恋だった。終わったのは、蒸し暑い夏の日だった。
 
 
 
 

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