#55.君の瞳に完敗。
 
 
 
 
 「でも、ほんとによかったよね」
 7月23日、水曜日。今日から夏休みに入ったので、姫桜は午前中から俺の家に来ている。
 「まあ、俺はうまくいくと思ってたけどな」
 「花火大会の日ね、まどかちゃん、帰ったあとに泣きながら電話してきたんだよ。梓くんとうまくいってよかった、ありがとう、って」
 「俺も梓からメールきた。しかもデコメで」
 俺が呆れたように言うと、姫桜はくすくすと笑う。そしてグラスいっぱいに注いだアイスティーを、半分くらいまで一気に飲んだ。
 「私、ほんとに嬉しい。あの二人には、絶対にうまくいってほしかったんだー……」
 姫桜はそう言って、俺の肩にもたれかかってきた。思わず心臓がドキッとしてしまう。
 「あ、あの……姫桜」
 「なに?ていうか、瑛治、なんか声ヘンじゃない?これ、飲む?」
 緊張なんだか暑いせいなんだか、俺の声は確かにかすれていた。俺は黙って頷いて、アイスティーをぐびぐびと飲む。
 「姫桜、こっち向いて」
 どうしてキスをするだけなのに、こんなに手間取るんだ、俺は―――そう思いながら姫桜の腕を軽く引っ張って、触れるだけのキスをした。
 「……瑛治、ちょっと、待ってて」
 姫桜は小さな声でそう言って、自分のバッグの中をなにやらごそごそと探り始めた。なんだ?と思っていると、姫桜が体をまたこっちに
向けて、「目、つぶって!」と、やたら大きな声で言う。
 「……は?」
 「いいから、目、つぶって!早く!」
 目をつぶらないと本気で怒られそうである。姫桜が本気で怒ると怖いのはよく知っているので、俺はなにがなんだかわからないまま、
とりあえずぎゅっと目をつぶった。
 「手、出して」
 「……どっち?」
 「どっちも!」
 俺はしぶしぶ両手を差し出した。なんというか、随分間抜けなカンジなんだろうな、いまの俺……。
 
 何秒か経つと、俺の両手にはなにかが置かれていた。左手の方は割と重い感触で、細長い……箱か?これ。右手の方は軽い。なにかの
袋だろうけど、なんなのかはわからない。
 「……もう、目開けていい?」
 「まだ!」
 姫桜はきっぱりとそう言い放つと、なにやらぶつぶつ呟き始めた。唯一「ちゃんとしなくちゃ」という呟きだけが聞こえた。……なにを
ちゃんとするんだ?いったい。
 「……瑛治」
 「はい」
 なぜか敬語になってしまった。なんだかまぶたが変な感じだ。もうそろそろ、目開けたいんだけどな・……。
 「……その、誕生日、おめでとう」
 姫桜はそう言ったとたん、俺にキスをした。ほんの一瞬の、軽いキスだったけれど。
 俺は思わず目を開いて、姫桜の顔をまじまじと見てしまった。心臓がさっきよりもドキドキしている。姫桜のよくわからない行動の理由が、
一瞬ですべてわかってしまった。
 
 「あ、あのね、これ、一応、プレゼントで。それでね、こっちが……その、失敗したんだけど」
 姫桜が珍しくしどろもどろになっている。そのとき俺は、自分の両手に乗っているものをはじめて見た。
 「左のほうから、開けてみて……?」
 姫桜の言う通り、俺は右手に乗っている袋をテーブルの上に置いて、左手に乗っている箱から開けることにした。包装紙を取ると、細長い、
白い箱が出てきた。
 「―――腕時計?」
 ゆっくりと箱を開くと、黒っぽい革のバンドにシンプルな文字盤の腕時計が入っていた。俺は驚きすぎてなにも言えないまま、姫桜の顔を
じっと見た。
 「あの……これ、文字盤、数字じゃなくってね、シンプルでいいでしょ?瑛治に似合うと思って」
 「……これ、俺に?」
 「他に誰がいるのよ」
 姫桜は笑って、「つけてみて」と言った。俺はそっと腕時計を取り出して、左腕につけてみる。その腕時計は自分で選んだように似合って
いて、俺の好みそのものであった。
 「あ、似合う似合う。やっぱりこれにして良かった。もう一つ候補があってね、文字盤がおっきな数字で……」
 嬉しそうに話し始めた姫桜を、俺は黙って抱きしめた。俺よりも一回り小さい姫桜は、すんなり俺の腕の中に収まる。
 嬉しくて嬉しくて、姫桜が愛しくて仕方ない―――この気持ちをどう伝えればいいのかわからなくて、俺は姫桜を抱きしめる腕にぐっと力を
込めた。
 「え、瑛治……苦しいってば」
 「我慢しろって」
 この気持ちを、どう伝えればいいのかわかんないんだ。どれくらい伝わってるのかもわかんない。だから、こうやって強く抱きしめること
しかできない。
 「待って……もう一個、あるの……その、あげていいのか、わからないけど」
 姫桜のその言葉に、俺は腕の力を弱める。姫桜はテーブルの上の袋を取って、「はい」と俺に手渡した。さっき、俺の右手に乗っていた
ものだ。
 
 「……クッキー?」
 袋の中をよく見ると、星やハートの形をしたクッキーが入っていた。
 「これ、もしかして……姫桜が、作った?」
 「あ、あのっ……それでも、3回目にやっと成功したやつで……成功って言っても、全然ダメなんだけど。その、風華に教えてもらい
ながらね、がんばったんだけど……」
 袋を開けると、お世辞にも美しいとは言えない形のクッキーが10枚ほど入っていた。
 「不恰好で、ごめんね……。その、味は、大丈夫だから。私、料理の才能ないみたいで……」
 姫桜が言い終わらないうちに、俺はまた姫桜をぎゅっと抱きしめた。さっきの何倍も、俺は彼女が愛しかった。可愛くて可愛くて、好きで
好きで、どうにかなりそうなくらいに。
 「嬉しい……俺、嬉しすぎて、死にそう」
 「……大袈裟だよ」
 「だって、俺のために、一生懸命作ってくれたんだろ?腕時計だって、俺のために選んでくれて」
 「うん……」
 俺の腕の中で、姫桜がこくんと頷いた。可愛い、ほんと、どうしようもなく―――。そう思った次の瞬間には、俺は姫桜にキスをしていた。
さっきみたいなキスではなく、もっと長いキスを。
 
 「大切にする。腕時計も、クッキーも、姫桜のことも」
 キスのあとに俺が言うと、姫桜はくすくすと笑った。
 「クッキーは、食べてよね」
 「あ、そっか」
 俺がはっとしたように言うと、また姫桜は笑う。笑った顔が可愛いから、俺はまたキスをした。一瞬で唇を離すと、今度は姫桜にキスを
される。そんなことを繰り返して、俺たちはわけもなく笑い合った。
 「ね、瑛治」
 「ん?」
 「大切に、してくれる?私のこと、いちばんに」
 姫桜がこんなことを口に出すのは初めてだった。俺は思わず呆気に取られてしまう。
 「私はね、瑛治がいちばん大切なの。お兄ちゃんのことや、日向のことや……いろいろあったけど、瑛治はずっと私を好きでいてくれた
でしょ?私はそんな瑛治がね、好きで好きで、ほんとうに、いちばん大切なの」
 姫桜はそう言ってから、なんだかこういうのって照れるけど、と呟いた。
 「姫桜……」
 「だからね、ずっとずっと、一緒にいて」
 俺はなんとも言えないような気持ちになった。姫桜がこんなことを言うなんて。俺を、こんなに好きでいてくれたなんて―――。
 「姫桜、俺は」
 「うん」
 「ずっと姫桜のことが好きで、でもずっと言えなくて、付き合えたとき、本当に嬉しかった。姫桜が変な男に言い寄られたって、俺は
どっかで姫桜を信じてた」
 変な男ってなによ、と姫桜が笑う。だけど俺は構わずに続けた。
 「俺は、姫桜より大切なものなんて持ってないんだ。だから、その……これからも一緒にいることなんて、当たり前だと思ってる」
 いまいち格好つかないセリフを言い終えてから、俺は姫桜を優しく抱きしめる。姫桜も俺の背中に腕を回してくれた。
 
 
 
 
 爽やかな夏の風を肌で感じながら、俺たちはゆっくりと話をした。これからのこと、いままでのこと、お互いのこと……。
 意外に知らないことがあったりして、その度に二人で笑い合った。笑いながら、こういう時間が大切なんだと心から思う。
 
 ごくごく普通の俺たちの恋は、時にはつらいことを乗り越えたり、なにかに躓いたりしながら、これからも長く長く続いていくのだろう。
 たった一人の特別な女の子を幸せにするために、悩みながら葛藤しながら、なんとかやっていく。そんな自分を、俺は克明に思い描く
ことができた。
 
 
 ―――なあ、姫桜が絶対に知らないこと、教えてやろうか?
 ―――え?
 ―――耳貸して。
 
 俺は一呼吸置いてから、ゆっくりと言った。彼女は、どんな顔をするのだろうか。
 
 
 ―――俺さ、出逢った瞬間から、姫桜のことが好きだったんだ。
 
 
 
 
 
 
 
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