#50.閑話休題・7月16日
 
 
 
 
 「瑛治ィ、おまえさあ、陸上部入れば?」
 「やだよ、めんどくさい」
 手を冷たい水で洗ってTシャツの裾で拭きながら、俺はそう答えた。
 7月16日、水曜日。いま、5時間目の体育の授業がちょうど終わったところだ。昼下がりのいちばん気温が高い時間帯だから、冷たい
水が本当に気持ちよく感じる。
 「でもさあ、もったいないぞ、おまえ。あんな足速くて、部活やってねえって」
 梓がそう言って、蛇口を思いっきり捻る。水が勢いよく噴き出してきた。
 「中学んときはやってたって」
 「バスケ部だろ?あーあ、もったいねー。つか、陸上部の俺より速いってのが許せん」
 梓は豪快にバシャバシャと顔を洗って、Tシャツの裾で顔を拭く。あーあ、Tシャツ、びしょびしょじゃねえか……。
 「しょうがねえだろ」
 「ほんと、おまえっていちいち腹立つんだよなあ。さっきだって女子にキャーキャー言われてたし」
 「……どうでもいい」
 なんだよ、結局そういうことか。俺は笑い出したいのを必死に堪える。
 「もう、おまえとは絶対同じ組で走りたくねえ。100m走はな、俺が唯一かっこいーところを見せられる貴重な競技なんだよ!」
 「あ、そう。クソ暑いから、俺はもう中入るぞ」
 太陽がぎらぎらと照りつけているうえ、生暖かい風しか吹いてこないから、もう暑くて死にそうだ。俺は一人でわめく梓を残して、さっさと
玄関に向かって歩き出す。
 「ちょ、オイ、待てコラ!」
 梓が慌てて俺を追いかけてくる。あー、こいつって本当に面白いよなあ。だいたい、そんなに悔しがることないのに。さっきの100m走
だって、わずかの僅差で俺が勝ったのだ。陸上部なだけあって、梓こそ十分に足が速い。
 「おまえなあ、姫桜ちゃんっていう彼女がいるくせに、これ以上モテてどうすんだよ!」
 「……おまえこそ、椎名がいるだろ。モテてどうすんだよ」
 梓は、俺のすこし後ろを歩いている。俺がため息をつきながらそう言うと、梓は急に押し黙ってしまった。椎名の話題になると、いつも
これなんだよな、梓は。
 「べつに、付き合ってるわけじゃ、ねーもん」
 さっきとは打って変わって、小さな声でぼそぼそと呟くように言う。その声は、しつこいくらいに照りつける太陽に吸い込まれてしまったかの
ように頼りない。
 「もうすぐ付き合う予定だろ?今度の土曜に」
 今度の土曜日―――7月19日は、前から予定していた花火大会の日だ。この日に、梓は椎名に告白するらしい。
 「……どんな返事もらえるか、わかんないだろ」
 「絶対うまくいくって。おまえら、付き合ってないっていうほうが不思議だよ」
 梓は陸上部で、椎名はテニス部。お互いの部活の終了時間が重なるらしく、二人は毎日のように一緒に帰っている。俺から見たら、もう付き
合ってるも同然だ。しかも、他のクラスのやつらからだって「梓と椎名さんって付き合ってんの?!」って最近よく訊かれるし。
 「あんまり期待させんなって。あーもう、なんか緊張してきただろ……うわっ」
 急に梓が小さく叫んだので、どうしたものかと俺はとっさに振り向いた。……それで、また前を向いて、できるだけ早足でまた歩き始める。
 ―――なんだよ、ラブラブじゃねえか。
 梓と椎名からできるだけ離れつつ、俺の耳は後ろに向いていた。椎名はさっきから、俺たちの後を追いかけてきていたらしい。話、聞かれて
なければいいけど。
 
 「梓くん、これ、あげる!」
 椎名の可愛らしい声が響く。……なんだろ、なにあげたんだろ。俺はすこしだけ後ろを振り向いてみる。椎名の手には、ポカリのペットボトル
が握られていた。
 「え?俺に?」
 「うん。あのね、梓くん、がんばってたから」
 「いや、でも……その、俺、瑛治に負けたし……」
 まだ気にしてんのかよ!と、俺は心の中で梓に突っ込みを入れる。せっかく椎名がくれるっつってんのに。ったく、バカだな、梓は……。
 「そんなこと、ないよ……?あ、梓くんが、いちばん、かっこよかったもん……」
 椎名が小さな小さな声でそう言って、「じゃ、あの、またあとでね!」と俺の横を走り抜けていった。椎名が学校の中に入っていくのを確認して、
俺はニヤニヤして後ろを振り向く。
 「いちばん、かっこよかったらしいぞ」
 「ああ……」
 梓はペットボトルを握りしめたまま、ボーッと玄関を見つめていた。椎名はもうとっくにいないのだが、椎名の幻影でも見えてるんじゃない
だろうか?
 「俺、生きててよかった……」
 そして、梓はしみじみとそう呟いた。妙に実感のこもった呟きであった。
 
 
* 
 
 
 「それって、もう両想いじゃない?」
 その日の夕方、俺と姫桜は、また駅前のマックにいた。最近、あまりにも頻繁に連れ出して悪いので、今日は俺の奢りということにしたが。
 会いたいんだから、しょうがねえだろ―――と、誰にともなく言い訳をしてみる。お互いに帰りが夕方になるので、どうしても、メシ食って
帰ろうという話になってしまうのだ。
 今日は特に暑かったからか、姫桜は長く伸びた髪を後ろで一つにまとめていた。真っ白なうなじが見えたから、俺はなぜか気まずくなって
目を逸らす。もともと大人っぽい姫桜が、いつもよりさらに大人っぽく感じる。というより、なんというか、色っぽい。
 この髪型、学校にして行ってるんだろうなあ。当たり前だよな。……なんか知らないけど、嫌だ。
 「瑛治、聞いてる?」
 姫桜が怒ったように言って、俺の顔を覗き込んだ。俺は思わず後ずさりをしてしまう。
 「お、おまえなあ、いきなり覗き込むなよ!びっくりすんだろ!」
 「なによー。瑛治が話聞いてないから悪いんでしょ」
 姫桜が不満そうに口を尖らせる。俺はやっぱり気まずくて、なにも言わずにオレンジジュースをすこしづつ飲む。
 「……姫桜」
 「なによ」
 ……器用だなあ。どうやってんだろ、これ。あのでっかいピンみたいなやつで、髪って全部留められるモンなのか?
 「な……なんで、そんなにじっと見てるのよ」
 姫桜がすこし頬を赤くしてたじろいだ。あ、可愛い。割と恥ずかしがりやなところあるんだよな、姫桜って。まあ、そういうところも、
可愛いんだけど……。
 俺はそんなことを考えながら、ぼーっと姫桜の顔を見ていた。姫桜は赤くなったり俯いたり、俺をちらちら見たりと、忙しそうである。
 「かわいーなあ、と思ってさ」
 ごくごく、自然に出た言葉だった。最近、「可愛い」という言葉を何気なく言えるようになった。前みたいに、口に出す前に構えてしまう
ことがなくなったのだ。
 だけど姫桜は、俺の「可愛い」という言葉にまだ慣れていないらしく。
 「や、やだ……いきなり、なに言って……あ、髪型ちがうから、そう見えるんじゃない……?」
 「うん。その髪、似合う」
 俺は小さく頷いて、今度はオレンジジュースを一気飲みしてみた。姫桜はまた赤くなって、俯いてしまう。
 「……さいきん、よく言うよね。かわいいって」
 「そうか?」
 「……うん。これね、今日、瑛治と会うから、してみたの。……その、今日、暑かったし」
 姫桜が俯きながら、ぼそぼそと言った。マックの喧騒にかき消されそうなくらい小さな声だったけど、俺にはしっかりと聞こえた。
 その言葉を聞いた瞬間、飛び上がりそうになる。なんて可愛いこと言うんだ、姫桜は。やばい。いま、すっげえ、抱きしめたいかも―――。
 「……気に入ってくれたみたいで、よかった」
 そして姫桜は、顔を上げて、わずかに微笑んだ。俺のテンションはさらに上がっていく。可愛いを百回言っても足りないくらい、いまの姫桜、
本当に可愛い。
 
 「……んで、それさ。学校にも、してってんだろ?」
 俺はその言葉に、なんの感情も含ませなかった。独占欲や嫉妬心が見えないように。
 学校ってことは、ヒューガ君もいるわけで。一件落着はしたみたいだけど、やっぱり、あんな奴が近くにいるっていうだけで、安心できない
わけで。
 「え?う、うん……」
 「……色っぽいんだけど、けっこう」
 俺がそう言うと、姫桜はさっきとは比べ物にならないくらい真っ赤になってしまった。赤くなったり俯いたりと、さっきよりも忙しそうである。
 「い、いろっぽい……?」
 「ん。姫桜、そういうふうにすると、すんげえ色っぽい」
 だから学校には、極力していくなよ―――と、心の中で付け加える。
 なんだかわからないけど、最近、姫桜に対する独占欲というか、嫉妬というか、とにかくそのような気持ちが前よりも強くなったような気がする。
それに、「可愛い」ってだけじゃなくて、色気なんて感じるようになった気がする。もともとの姫桜に色気がなかったわけじゃないけど、前よりも
そういったものを強く感じるようになっているのだ。
 ……なんでなんだろうな。キスより先に進んだから、かもしれないけど。
 「ちょっ、こんなとこで、そんなこと言わないでよっ……」
 姫桜がきょろきょろと周りを見回している。大丈夫大丈夫、誰も聞いてないって。
 「そんなに照れなくても」
 「瑛治が照れなさすぎなんだって……」
 「俺は、思ったことを言ったまでで」
 俺はそう言いながら、あの日のことをすこし思い出していた。やっぱり、あのときからだよな。姫桜に対して、「色っぽい」なんて、頻繁に
思うようになったのって―――。
 「そ、そんな、思ったこと、すぐに言わなくていいの!」
 姫桜がか細い声で言った。うん、やっぱり可愛い。俺は真っ赤な顔で否定を続ける姫桜を見て、しみじみと思った。
 
 
 
 
 『件名:あさってのこと!
 あのさ、6時に集合するんだろ?!
 花火って8時くらいからだったよな?
 そんでさ、俺たち、いつ分かれるよ?やっぱ、暗くなってきてからだよな』
 
 その夜、梓からメールがきた。短文なのに、いまのあいつの心情がありありとわかる文面で、なんだか可笑しい。
 
 『件名:無題
 そうだな。7時前にでも分かれるか?
 椎名に言うのは、花火んときだろ』
 
 『件名:無題
 ……だよな。うん。花火んときだな。うん、俺、とりあえず、がんばる!』
 
 そのメールを見て、思わず俺は笑ってしまった。梓、別行動して大丈夫か?ちゃんと椎名に告白、できるんだろうか。
 いつもうるさくて底抜けに明るくて、いい奴だから友達も多くて―――そんな梓が、ここまで恋愛に悩んでいるなんて、誰が想像できる
だろうか。あいつなら、彼女の一人や二人、適当に作りそうだ、ってのが、周りの印象じゃあないだろうか。
 そんな梓は、本気で、心から、椎名に恋している。椎名のことが好きで好きでどうしようもない、っていうのが、見てるだけでわかる。
 だから俺は、その梓の気持ちを、椎名に受け止めてほしい。おそらくうまくいくとは思うけど、それでも不安は付きまとう。
 ……俺まで緊張してきた。自分が告白したときより、緊張するかも。
 
 『件名:大丈夫
 まあ、大丈夫だって。あんまり緊張してんなよ。がんばれ』
 
 俺はこの文章に、自分の精一杯の気持ちを込めたつもりだった。メールを打つのが苦手だから、重要なメールほど短文になってしまう
傾向がある。
 がんばれ、なんて、自分のことみたいに応援している。梓は、俺が姫桜とケンカしたとき、あいつなりに一生懸命慰めてくれた。本当に
いい奴だと思う。
 椎名が、あいつのそういうところ、知らないわけはないと思うけど。でも、梓にはいいところがたくさんあるから、それをたくさん知って、
と付き合ってほしい。
 ……なんて、俺、柄じゃないよな、こういうの。
 でも、まあ―――こればっかりは、梓ががんばるしかないよな。まず、椎名にきちんと気持ちを伝えないと。
 
 
 
 
 ―――そして、3日後。花火大会は、あっという間にやってきた。
 
 
 
 
 
 
 
 
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