#49.5.続章―甘い時間、その後―
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午後8時半すぎ、俺と姫桜はようやく梨乃の作った晩飯から解放され、真っ暗な空の下を黙々と歩いていた。
あれから梨乃は改めて買い物に行き、材料を大量に調達してきた。だからテーブルの上には、おおよそ3人分とは思えないような量の
料理が並べられていたのである。
梨乃は本気で姫桜のことを気に入ったらしい。だから、気合いを入れて作りすぎたのだろう。俺はそう思い、大量のハンバーグを半分
以上平らげてやった。
姫桜はというと、もともとそんなに食べる方ではないので、正直すこし困っていた。だが嬉しくはあったらしく、梨乃と笑って話を
しながら、いつもよりは少し多めに食べていたようだった。
「姫桜……その、ハラ、大丈夫か?」
「え?」
「いや、梨乃がしつこく勧めるから、食べ過ぎたんじゃないかって。その、悪いな……バカで、強引な姉で」
俺の家を出てから、初めて言葉を口にした。
おそらく姫桜もそうだと思うけど、どうしても、さっきのことが思い出されてしまって、喋るのが申し訳ないというか、どう話し掛け
たらいいかわからない。
「う、ううん。すっごくおいしかったよ?梨乃さん、料理上手なんだね」
姫桜の口調が、すこしぎこちない。……ああ俺、やっぱり急ぎすぎたんだろうか。
「そっか、それなら、いいけど……」
「うん。それに、優しくて、かわいいよね。私、一人っ子だから、ちょっと羨ましくなっちゃった」
「それ、梨乃に言っとくよ。あいつ調子に乗って、またなんか作ってくれるよ、たぶん」
俺がそう返すと、姫桜が小さく笑う。……やっぱり、なんかぎこちない。やっぱり俺、急ぎすぎた?それこそ、調子に乗った?いや、
でも……。
「瑛治」
「あ、え?あ、なに?」
いろいろと考えを巡らしていたので、つい間抜けな声が出てしまった。
「その、さ、さっきの、こと、だけど……」
姫桜が、俯きながらつっかえて言う。姫桜に合わせたゆっくりとした歩調が、さらにゆっくりになった。
「あ、あー、うん……」
……なにが「うん」なんだ。俺はバカか?
「えっと、その、べつに、嫌とかじゃなくて……恥ずかしかった、だけなの」
「あ、そうだよな。いや、俺もな、べつに、あんなことするために家に入れたわけじゃなくて。その、成り行きっていうか」
……もしくは、男の摂理というか。俺は心の中で、ひっそりとそう付け足す。
「その、だから、べつに俺、姫桜とああいうことするために付き合ってんじゃなくて、その、なんつーか……」
俺はベラベラと無意味な言葉を機関銃のように打ち出す。
不安なのは、姫桜に誤解されてんじゃないかってことだ。ケンカして仲直りした直後なのに、あんなことをしてしまった自分が憎い。
もうすこし我慢強くならなきゃ駄目だな、俺は……。
「あ、あのね!」
大声で言って、姫桜が突然俺の手をぎゅっと握った。つめたい指が俺の手を捉える。
「嫌なわけじゃ、ないの。……いずれは、瑛治と、そういうことになるかなって、思ってたり、するし」
ゆっくりと歩きながら、姫桜は小さい声で言った。住宅が途切れて、大きな道路に出た。俺たちは立ち止まって、信号の赤をぼぉっと
見つめる。
「でも、そういうことになっても、瑛治なら、いいかなって思ってて。あ、えっと、今すぐにってことじゃないんだけど。……ほら、
私、瑛治のこと」
―――信じてるし、だいすきだから。
目の前を通り過ぎていく大型トラックが立てる轟音が、姫桜の小さな声をかき消していく。
だけどその言葉は、俺の耳に届いた。明らかにはっきりと、しっかりとした響きを持って。
「……瑛治?」
信号が青になっても、俺は立ち止まったままであった。その場から動けなかったのだ。
心の中にあったわだかまりが、一つずつなくなっていく。簡単で単純でわかりやすい、姫桜のたった一言で。
―――彼女は俺に、ほんのすこしでも、心を許してくれたのかもしれない。
「瑛治?……もう、信号、赤になっちゃった」
姫桜がすこし怒ったように言って、俺の顔を覗き込んだ。じめじめした風に、姫桜の髪がなびいている。
「……俺、も」
「ん?」
「姫桜のこと、大好き」
俺はゆっくりと、姫桜への気持ちを確かめるように言った。
好き、という言葉は、なんて単純なのか。気持ちによって軽くも重くもなれる、不思議な言葉だ、と思う。
俺は姫桜が好きだ。でも、これからも、もっともっと好きになっていく。いまでもどうしようもないくらい好きだけど、これから、
もっとどうしようもなくなると思う。
あいしてる、という言葉を、そのときまでに取っておこうと思った。俺が知っている中では、いちばんの愛の言葉だから。
「やだ、そんなこと言うために、止まってたの?」
姫桜が俺の隣で、くすくすと笑う。その笑い声が、とても心地よかった。
湿った風が、二人の間をすり抜けていく。姫桜の家までもうすぐだ。
とりあえず俺は、姫桜のつめたい手をぎゅっと握りながら、「遅くまでお嬢さんをお借りしてスミマセン」というセリフを、一生懸命
頭の中で反復していた。
もしかして、姫桜の父さんもいるかな。……やべ、緊張してきた。でも、こんな時間だし、挨拶しないわけには、いかねーよな……。
「……姫桜、あのさ」
信号を渡りきったところで、俺は重々しく口を開いた。
「なに?」
「今日、おまえの父さん、いる?」
「はあ?」
「……挨拶、したいんだけど」
できれば、母さんだけにしてくれ。いきなり彼女の父さんに会うのは、気が重い。重すぎる。
だが、そんな俺の願いも虚しく―――。
「いるよ」
姫桜は笑って、そう言ったのだった。
緊張で胃が縮こまりそうになりながら、とにかく歩く。
まあ、いいか。いずれ挨拶するんだし。そうだよな、これから姫桜と、長く付き合っていくのであれば―――。
雨上がりの夜空に、ぽっかりと丸い月が浮かんでいる。
俺と姫桜の影は濡れた地面に長く伸びて、どこまでも、どこまでも続いているように思えた。