#48.a fine evening after a rain. 姫桜視点
*
「誰もいないから、遠慮すんなよ。あ、でも、ちょっと待って。俺、部屋片付けてくる」
瑛治が早口でそう言って、ダダダと物凄い速さで階段を上っていく。私はそんな瑛治の様子を、緊張しながらボーッと見ていた。
玄関に入るとすぐ左側に階段があり、短い廊下をまっすぐ行ったところに、ドアがあった。おそらくそこが居間なのだろう。
―――ここが、瑛治の、家。
緊張で、心臓がドキドキしている。無意識に頬を触ると、涙でまだすこし濡れていたから、慌てて頬を手で拭う。
……ほんとは、家の中にまで押しかけるつもり、なかったんだけど。でも、成り行きだし、しょうがない、よね……?
二階からは、ドタドタと大きい音がしていた。急いで片付けてくれてるのだろう。
「……姫桜!とりあえずは片付けたから、上がってきていい……あ、一番奥の部屋だから!」
一番奥の部屋。私とおんなじだ。そんなことを考えながら、そぉっと階段を上る。ドキドキして、転げ落ちそう。やっと階段を上りきった
とき、この暑い日なのに、私は冷や汗をかいてしまっていた。
瑛治の部屋に行くまでに、ドアに「りののへや」と書かれた可愛い木製のプレートがかかっている部屋があった。瑛治にはお姉さんがいる
って聞いたことある。お姉さんの部屋なんだな、きっと。
「……お邪魔、します」
「あ、えっと、適当に、座ってて。俺、なんか持ってくる」
瑛治はまた早口にそう言うと、私と入れ替わりになるようにして部屋を出て行ってしまった。大きな足音を立てて、今度は階段を駆け下りて
いく。
……うん、瑛治らしい部屋。
思った通り、全然きれいじゃない。いや、汚くもないけど。適度に散らかっていて、でも、散らかりすぎてもないし。上手く言い表せない
けど、とにかく瑛治らしい部屋だ、という印象を受ける。
本棚に詰まっている本はほとんどマンガで、小説は……ない?なによあいつ、小説、まったく読まないの?
ふと机に上に目を向けると、プリントが汚く積み上げてある。壁にはカレンダーがかけてあって、花火大会がある26日のところに大きく
赤いマルがつけてあった。
それを見て、私は思わず笑ってしまった。かわいいな、なんて思ってしまう。
「おい、なに見てんだよ」
「えっ」
突然、後ろから声をかけられて、びくっとしてしまう。振り向くと、瑛治が手にグラスを2つ持って立っていた。
「座ってろ、って言っただろ。……汚いから、あんまり見るなって」
「ごめんね。……でも、なんか、瑛治の部屋だなあって思ったら、見たくなっちゃって」
瑛治が床に座ったので、私も同じように床に座る。「はい」と瑛治がグラスを渡してくれた。
「喉渇いたろ?泣いたら、水分消費すんだぞ」
瑛治が意地悪そうな顔で言う。さっきよりだいぶ冷静になった私は、いまさら恥ずかしくなってしまった。
「……うるさい」
小さい声で反論して、氷の入ったお茶を半分くらいまで一気に飲んだ。この暑さだし、泣かなくても、喉は渇くわよ。じめじめしてる日って、
なんだか無性に喉が渇く。
「さっき言ったこと、ホント?」
「え?」
「俺のこと、好きだから、別れたくないって」
私は危うく、お茶を吹き出すところだった。
「い、いきなり、なに言って……」
「さっき、姫桜が言ったんだろ?あんなに泣きながら」
瑛治が笑いながら言う。……悔しいけど、なにも言い返せない。事実だもん。だけど、ああいうときに言ったことを冷静になってから繰り
返されると、言いようのないくらいの恥ずかしさに襲われる。
「……忘れて」
「やだ」
「恥ずかしい」
「でも、俺は嬉しかった。すっげえ、死ぬほど、嬉しかった」
瑛治はそう言って、お茶を一気に飲み干し、ふうと一息ついた。
「俺、本気で思ってた。姫桜があいつのこと好きになったらどうしようって。あんなすっげえ奴、俺には絶対勝ち目ないって」
「そんな……」
「バカだろ?でも、本気で思ってた。そしたら、なかなか連絡する気なんか起きなくてさ」
瑛治はベッドによしかかりながら、独り言でも言うみたいに言う。私はグラスを持ったまま、黙って瑛治を見つめていた。
「姫桜が家の前にいるって気付いたとき、正直、なに言いに来たんだ?って思ったんだよ。直接来るってことは、本当に別れられるのかなあ、
とか。嫌なことしか浮かばなかった。そしたら、涙いっぱい目に溜めて、別れないで、って言うからさ。いや、ホント、驚いた」
そう言って瑛治は、ふいに私に顔を近づけてきた。ドキン、と胸が鳴る。瑛治は私に触れるだけのキスをして、唇を離して、私に微笑む。
「それは、こっちのセリフだってな。俺こそ、姫桜に別れられたら、やってけない。この3日間で嫌っつーほどわかった」
「……私も」
よく眠れないし、ご飯もろくに食べられない。そんな状態になったのは初めてだった。彼氏とケンカしたってだけでこんな風になっちゃう
なんて、いままで知らなかったもの。
もしかして、瑛治も、そうだったのかな。それくらい、私のことを必要としてくれてるのかな……。
「姫桜、顔色悪いな。さっきからずっと思ってたんだけど」
「眠れなかったし、あんまりご飯食べれなくて」
「ごめん、俺のせいだ」
瑛治はそう言って、ぎゅうっと強く抱きしめてくれた。日向とは、全然違う。背は高いのに体が大きいって感じはしないし、全体的に線が
細い、瑛治の体。
私はやっぱり、ここがいい。瑛治の腕の中が、一番いい。安心する。温かい、大好きな場所。
ほっとしたら、また泣けてきた。私はいったい、どれだけ泣いたら気が済むんだろ、なんて思って、ちょっと可笑しくなった。
「また、泣いて」
「……うん」
「もう泣くなって。目、真っ赤だぞ」
瑛治が私をまっすぐ見つめて、笑ってくれる。この笑顔、大好き。瑛治はこういう屈託のない顔で笑うと、急に幼くなる。子供みたい。
「……姫桜、俺と、ずっと一緒にいて。ケンカもたぶん、すると思うけど。でも俺、ちゃんと姫桜のこと、大切にするから」
瑛治との距離が、すごく近い。顔が熱い。目を逸らせない。私はこくん、と小さく頷いた。大好き。大好き。何回言っても足りないくらい、
私は瑛治のことが大好きなの―――。
そんな気持ちが瑛治に伝わったのかわからないけど、それから瑛治は、長い長いキスをしてくれた。何度も何度も、唇を離しては「好きだよ」
と呟いて、それから、また口付ける。いとおしむように、いつくしむように。私のぜんぶを包み込んでくれるようなキスを、何度も何度もする。
「俺、姫桜のこと、死ぬほど、好き」
そんな長いキスが終わったあと、瑛治はそんなことをぼそっと言った。
「やだ、そんな大袈裟な……」
「いや、本当に。……俺、今日は、姫桜のこと、離したくない」
瑛治はそう言って、さっきよりも強く、私を抱きしめた。キスの余韻がまだ残っている。頭がボーッとして、クラクラする。
「姫桜、もっかい、キスしていい?」
「……何回でも」
「んなこと言ったら、調子こくだろ……」
そう言って笑いながら、瑛治はまた長くて深いキスをしてくれる。さっきの余韻もあって、体から力が抜けていくのがわかる。
何回でもキスしてほしい、なんて、私、変かな?でも、瑛治のキスなら、本当に、何回だっていい。
私はまるでキスを強請るかのように、ゆっくりと瑛治の背中に腕を回した。
「ん……や、瑛治……」
あまりに長いキスのせいか、またあの甘い声が出てしまう。……やだやだ、恥ずかしい。一生懸命抑えようとしてるのに、なぜか出て
しまう。
「……そんな声出すなって」
「だって……や、瑛っ……ん、も、だめっ……」
息が続かない。瑛治、苦しくないの?私、もう苦しくて死にそう……。
甘い甘いキスのせいか、苦しいせいか。とにかく私の頭はクラクラして、体の力はさらに抜けていく。ちょっとバランスを崩したら、
その場に倒れこみそうだ。
「……その声、可愛すぎ」
瑛治は急に唇を離して、ため息をついて言った。あんなに長いキスをしたのに、瑛治の息はちっとも切れてない。
「え、え?」
「ヤバいだろ、んな声出すなって。……あーもう、我慢できなくなんだろ」
我慢?なにを?
私がきょとんとしていると、瑛治は「あーもう、だめだって。だめだって」とわけのわからないことをぶつぶつ呟いている。
「瑛治……?」
「姫桜、途中で我慢できなくなったら、ごめん。先に謝っとく」
そして瑛治は、またキスを再開した。な、なによもう。わけわからない。我慢ってなに?さっきの変な声、やっぱりまずかった?
そんなことを考えてる間にも、さっきよりもずっと荒々しいキスが降ってくる。やだ、瑛治、こんなキス、どこで覚えたの……?
私の知ってる瑛治じゃないような気がして、ドキドキした。“男の子”じゃない、“男”の表情。いつもの少し子供っぽい瑛治じゃなくて……。
ふいに、体がぐらついた。力が入っていないせいで、私の体が倒れそうになっているのだ。
「え、瑛治……待って……た、たおれ……ちゃうっ……」
私の口からは、言葉にもなってないような言葉しか出てこない。
「いいよ」
瑛治は即答して、私を床に押し倒した。視界が思い切り変わる。
「え、瑛治……?」
「我慢できなかったらごめんって、謝ったろ?」
そう言って瑛治は、またキスをしようとした。それを私は「あ、あのっ」と大きい声を出して遮る。
「なんだよ」
「あ、あの、これって、つまり」
……恋人的な、こと、だよね?
経験したことのない状況に、一気に胸がドキンドキンと音を立てて鳴り始めた。だめ、落ち着かなきゃ。現に瑛治は、こんなに冷静なんだし
……ちょっと、息が荒いような気はするけど。
おろおろしてたら恥ずかしいって。……でも、これから起こるかもしれないことって、十分、恥ずかしいことだよね。
「……お前が、あんなエロい声出すから」
「えっ、えろ……」
エロい声なんて、いつ出したのよ!
私はそう反論しようとしたが、すぐに思い当たった。さっきだ。さっきの声。……あれって、エロかったんだ。……うん、そうだよね。よく
考えてみたら、そうよね……。
「今日は、キスだけにしとこうって、俺、思ってたのに。……お前のせいで、我慢できないんだけど」
「そ、そんなこと……」
「もう少し、進むけど、いい?」
「……」
顔が熱くて、どうにかなりそう。きっといまの私の顔、真っ赤なんだろうな。
「だめって言っても、我慢できる自信ないけど」
瑛治は私の返事を聞かないうちに、なんと、私の首筋にキスを落とし始めた。
「や……だめ、だめだって」
だめ、って言ってるのに、目でも訴えてるのに、瑛治は私の首筋に優しいキスを落としていく。そのたびにさっきみたいな声が出る。
「瑛治、だめ……んっ、やぁっ……」
「だめだってなら、そんな声出すなよ」
「だ、だって……なんか、変な感じ、するん……だもん」
「……気持ちいい?」
首筋にキスをするのを一瞬やめて、瑛治が熱っぽい目で私をじっと見つめた。
き、きもちいい?……なんという直接的な。だから瑛治、こんなこと、どこで覚えてきたのよっ……。
でも、気持ち悪くは、ない。……むしろ、気持ちいいのかも。こんな感覚、初めてだから、わからないけど。
私が小さく小さく頷くと、瑛治はほっとしたように「よかった」と言って、またキスを落とし始める。
―――私、もしかして、ちょっと、大人になろうとしてる?
全然知らない感覚に襲われながら、私はそんなことを考えていた。
そして、目の前の瑛治をボーッと見つめながら、気付かれないくらい少しづつ、瑛治の背中に腕を回した。