#46.動き出すきっかけ 姫桜視点
*
「ねえ姫桜、ちゃんと寝れてるの?」
7月10日、木曜日。窓の外には、どんよりとした雲が立ち込めていた。蒸し暑い、曇りの日の昼休み。
お弁当を食べようとしてお弁当箱の蓋を開けたけど、ご飯を一口食べただけでもう嫌になった。ここ2,3日、食欲が全然ない。
「寝てるよ」
「嘘ばっかり。目の下、すっごい隈できてる。それに、お弁当、今日も食べないの?」
深雪はメロンパンを頬張りながら、怒るような口調で言った。心配してくれてるんだ。事情を知っている深雪は、本当に私を心配して
くれている。
「うん……食欲、出なくて。夏バテかも」
「また嘘ついて。彼氏とまだ、連絡取れてないんでしょ」
「……」
私は黙って頷いた。こういうとき、“わかってくれる”友達って、貴重だ。深雪みたいにはっきりと物を言ってくれる人なら、なおさら。
「ったく、日向のバカもね。んなことしなきゃいーのに。姫桜とおんなじ日から、あいつも元気ないのよねえ」
「……うん」
確かにその通りだった。日向はあの日からめっきり元気がなくなってしまって、大得意のはずの数学の時間に当てられて凡ミスしたり、
昨日やった小テストも白紙で出したくらいにして、先生たちも日向のことを心配しているようだった。学年首席の日向がテスト白紙で出す
なんて、ありえないことだから。
「日向が姫桜のこと好き、ってのは、もちろん知ってたわよ?気付いてないの、アンタくらい。姫桜って、鈍いのね」
「……だって、興味なかったもん」
「そ。どうせ姫桜には彼氏いるから、あのとき、ちょっと日向にもいい目見さしてやろーかなあ、なんて思って、姫桜と一緒に買い物
行かせたんだけどね。でも、まさかそんなことやらかすなんて思ってなかったわよ。なーんか、悪いことしちゃったなあ」
深雪が食べ終えたメロンパンの袋を丸めて、少し離れたところにあるゴミ箱の中に、ポイッと投げ入れた。器用だなあ、と思う。
「彼氏、怒ってるの?」
「……わかんない」
「姫桜から連絡してみたら?向こうからしづらいのかもよ。俺よりあいつを好きになったんじゃないかーって」
「そんなこと……」
絶対にない。私が瑛治より日向を好きになるなんて、絶対に絶対にありえない。だって、瑛治以外の男の子になんて、興味ないもん。
「ほら、あいつ、顔だけはいいでしょ?姫桜の彼氏がどんな顔してるか知らないけど、とりあえず、フツーの男子の自信を喪失させる
くらいの容姿ではあると思うけど」
「……」
瑛治だってかっこいい方、だけど。だけど瑛治っていまいち自分に自信がないから、そう思ってないこともないかもしれない。
自分で自分の魅力に気付いてない人だもの。そういうところが好きでもあるんだけど、もうちょっと自信持ってもいいんじゃないの?って、
ときどき思うし。
「だからさ、早く連絡してあげて、安心させてあげなよ。私が好きなのは、アンタだけよって」
「ん……」
あんなふうに別れてから、もう今日で3日目だ。短いようで長い。こんなに長い間連絡を取らなかったのは、付き合って以来始めてのこと
だった。
「とりあえず姫桜は、次の体育サボって保健室で寝てきなよ。寝てないしご飯も食べてないんだから、体育なんかムリでしょ?」
「でも……」
「私が先生に言っておいてあげるから。もう、痛々しくて見てらんないわよ、ホント」
深雪の優しさが身に染みて、泣きそうになった。私、深雪と友達で、よかったなあ、なんて。
ずっとまともに寝ていないけど、今保健室に行ったら、すぐ寝れそうな気がする。
うん、そうする。深雪にそう言って、私は保健室に向かった。保健室の先生は、私の顔を見るなり、アラ寝てないの、ベッド空いてるから
早く寝なさい、と言ってくれた。
隈、そんなにひどいんだろうか、と保健室の寝心地のいいベッドに横になって、私は一人で苦笑してしまった。
*
……いま、何時?
随分寝てしまったような気がしていた。目を覚ますと、真っ白い天井が見えた。ああ私、熟睡してたみたいだ……。
久しぶりかも、ちゃんと寝たの。保健室のベッドって、なんでこんなに寝心地いいんだろ……。
「あ、やっと起きたか」
え?いきなり横から声がして、私は心臓が止まりそうなくらい驚いた。え?誰?
バッと飛び起きて横を見ると、日向が参考書片手に、ベッド脇のイスに座っていた。
「日向……?」
「いま、6時間目の最中。お前がなかなか起きないから、2時間連続でサボることになっちまった」
日向が、当然のことのように言う。え?なに?どういうこと?なんで日向がここにいるわけ?
いま一番顔を見たくない日向が、なぜかここにいる。ていうか、私が寝てる間、ずっとここにいたってこと?なんで?
「先生は、用事で出てる」
う、うそ。じゃあいま、私と日向、保健室に二人きり?
「そんな顔するなって。安心しろ、なにもしてないから」
「あっ、当たり前でしょ!」
そう言いつつ少し心配だったから、密かにホッと胸を撫で下ろした。前のことがあるから、信用できないもの。
「お前さー、寝顔、可愛いのな」
「は?」
「起きてるときもあれくらい可愛くしときゃ、もっとモテんじゃないの?」
……余計なお世話よ!
私は日向を思いっきり睨みつけた。なんでこいつに、寝顔なんか見られたうえ、それについてとやかく言われなきゃなんないのよ。
……寝顔なんて、瑛治にも見られたことないのに。
瑛治のことを思い出した途端、ずきん、と胸が痛む。
「おー、怖い怖い。でもいいよな、お前の怒った顔って。俺、すげえ好き」
好き、という言葉に思わず反応してしまう。なんなのよ、こいつ。さっきから、可愛いとか好きとか。なんのつもりで―――。
「……私、そういうことって、瑛治に言われるだけで十分だから」
そう言って、ベッドを降りようとした……ところで、「まあ、そんなに急ぐなって」と日向にぐっと腕をつかまれた。
「離してくれない?」
「これ以上抵抗したら、俺、香坂のこと襲うけど、いいわけ?」
「ちょっ……」
私の腕を掴む力が少し強くなった。襲う、なんていう直接的過ぎる表現に恥ずかしくなって、私は思わず俯いてしまう。
「……おまえ、男慣れしてないよな」
日向がクスクス笑う。……こういうところ、嫌い。いつもこうやって、人のことバカにするんだもん。
私はとりあえずベッドに腰掛けた。日向との距離が少し近いような気もするけど、ベッドの中に入ったら本当に襲われそうだから、
我慢しよう。
「好きな女が可愛い顔して寝てんのに、襲わなかった俺を偉いと思えよな。これでも、ちょっとは反省してんだよ」
日向がそう言って、私をじっと見つめた。茶色い髪が、すこし揺れる。
「お前の、彼氏、さ。思ったより、いい男」
「……」
「俺とは正反対ってカンジで、なんか、余裕ないっていうか、お前のことしか見えてないって顔してた」
ドキン、と胸が鳴った。日向の様子がいつもと少し違ったから、私も日向の端整な顔をじっと見た。日向は、笑ってるのかなんなのか、
よくわからない表情をしている。
「かっこいーよな、ああいうの。俺って、彼女のために、あんなに夢中になったことないし。いっつも、めんどくせーっつってさ」
日向がそう言って笑う。
日向のことなんて死ぬほど嫌いなはずなのに、私はなぜか黙って話を聞いていた。やっぱりいつもの日向とは違う。いつも強気な日向が、
こんなことを言うなんて。
「俺さあ、香坂のためなら、たぶん、めんどくさいこともちゃんとやる」
「日向……」
「お前が俺のこと嫌いになればなるほど、お前のこと、好きになってくんだよ。不思議だよなあ。こんなめんどくさい状況、わざわざ
自分で作って」
そう言って日向が、私の腕をぐいっと引っ張った。そして、「5分だけな」と言って、私を抱きしめた。日向の香水の匂いが、ものすごく
近くでした。
瑛治以外の男の子に抱きしめられたことなんてないから、どきどきしている反面、なんだか嫌だった。やっぱりこういうことって、好きな
人にされるから嬉しいんだな、って改めて思う。
それなのに、私はなぜか、抵抗できなかった。日向のこと、そりゃあ、大嫌いだけど。でも、思ってたよりずっとずっと、日向の気持ちは
真剣みたいだったから。だから、ちょっとだけ、嫌いじゃなくなったのかも、なんて思う。
「俺が失恋って、マジありえないわ」
日向がそう言って、腕の力を強めた。
瑛治よりも、体大きいな。力も強いし、香水の匂いがする。瑛治、香水つけないから、変な感じ。
「……ごめんなさい」
私は日向の腕の中で、小さく言った。日向がこんなに力強く抱きしめているせいで、私の声はくぐもって聞こえた。
「謝られると、なんか惨めなんだけど」
「でも、私には、これしか言えないから」
「……だよなあ」
私より日向を好きになってくれる子、たぶん、いっぱいいるよ。そんなことを言おうとしたけど、日向の気持ちを考えると、とても言え
なかった。
「お前、抱き心地いいな」
ふと日向が、笑いながらそんなことを言った。
「……変態みたいなこと言わないでよ。ていうか、もう離してくれない?」
「まだ、3分しか経ってない」
「もう5分経ったって」
「まだ。俺、ちゃんと計ってんの」
「バカじゃないの?」
私は思わず笑ってしまった。そしたら日向も一瞬、つられたように笑う。そして、「……仲直り、しとけよ」と呟いた。
「日向が言うこと?」
「それもそうだけど」
「だいたいね、アンタがあんなややこしいことしたせいなんだから」
「わかってるって。悪かった悪かった」
日向が私を離してくれた。笑っている。いつもの皮肉っぽい笑い方じゃなくて、ちょっと口の端を吊り上げた、変な笑い方で。
「……香坂にこんなに想われてるあいつが羨ましいよ、俺は」
日向はそう言って、ペットボトルのお茶を私に渡してくれた。そして立って、保健室を出て行ってしまった。パタン、と静かにドアが
閉まる。
私は、日向がくれたお茶をぎゅっと握り締めた。いったいいつからここにいたのか、お茶はもうすっかり温くなっている。
―――変なやつ。
なんでかわからないけど、涙が出てきた。日向の匂いが、かすかにまだ残っている。
なんとも言えないような、いろんな想いが複雑に交じり合って、ぜんぶ涙になって流れてくる気がした。とまらない。とまらない。
誰もいないから、すこしだけ、声を上げて泣いた。もうすぐ6時間目も終わる。教室に戻らなくちゃ。でも、とまらないなあ……。
変なの。なんで泣いてるんだろう。なんで日向のこと、前よりも嫌いじゃないんだろう。なんでこんなときにも、瑛治のこと、思い出す
んだろう―――。
ベッド脇のカーテンを開けると、少しだけ雨が降っていた。どんよりと暗い雲から、ぽつぽつと雨が降り出している。
夏の雨。今日はきっと蒸し暑くて寝れないだろうな。私はそんなことを考えながら、ゆっくりと、立ち上がる。ずっと寝ていたからか、
すこしふらっとした。
瑛治に、会いに行ってみよう。
このまま連絡を取らなかったら、本当に私たち、おわっちゃう。そんなの嫌だもん。
瑛治が怒ってたって、私のこと嫌いになってたって、ちゃんと話して、元通りにしてみせる。大丈夫。きっと大丈夫。
うん。きっと、大丈夫、よね―――。
私はベッドをきちんと片して、保健室を出た。6時間目終了のチャイムが鳴ったのは、ちょうどそのときだった。