#39.夢のあと/これから
 
 
 
 
 「ただいまー……」
 家に入ると、なぜか安心した。はあ、とため息をつく。
 まだ午後6時をすぎたばかりで、外も明るい。だから姫桜が途中まで一緒に歩いてきてくれたのだ。
 結局、姫桜の部屋ではずっとくっついていた。手を繋いだり、時には抱き合ったり、いろいろな話をしたりしていた。
 今の俺、ホントに、俺か……?
 しょうもないことを思う。なんだか、自分がいつもの自分でないような気がするのだ。うまく言い表せないけど。
 夢のようだ、というのが当たっているだろうか。信じられないというか、姫桜の部屋でのことが本当にあったことなのかよくわからないのだ。
 ずっとずっと好きだった姫桜。あんなふうに抱き合って、たくさんキスをして―――ああ、やっぱり夢みたいだ。むしろ夢かもしれない。
 
 「あ、瑛治、帰ってきたーっ」
 ふいに梨乃が、居間からひょこっと顔を出す。やけに上機嫌だ。
 「なんだよ」
 「ね、来て来て。早くご飯食べよっ」
 「え?いや、俺、あとでで……」
 「いいからいいから!はーやーくー」
 梨乃が俺の腕をぐいぐいと乱暴に引っ張る。なんだってんだよ、人がちょっとセンチメンタルになってるときに。
 「ってえな、このバカ……」
 「あ、瑛治くん?」
 梨乃にぐいぐい引っ張られて、俺が居間に足を踏み入れたとき。聞き慣れない声がして、俺は思わず「はい?」と間抜けな声を出して
しまう。
 「はじめまして。俺、お姉さんの彼氏の東条律っていいます」
 礼儀正しそうな男の人が、ソファーに座っていた。その人の隣に梨乃がちょこんと座る。
 「あ、はあ……」
 そういえば、梨乃―――土曜日に律くん連れてくるから、なんて言ってたっけ。俺とこの人を会わせたいとかなんとか。
 「ども、えっと……弟です」
 俺はなんとも間の抜けたことを言って、初めて見る『律くん』の顔をまじまじと見つめた。
 ……男の俺が言うのもなんだけど、ものすごくかっこいい人である。
 どうして梨乃と付き合ってるのか、ということを疑問に思ってしまうくらいの容姿だった。ていうか俺、ここまで顔整ってる人、初めて
見たかも。
 
 「今日ね、律くん、うちでご飯食べてくの。ね、お母さん」
 梨乃が本当に嬉しそうに母さんに言った。そんな梨乃を見て、律さん――と呼ばせてもらおう――は「ご馳走になります」と母さんに笑い
かける。
 「はいはい。そういえば瑛治、アンタどこ行ってたの?」
 母さんも梨乃と律さんに笑い返して、そして俺のほうを向いていきなりそんなことを言った。ぎくっとする。
 「あ、いや……」
 「彼女とどっか行ってたんでしょ?」
 またぎくっとする。そうだ、彼女ができたってこと、梨乃にはバレてたんだった……。
 「いや、べつに」
 「あら瑛治、いつ彼女なんてできたの」
 母さんが興味津々といった表情で俺の顔をまじまじと見る。律さんも「へえ。どんな子なの?」なんて言って、ニコニコ笑っている。
 「あ、いや、だから。べつに、そんなわけじゃ」
 「さっさと認めちゃいなさいよ。どうせいつかはうちにも連れてくるんだから」
 梨乃が勝ち誇ったような顔で言う。
 「……」
 こんの、バカ梨乃め!
 なにも母さんの前で言うことないじゃねえか。しかも律さんがいるってのに。あーホント、こいつはバカだ!
 
 「瑛治くん、梨乃に似てるね」
 俺が何を言ったらいいか困っていると、律さんがそう言って、話題を変えてくれた。
 「えー、そう?」
 「うん。表情とか、喋り方とか」
 「そうかなあ」
 梨乃が不服そうな顔をしている。……おい、俺だって嫌だぞ。こんなバカ姉に似てるなんて、考えただけでもゾッとする。
 「でも、律くんと仁くんのほうが似てない?」
 「え、似てるかなあ」
 「似てる似てる」
 律さんと梨乃が笑いあう。二人はすごく仲がいいみたいで、なんだか俺は所在ない感じである。
 一人でドアの前にぽつんと立っていた俺は、とりあえずダイニングテーブルにでも座ってよう、と思いつく。
 「あ、瑛治瑛治」
 振り向くと、梨乃がニコニコ笑って手招きしていた。……ったく、このバカ姉は。まあ、バカだからこそ憎めないんだけど。
 「なんだよ」
 俺はダイニングテーブルに座るのをやめて、梨乃と律さんが座っているソファーの反対側のソファーに腰を下ろした。
 「律くんの弟、南沢中出身なんだけど」
 「はあ?」
 何を言い出すかと思えば、今度は律さんの弟の話か?
 「ものすごくかっこいいから有名なんじゃないかなーと思って。知ってる?東条仁くん」
 「東条……?」
 わずか何ヶ月か前の記憶を掘り起こす。東条、東条……ああ、いたいた。
 東条仁は確かに有名だった。何しろアイドル張りの容姿で――同じクラスだった女子談だが――、うちの学年で一番モテるとかって噂
だったやつだ。あー、確かに律さんに似てっかも。
 「知ってる知ってる。すげえ有名だった。そう言われてみれば、似てますね」
 俺は慣れない敬語で律さんに言った。そうすると律さんは照れくさそうに笑って「そうかな」と頭を掻く。
 「俺も何度か喋ったことあるよ。すっげえモテモテだった気ィする」
 「そりゃそうよ!本当にかっこいいわよね、仁くん」
 「……あいつ、そんなにモテてたのか」
 律さんは少し驚いたような顔をして、それから笑った。
 「でもあいつ、彼女一筋だから」
 「ああ、彼女も知ってますよ。顔だけだけど」
 確か……なんだっけ、名前……南野、だっけ。同じクラスになったことがないからよく知らない。
 「頭いいですよね、二人とも」
 東条は有名だったから、よくいろんな話を聞いた。東条も彼女も勉強ができる、っていうのは何回も聞いた話だ。
 「二人とも、この春から岸浜北に行ってるよ」
 「あー、やっぱりすごいっすね」
 桐島と同じとこか、と思う。この世には頭いいヤツが多いんだなあ。姫桜なんて岸浜南だし。……そう考えれば、俺とか梨乃って、
やっぱりバカなのかも。
 
 「ご飯、できたわよー」
 微妙な空気がすこしづつほぐれて、三人の会話が成立するようになってきたころ、母さんが俺たちを呼んだ。
 「梨乃の母さん、料理うまいよな。俺、いつも食べるの楽しみで」
 「そんなことないって」
 梨乃は謙遜しているが、うちの母さんは確かに料理がうまい。いや、他の人の手料理をそんなに食べないから、そう感じるのかも
しれないけど。
 3人でダイニングテーブルに移動する。予想した通り、なかなかのご馳走が出てきたので急に食欲が湧いてきた。
 「あ、じゃあいただきます」
 律さんが言う。なんだかこの人、容姿の割には庶民的だな……。
 マンガに出てくる王子様みたいな容姿の律さん。そんな人が鳥の唐揚げをうまそうに食っているのを見て、俺は妙な親近感を感じて
しまった。
 
 
 
 
 夕飯のあと、今度は梨乃の部屋に3人で移動した。俺がいて邪魔じゃないか、と思ったけど、梨乃がやたら『来い』と言うので仕方なく
来たのだ。
 部屋に入るなり、梨乃は目をキラキラと輝かせて俺に『彼女』の話を訊いてきた。げっ、これが目当てかよ、参ったな―――そう思った
ときはもうすでに遅くて、俺は『彼女』のことを延々と吐かされるハメになったのだ。
 「ひめさくら?」
 「……ひめさくらって書いて、きおって読む」
 「きゃーっ、名前、すっごく可愛い!ねえ、早くうちに連れてきてよ!」
 梨乃がはしゃいで、隣に座っている律さんをばんばんと叩く。おい、痛いだろそれ……。
 「可愛い名前だね」
 梨乃の攻撃をものともせずに、律さんが笑顔で言う。俺はなぜか照れてしまって、「あ、はい……どうも」なんて意味のわからない返答
をしてしまう。
 「ね、いつ連れてくるの?楽しみーっ」
 「まだ連れてこねえよ。あいつ、勉強大変なんだから」
 「え?同じ高校じゃないの?」
 「まさか。岸浜南行ってんだよ」
 「えーっ!」
 梨乃が叫び声に近い声をあげる。さすがの律さんも驚いたような顔をしていた。まあ、この辺で岸浜南なんて、めったにいないしな……。
 「すっごい頭いいのね……。よく瑛治なんかと」
 そりゃこっちのセリフだ。お前こそ、よく律さんと……。そう言おうとしたとき、ポケットの携帯が震えた。直感で姫桜からだとわかって、
ドキッとする。
 「ちょっとごめん」
 「なによ、姫桜ちゃんから、メール?」
 「いや……」
 ここで認めたら、また話のネタにされるに違いない。俺は曖昧な返事をして梨乃の部屋を出て、自分の部屋に戻る。
 
 部屋の電気はつけずに机の電気だけをつけ、ベッドに寝転がった。
 『今日はありがとう。その、楽しかったです』
 メール自体は短かったけど、この文面を考えるまでに姫桜がどれくらい悩んだかがなんとなくわかるような気がした。
 『うん。俺も楽しかった。今度は』
 そこまで書いて、ふと手を止める。言うの、ちょっと早いかな。今日、姫桜の家に行ったばかりだし。まあ、いずれ呼ぶことにはなるん
だろうから、いいか……。
 『今度は、うちに来いよ』
 気が変わらないうちにさっさと送信した。送信したあと、なんだかものすごく恥ずかしくなる。穴があったら入りたいって、まさにコレ
だと思う。
 『うん』
 携帯が震える。姫桜からの返事はたった二文字。
 それだけで姫桜の気持ちが伝わってきて、嬉しくなって、今度は叫び出したくなった。
 
 
 俺たち、本当に付き合ってるんだな―――なんて、いつだかも思ったことを思う。
 ああ俺、これからもずっと、姫桜と一緒にいたいな。俺の、俺のいちばん好きなひと。いちばん大切にしたいひと。
 俺はもう絶対に、姫桜と離れない―――。
 
 なんだか部屋の中が蒸し暑い気がして、窓を開け放つ。6月の湿ったような暖かいような空気が、部屋の中に流れ込んできた。
 風の匂いが、すこしづつ違ってきている。もうすぐ夏が来るんだな、と唐突にそう思って、なんだか嬉しくなった。
 『おやすみ。今日は本当にありがとう』
 それだけ書いて送信して、携帯を机の上に置いた。
 
 ゆっくり深呼吸をしながら、俺は想像する。
 俺たちは、どのように過ごしていくのだろう。二人で迎える新しい季節を―――。
 
 
 
 
 
 
 
 
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