#38.二人きり進化論 姫桜視点
 
 
 
 
 ―――今日の姫桜は、すっげえ、可愛い。
 そう言って瑛治は私にキスをして、抱きしめてくれた。瑛治って、こんなに大きかったんだなあ……なんて思う。
 私だって小柄なほうじゃないのに、こうやって瑛治に抱きしめられると、すっぽりと彼の腕の中に収まってしまう。なんだか守られてる
感じがして、くすぐったい。
 「ん……っ」
 ……え?なに、いまの。自分の声?嘘?私の声?いまの変な声、私が出したの?!
 あまりに長い瑛治のキスのせいで苦しくなって、思わず出たらしいその声は、いつもの自分の声からは考えられないような甘ったるい声
だった。……なんだか、ものすごく恥ずかしい。
 「……可愛い声」
 唇を離した隙に瑛治がぽつりと呟いて、またドキッとした。まあ、ずっとドキドキしてるんだけど。
 「か、かわいい……?」
 自分では到底そうは思えないんですが。むしろ、変な声だよね?恥ずかしすぎるってば。
 「姫桜のそんな声、初めて聞いた。……ってか、そんな声、出すんだ」
 瑛治はなぜか嬉しそうに言って、また私にキスをする。
 頭がボーっとしてくる。恥ずかしさと、ドキドキと、なんだかよくわからない感情。こんなの初めてだ。私、いったいどうしちゃったん
だろうな……。
 
 目をうっすらと開けると、おでこがくっつきそうなくらい近くに瑛治の顔がある。だから私は驚いて、また目をぎゅっと瞑る。
 瑛治は唇を離して、そして私に隙を与えないかのようにまたくちづける。まるでなにかを確認しているみたいだと、ぼんやりと思った。
 「姫桜、苦しい?」
 唇が離れる。ぎゅっと瞑っていた目を開けると、瑛治がなんだか切なそうな顔をしていた。
 見たことのない“彼”の表情に、胸がドクンと大きく高鳴る。「ううん」となぜか慌てて首を振って、私は俯いた。
 「よかった」
 瑛治は安心したように笑って、私の手をぎゅっと握る。
 なんだろうこれ。どうしようどうしよう。ドキドキして死んじゃいそうだ。なにもかもが変で、いつもの自分じゃないみたいで。
 瑛治が全然知らない男の人に見えて、いつもよりずっとかっこよく見えて、私は戸惑った。目の前の瑛治はなにも変わらないのに。
 「姫桜?」
 「えっ」
 瑛治が私の顔を覗き込んで、「どうかした?」と心配そうに訊いた。私はさっきみたいに「ううん」と慌てて首を振って、また俯く。
 ―――ドキドキが、悟られないように。
 なんでかわからないけど、瑛治にこんな気持ちを知られるのがすごく恥ずかしい。なんでドキドキしてるの?って、自分でもわからない
んだもの。
 瑛治はちっともドキドキしてないのかな。余裕、ってほどでもないけど、いつもと全然変わらないし。
 
 「……キス、嫌?」
 すこし間を置いて、瑛治が沈んだような声で言った。
 「え?」
 「なんか姫桜、変だから。……その、俺、調子乗ったかなあと」
 瑛治が罰の悪そうな顔をして、頭をポリポリと掻く。
 「あ、あの、そうじゃなくて」
 嫌なんかじゃない。……むしろ、嬉しいのに。
 私がおかしいんだ。こんなに、泣きそうなくらいドキドキして。瑛治の仕草ひとつひとつに、いつもより敏感になってる。
 「……ごめん」
 「そ、そうじゃないの!本当に、違うの」
 なにやってんのよ、私。キス、されたくらいで。……キスされたくらいで、こんなに気持ちになって。
 自分の部屋に二人きり。家の中には誰もいない。こんな状況を意識しないほど私は鈍感じゃないし、もしかしたら、なにか、その……
恋人的なことがあるかもしれない、って思ってた。
 瑛治が来る前から、いろいろ考えてたのに。なのに、思ったよりずっと緊張してる。なにに緊張してるかはよくわからないけど。
 「具合、悪い?」
 「……ううん」
 「風邪ひいた?」
 「……ううん」
 「じゃあ、どうしたんだよ」
 瑛治がちょっと怒ったような声を出す。言い方がさっきよりもすこし荒っぽかったから、私はびくっとしてしまった。
 繋いでいた手もいつの間にか離れていた。だからといって、また繋ぐこともできない。
 「瑛治……」
 ドキドキが、おさまらないです。おかしいんです、私の心臓。
 そうやって言えたらどんなにいいかと思う。だけど言えない。まったく、この素直じゃない性格が恨めしい。
 
 「……あの、ね……」
 喉の奥が熱くなってツンとして、なんだか泣きそうになった。なんでここで泣くんだ、と自分でも思うけど、さっぱりわからない。ていうか、
今日の私自身がわからない。
 「姫桜、お前……」
 突然瑛治がぎょっとしたような顔になって、あたふたと「ティッシュ、ティッシュ」と周りをきょろきょろ見回し始めた。
 「瑛治?」
 「な、なんで泣いてんだよ!そんなに嫌だったのか?!……俺、あの、こういうの初めてだから全然わかんなくて。とりあえず、ごめん!」
 瑛治は早口で捲くし立てて、ティッシュティッシュ、と部屋の中を行ったり来たりしている。その様子が不謹慎ながら面白くて、プッと
吹き出してしまった。
 「瑛治」
 「ごめん、ホント、調子に乗りすぎた―――」
 「違うよ」
 私は立ち上がって、後ろから瑛治をぎゅっと抱きしめた。
 「姫桜?」
 「違うの、本当に。その、私、なんか変なの!」
 「は?」
 瑛治がティッシュの箱を持ったまま、間抜けな声を出す。私は「とりあえず、座って」と言って瑛治をさっきの場所に座らせ、私は瑛治の
前に座る。二人で向かい合う状態になった。
 「心臓が、なんか、おかしくて。だから瑛治のせいじゃないの」
 自分でもなにを言っているかわからない。私ってこんなに言葉知らなかったっけ、と呆れてしまうくらいに。
 「―――姫桜」
 「ごめんね。その、自分でもなに言ってるかわからな……」
 自分の情けなさに涙が出そうになった瞬間、瑛治がいきなり私を抱きすくめた。
 「……焦った」
 瑛治は安堵のようなため息をついて、それからぽつりと一言漏らした。
 俺も同じなんだけど、と。
 
 「……え?」
 「てっきり、キスが嫌で泣いたんだと思った……あー、ホントに良かった……」
 「それって……どういう意味?」
 なんで瑛治が安心してるのか、全然わからない。ここって困るところじゃないの?
 「俺、キスとか、姫桜が初めてなんだけど。……恥ずかしながら」
 「……うん」
 「だから、ほら、緊張しまくってるっていうか、さっきから心臓壊れそうで。しかも姫桜がキス嫌だって泣くから、焦った焦った」
 瑛治が冗談っぽく言う。耳元を掠れた笑い声が通り過ぎていくのがわかって、またドキドキした。
 「い、嫌で泣いたわけじゃ……」
 「じゃ、いいの?」
 瑛治が間髪いれずに訊き返してくる。私はすこしだけ答えに詰まって、それから、小さく小さく、こくんと頷いた。
 「……姫桜って、こんなことで泣くんだ」
 「う……」
 普段は気が強い私。自分でもこんな一面があるなんて知らなくて、いま、すごく戸惑ってるのに。
 中学時代から瑛治とはケンカ友達だったから、私のこんな一面を知られてしまったっていうのが、すごく恥ずかしい。ああ、穴があったら
入りたいってこういう気持ちを言うんだ……。
 「前も泣いたよな。意外と泣き虫なんだ、お前」
 瑛治がからかうように言ったから、思わずカチンと来る。「悪かったわね!」といつものように返して、瑛治の腕を振り解こうとした。
 ―――それなのに。
 瑛治は「離さない」なんて言って、また腕の力を強めた。声がいつもより、その、なんていうの?色っぽいっていうの?……とにかく、
瑛治の声にまたドキッとさせられた。
 「こんなに可愛い姫桜、絶対に離したくない」
 瑛治の声が、脳天を直撃。……ていうか、私の心臓を直撃した。
 その瞬間、心臓がありえない速さでドキドキ鳴り始める。こわれそうだ、と本気で心配になるくらい。
 このドキドキ、瑛治に思い切り聞こえてるよね。……ああやだ、恥ずかしい。どうしよう。だけど止まらない。瑛治の声に、仕草に、ぜんぶに、
ドキドキが止まらない―――。
 
 「姫桜、可愛い」
 「……瑛治」
 「ホント可愛い。何回言っても足んない。すっげえ可愛い。めちゃめちゃ可愛い」
 「……恥ずかしいから、やめて」
 瑛治が『可愛い』って言うたびに、ドクンドクン、私の心臓はフル稼働で。
 「また目潤まして」
 瑛治が私の顔をまっすぐ見つめて、一瞬切なそうな顔をする。さっきの表情だ。私の知らない瑛治。
 「……姫桜、また泣くの?」
 「もう、泣かないわよ」
 「だって目、すっげ潤んでる」
 「……気のせいじゃないの?」
 そういえば、目頭がなんだか熱い。目、そんなに潤んでるかな。心なしか顔も熱い。
 「俺、たまんないんだけど。そんな顔して見つめられると」
 「こういう顔だからしょうがないじゃない」
 「そんなに目潤ませて、ほっぺ赤くて?」
 瑛治が可笑しそうに言う。やだ、やっぱり顔赤かったんだ。
 「あー、可愛いなあ」
 そして、ものすごくいとおしそうに、私をぎゅうっと抱きしめる。耳元で「1ヶ月おめでと」と呟かれて、また私のドキドキが加速した。
 
 
 男の子と手を繋ぐこと。男の子に抱きしめられたり、キスをされること。
 “彼氏”って響きにもまだ慣れていない。それなのに瑛治は、私をこんなにもドキドキさせる。
 初めてだらけのしあわせ。好きな人とこういうふうに触れ合ったりすることが、こんなにもしあわせなことだなんて、私は今まで知らなかった。
 私がそっと瑛治の背中に腕を回すと、瑛治はまた腕の力を強めた。苦しい。苦しいけど、まだ離さないでいてほしいと思う。
 
 今日で、付き合い始めて1ヶ月。
 これからも、このひとのそばにいたい―――。
 私は胸の中でひっそりと、そう思ったのでした。
 
 
 
※タイトルはお題サイト様「Kip」からお借りしました。
 
 
 
 
 
 
 
 
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