#34.ハイテンション・ホリディ―pm1:00、海が見えるところ―
*
「うわー、すごい。なんにもない」
神楽坂駅で電車を降り外に出る。香坂の第一声があまりにも率直な感想だったから、俺はすこし笑ってしまった。
「もしかして、コンビニもないのかよ」
「まさか」
「見える範囲にはボロい家しかないんですけど」
そもそも、神楽坂駅もものすごく小さいのだ。岸浜が近いのに、どうしてこんなに田舎なんだろう。
見渡す限り、家がぽつんと何軒かあるだけ。道路には車も通ってないし、駅前だというのにひどく静かである。
のどか、というのだろうか。心なしか気温も南沢のほうより暖かい気がする。人影もないので、なんとなく、ここだけ世界から取り残されて
しまったようなところだった。
「あ、海が見える」
駅からまっすぐ行けば海岸に出れるらしく、ここからは海が太陽に反射してキラキラしているのが見えた。
見る限りは近そうだが、意外と歩くんだろうなあ。この何もない道を、ずっと、まっすぐに。
「腹減ってる?」
「ううん」
「海岸で座ってメシ食ってたら、変だよな」
「え?そのためにいろいろ買ってきたんじゃないの?」
香坂は最初からそのつもりだったらしく、却って真面目に聞き返されてしまった。
「……じゃあ、そうすっか」
俺は笑いたいのをこらえて、とりあえずこのまっすぐな道を行くことにする。
海岸でメシ食って、そのあと、どうするんだろうなあ。
昨日思っていた初デートとはあまりに違う方向へ話が進んでいることに驚きつつも、俺はこんなのもいいかな、なんて思っていた。いや、
むしろこのほうが良かったかも、なんて。
なかなかロマンチックじゃないか―――まあ、神楽坂の、なんにもない海だけど。
とりあえず香坂が嬉しそうに笑っているので良しとしよう。うん。
「久保、早く来てよ。なんでそんなとこで突っ立ってんの」
ふわふわの髪とスカートを揺らしながら、香坂がいつもの口調で俺に言った。
「うるせえな、今行くよ」
やっぱり今日は特別に可愛いな、と思いながら、俺は香坂の後を追う。
「ねえ、人とか住んでると思う?」
「さあな」
「誰もいないよ」
「昼だから、家ん中でメシ食ってるんじゃねえの」
適当に返事をしながら、この町の生活感のなさに俺は心から驚いていた。もっと驚いたのは、ここがギリギリ岸浜市内だということだった
んだけど。
家はあるが、外には誰もいない。田舎にありそうな食堂もないし、スーパーみたいのもないし。聞こえる音といえば、鳥の声と、ときどき
通過していく電車の音、そして寂しげに響く踏み切りの音だけだ。
「でも、いいところ。住みたくはないけど、たまに来るならいい」
香坂は思い切り深呼吸をして、すごく嬉しそうに微笑んだ。岸浜よりもこの寂れた神楽坂がいいなんて、香坂はやっぱり変わってるよな。
「ま、お前がいいならいいよ」
海まではやはり距離があるらしく、もう20分は歩いているのだがまだ着きそうにもない。
「あ、そういえば、電車の時間とか見てきた?」
香坂が思い出したように言う。
「え?」
「帰りの電車!この辺、かなり本数少ないでしょ」
「あ」
やべ、そんなことまったく忘れてた。
「大丈夫かなあ。もし帰れなくても、ここじゃどうにもなんないよ。なんもないし」
「そんなこと言うなよ。不安になってくるだろ」
「夜の海って、ものすごく怖いんだよ。真っ暗だもん」
「だからやめろって」
香坂は、どっちかというと俺をからかっているようだった。本当に不安というよりは、俺の反応を楽しんでいるようだ。
「冗談冗談。大丈夫だよ。私、ちゃんと見てきたから」
「マジで?」
「うん。3時15分と4時35分にあるよ。その2本を逃したら、7時までない」
「……しっかりしてるよな、ホント」
ちらっと見ただけのはずなのに暗記しているのは、さすが香坂というところだろうか。
「うん。これなら心置きなく海を眺められるでしょ?」
「確かに」
そんなことを話しているうちに、だんだんと海に近づいてきていた。潮の匂いと波の音、そしてカモメの鳴き声。ホントに海に来たんだなあ、
なんて思って、なぜかドキドキする。
大きな国道を渡るとすぐ海岸だった。やはり国道だけあって車通りは多く、ここに来て初めて人の気配というものを感じた。
「横断歩道とか、ないよねえ。隙を見て渡ろうか」
「だな」
俺たちは車が途切れた隙に急いで道路を横切り、海岸に続く石段を降りていった。
「すごくきれい」
香坂は感激したように言い、水際まで走っていく。押し寄せる波を嬉しそうに眺めたり、水に触れて「冷たい」なんて呟いている。
「よっぽど好きなんだな、海」
「うん。海見てると、時間を忘れちゃうような気がしない?」
いつもの強気な香坂からは想像もつかないくらいの無邪気な笑顔で、見ている俺がドキッとした。服とか髪型だけじゃなくて、今日の
香坂は雰囲気までいつもと違う。俺はさっきから、香坂の知らないところを発見しっぱなしだ。
「とりあえず俺はメシ食うからな。腹減った」
ゴミやら貝殻やらが少ないところを選んで腰を下ろす。たくさん歩いたのですっかり腹が減ってしまった。
「そういえば私もお腹すいたなあ。あ、もう1時になるじゃない」
香坂が携帯で時間を確認する。そして今度は俺が座っているところに走ってきて、俺の隣に腰を下ろした。
「久保、なに食べる?」
「メロンパン」
俺が即答すると、香坂は袋をガサガサやってメロンパンを渡してくれた。
俺はメロンパン、香坂は卵サンドを食べながら、二人でぼーっと海を眺める。波は単調に引いたり押し寄せたりを繰り返しているので、
見ていると眠くなってきてしまう。
「ねえ、久保」
「ん?」
「どうして私のこと、好きになったの?」
「ぶっ」
香坂が食べ終わったサンドイッチの袋を畳みながら、いきなりそんなことを言った。俺は危うく、飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。
「な、なんだよいきなり!」
「そんなに驚かなくてもいいでしょ」
「驚くだろ、フツー」
「だって、疑問に思ったんだもん。ずっと友達だったのに、いつから久保は私のことそういうふうに見ててくれたのかなって」
香坂は俯きながらぶつぶつと呟いていた。波風に、香坂の髪が揺れる。
いつから―――なんて、そんなこと覚えてない。気付いたら好きだったんだ。ていうか、そんなもんじゃないのか、恋って。
こうやって香坂が隣にいることとか、香坂の髪がちょっと揺れたり、俺に笑いかけてくれたり、時にはケンカしたり。そんな些細なこと
だけで幸せになってしまう。それが「好きだ」という気持ちだって気付いたのはいつのことだっただろうか?
「……ごめん、覚えてない」
すこし考えた挙句、俺は思ったことをそのまま口に出した。本当に覚えてないのだから仕方がない。
「敢えて言うなら、たぶん、中1のときから」
「え?!そんなに前から?!」
香坂は目を丸くして驚いている。俺は「そんなに驚かなくてもいいだろ」と、さっきの香坂のセリフをそのままそっくり返す。
「驚くわよ、普通」
「なんで?」
「だって、中1って……3年前?」
「そうだな」
「……うそ」
香坂は神妙な顔をして、それから、何かを噛みしめるように笑った。ニヤけているというか、嬉しそうというか、何とも言えない表情である。
「……なに笑ってんだよ」
「べつに」
「俺、なんか面白いこと言ったかよ」
「だからべつにって言ってるでしょ」
その言葉とは裏腹に、怪しい笑いは香坂の顔全体に広がっていく。何がなんだかわからない俺は、首を傾げてみたり、「だからなんなんだよ、
おい」と言うことしかできない。
「……瑛治」
香坂がいきなりそう呟いたので、俺は「は?」と間抜けな返事をして、相変わらず嫌な笑みを浮かべている香坂を見た。
「下の名前、瑛治だよね」
「あ、ああ……」
なんだってんだいったい。もしかして、俺の名前が可笑しくて笑ってたとか、そういうわけじゃないよな……。
「私の下の名前、覚えてる?」
「え?あ、まあ……」
覚えてるに決まってるだろ。そうは思いつつも、本人を目の前にして呼ぶのはなかなか恥ずかしいものがある。
「呼んでみて」
「え、なんでだよ」
「いいから」
「恥ずかしいだろうが」
俺がそう言うと、香坂は口を尖らせて「じゃあいいわよ、べつに」とそっぽを向いてしまった。あ、まずい。怒らせたかもしれない。
だからと言って、いきなり「姫桜」って呼ぶのは抵抗あるしな。今まで「香坂」って呼んでたんだぞ?いきなり名前を呼び捨てするなんて、
なんだか彼氏みたいだ……って、俺、彼氏になったんだよな。
―――姫桜。
なんでもないことで急にそう呼べるくらい、俺はこれから、こいつの名前を呼ぶことに慣れていくのだろうか―――。
「……姫桜」
俺は蚊の鳴くような小さな小さな声で、そう、呼んでみた。
聞こえなかったよなあと思ったけど、香坂―――じゃねえや、姫桜、は、振り向いてくれた。意外そうな表情と、嬉しそうな表情が混ざった
ような顔で。
「ちょっと、嬉しい」
「……ちょっとかよ」
人がせっかく恥を偲んで、ものすごく一生懸命呼んだのに。呼べっていうから、恥ずかしいのを押し殺して呼んだのに。
「うそ。すっごく嬉しい」
香坂はにっこりと笑って、「なんか、恋人みたい」と付け加えた。俺はすかさず「……恋人、なんじゃねえの?」と返す。
「そっか。そうだよね。……ね、瑛治」
まだ呼びなれないからか、俺の名前を言うときにだけすこし詰まっている。それが逆に嬉しくて、なんだか初々しい感じがして、すっごく
可愛く思えて―――。
「姫桜」
もう一度、彼女の名前を呼んでみる。
慣れないけど、こうして呼ぶと、こいつにとって俺は特別なんだろうか、なんて思って、嬉しくなってしまう。
「なに?」
彼女が柔らかく笑う。俺は「なんでもない」といって笑い返す。なんでもないやりとりなのに温かくて、もうこれだけで満足してしまいそうだ。
5月の海は心地よくて、やっぱりここだけ別の世界のように思える。
砂浜の上に無造作に置かれた姫桜の小さな手に、俺はすこしづつ触れてみる。そしてぎゅっと握ると、その小さな手も、ぎゅっと握り返して
くれた。