#33.ハイテンション・ホリディ―am10:00、電車の中にて―
*
―――まったくと言っていいほど眠れなかった。
部屋の中がだんだん明るくなっていく。それもそのはずで、時計を見るともう5時だった。
昨日、布団に入ったのは12時くらいだった気がする。今まで5時間も、なんで俺は眠れなかったんだ……?
理由はわかっている。今日のことが気になって気になって、眠れなかったのだ―――。
「……起きよ」
俺は布団から出て窓を開けた。もう5月下旬だが早朝の空気は結構冷たくて、寝不足の体に気持ちいい。
見事な快晴。良かったと思う反面、雨なら適当に映画でも見に行けたのに、なんて残念に思ったりもした。実はまだ、行き先をちゃんと
決めていないのだ。
岸浜まで行けばなんとかなるって思ってたけど、桐島と遊びに行くのと違うんだし、退屈させないようにしないとなあ。
待ち合わせの午前10時まであと5時間。
まだ誰も起きていない様子の――もっとも、梨乃は家にいなかったが――家の中を、忍び足で歩く。とりあえずシャワーを浴びないと。この
ボサボサ頭のままで出かけるわけにはいかないし。
すごく緊張するけど、すごく楽しみでもあった。こんなにバカみたいにドキドキしてんのって、すごく久しぶりだ。
3週間ぶりに香坂に会える。しかも、友達としてじゃなくて彼氏として。そんなことを考えただけで、思わずニヤニヤしてしまう。
―――いい日になるといいな。
俺は柄にもなく、神様にそんなことを祈ってみた。
午前9時50分。俺は南沢駅のベンチに座り、香坂を待っていた。
誰かとの待ち合わせに間に合うなんて、俺としては至極珍しいことである。友達と遊びに行くときは、いつも寝坊して遅刻して怒られる
タイプなのに。
「久保!」
ふいに後ろから声をかけられて、俺は勢いよく振り向く。
「もしかして、待った?」
「いや、全然」
よくあるやりとりをしたあと、俺はベンチから立ち上がり、改めて香坂をじっと見た。
―――ちょっと待て。おい、香坂……。
俺は思わず香坂から目を逸らし、もう一度見つめた。かなり怪しげな行動なので、香坂が不思議そうに俺を見ている。
「なによ、じろじろ見て」
「いや、なにも……」
なにもないわけあるか!と、心の中で密かに反論する。それもそのはずで、今日の香坂は、思ってたより……いや、かなり、ものすごく
―――可愛すぎたのである。
まず、スカートを穿いているのを初めて見た。それに、髪もなんかいつもと違うし。ふわふわしてるっていうか……。よくわかんないけど。
全体的にふわふわしていて、いつもよりぐっと女の子らしい香坂がそこにいた。なんて言ったらいいのかわからなくて、俺はまた目を
逸らしたり見つめたりを繰り返す。
「あの、香坂、髪さ……」
「ああ、巻いたの」
香坂はあっさりと言って、すこし髪をいじる。
「巻いた?」
「うん。アイロンで巻いたの。もしかして、変?」
「い、いやいや。違うんだけど……」
アイロンって、髪をまっすぐにするだけじゃなかったのか―――そんなことを思いながら、俺は全力で否定する。変だなんて、まったく
その逆である。
「じゃあ何よ」
「あ、いや、その……むしろ……可愛いな、って……」
俺は思い切り頭を掻きながら言った。いつもの2倍の量のワックスをつけてきたのに、こんなことしたらすぐにとれてしまうじゃないか。
しかも、可愛いって言うのにこんなに手間取ってどうするんだ。ダメすぎる、最初からダメすぎるぞ、俺。
「え?」
香坂がきょとんとした顔で聞き返してくる。
「……おいお前、ちゃんと聞いてろよ」
「だ、だって、いま、久保の口からは到底出てこないような言葉が出てきたから」
「なんだよそれ!人が必死の思いで褒めてやったのに!」
「褒めてやったってなによ!いいわよ別に。変なら変って言いなさいよ」
香坂はツンとした表情でそっぽを向き、定期を出して改札を通って行ってしまった。俺はさっき買った切符を改札に通し、慌てて香坂を
追いかける。
「おい」
俺は香坂の腕をつかみ、無理矢理こっちを向かせる。
「なんでお前はすぐ怒るんだよ。こっちは褒めたのに」
「だって、あんまり自信ないんだもん。デートなんてしたことないから、どういう格好して行けばいいのかわからなかったし、久保の
反応もすごく気になるし……」
香坂は目を伏せて、ぼそぼそと言った。あ、まぶたの上、ちょっとだけキラキラしてる。もしかして、すこし化粧してんのかな……。
いつもと違うところに気付けば気付くだけ、香坂のことが可愛くてたまらなくなる。
「……可愛いから」
「え……」
「可愛いから、大丈夫だって言ってんだよ」
俺は香坂の手をつかんでホームに続く階段を下りていく。可愛いって言葉がまだ慣れないから、恥ずかしくて香坂の顔が見れない。
「久保、ちょっと待ってよ」
「もう電車来るだろ。急げよ」
「まだ来てないじゃない」
「……もう黙っとけ、お前」
俺、香坂には口じゃ勝てないんだよな。昔からそうだ。ふと中学時代のことを思い出して、懐かしくなる。笑いそうになったけどこらえた。
ホームの電光掲示板には「普通 10:17 岸浜」とある。それをぼーっと眺めていると、「10時17分発、岸浜行き普通列車が、
3番ホームに到着します」というアナウンスが聞こえた。
「電車、もうすぐ来るな」
「……あの、久保」
「なに?」
「……手、このまま?」
香坂がおずおずと言って、俺は初めて気付いた。
―――俺、やっぱ、バカだ。今日はかなりパニクっているらしい。
「ご、ごめん」
今までずっと握りっぱなしだった香坂の手を慌てて離す。違和感がなかったのが不思議なくらいだ。
「あ、そういう意味じゃなくて。離したいわけじゃ……」
香坂の声が途切れた。電車がホームに入ってきたのだ。
「足元、気をつけろよ」
俺はぼそっと言って、香坂と電車に乗り込んだ。土曜日というのに電車は割と空いていた。香坂を窓側に座らせて、俺は通路側に座る。
「岸浜って、近いよね」
突然、香坂が思いついたように言った。
「そうだな。電車で2駅だし」
ドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出した。
香坂とこうして電車に乗ってるのは、なんだか変な感じがするな……。窓の外の景色を眺めながら漠然とそんなことを思う。
「岸浜よりも遠くに行きたかったら、乗り換えしなきゃならないんだよね」
「そうだな」
神川というのは、岸浜のまだ向こうの町だ。あまり大きくない町で、俺たちの住んでいる町よりもまだ小さいんじゃないかと思う。一応、
市なんだけどな。
「神川に行く途中、神楽坂っていう駅があるでしょ。あの辺、海がきれいなんだって」
「ふーん……」
そういえば、神川方面って行ったことないよな。買い物なんかは全部岸浜で済んじゃうし、わざわざ行く必要もないところだから。
「岸浜のすぐ次の駅なんだよ」
「なんだよ香坂、行きたいのか?」
香坂がやたら神楽坂や神川の話をするので、俺は笑ってしまった。これから岸浜に行くっていうのに。香坂、たまにわけのわからないことを
言うからな。
「岸浜で乗り換えよっか」
「え?」
「神楽坂まで行こ」
香坂がそう言った瞬間、「次は新岸浜、新岸浜です」とアナウンスがかかる。窓の外にだんだんと高いビルが増えてきた。
「なんだよいきなり」
「海、見たい」
香坂はぽつりとそう言って、「ね?いいでしょ?電車代だって、大した変わらないし」と付け加える。
「や、べつに、いいけど……」
行くことに異論はない。だけど俺、岸浜から向こうは全然知らないんだよな……。
「いきなり言って、迷ったりしないのかよ」
「大丈夫。神楽坂なんてなんにもないところだから、逆に迷えないよ」
香坂がにっこり笑って、ほんのすこし、俺の手に触れてきた。
ドキッとして、香坂の顔を見る。恥ずかしそうに俯いているが、香坂の手はしっかりと俺の手を握っていた。
「こ、香坂……」
「なによ。さっき、久保だって同じことしたくせに」
「さっきのは無意識だろ」
「じゃあこれも無意識だもん」
香坂がそう言って拗ねたのがあまりにも可愛かったので、俺は手を握り返してやった。
香坂の手は小さくて、冷たかった。女の子の手だよなあ、なんて意識してしまって、またドキドキする。
海が見たい―――なんて、思ってもみなかった言葉だ。とりあえず岸浜に行けば退屈させないだろうって、そればかり考えてたから。
香坂は、海が好き。うん。覚えておこう。
俺たちはそのまま手を繋ぎながら、岸浜に着くまで、ぽつりぽつりと会話をした。
岸浜駅に降りて新たに切符を買い、今度は神川行きの電車に乗り換えである。
神川方面に行く電車は普通列車しかない。しかも、ここから神楽坂までは10分くらいかかるらしい。
「なんか食べるもの買ってくか」
実際、神楽坂には海を見に行くだけである。
だが、食料を買い込んで行って、海を見ながらのんびり話をするのも悪くないだろうと思ったのだ。香坂もそう思っていたらしく、すごく
嬉しそうに頷いてくれた。
「香坂、なんでも食えるだろ?適当に買ってくる」
「え、いいよ。自分で買うから」
「いいよ別に。遠慮するな、香坂のくせに」
「……私、そんなに図々しくないんだけど」
「いいから。俺が買ってくる」
悪そうに俺を見ている香坂を残し、駅の売店でペットボトルのお茶とサンドイッチやパンやお菓子を適当に買った。
そして俺は、香坂と一緒に神川行きの電車に乗り込んだのだ。
「すごいガラガラ」
「当たり前だろ。神川ってなにもないし」
神川行きの普通列車の中は、見事に空いていた。俺たち以外乗客はいないんじゃないかってくらいだ。
「私ね、なにもないところって好きなんだ」
「ふーん」
ガタンゴトンと、電車が揺れる音が車内に響く。乗客がほとんどいないから、その音が鮮明に聞こえた。
「わがまま言ってごめんね。岸浜行きたかった?」
「いや、そんなに。行くところ特に決めてなかったし」
全く行きたくなかったかと言うと嘘になるけど、ものすごく行きたいわけでもなかった。正直、どこに行けばいいのか困ってたし。
香坂の提案、ちょうどいいといえばちょうど良かったのかもしれないな。
「久保と、見てみたくて」
香坂がぽつりと言い、ふわふわの髪を耳にかける。
俺たちの席はちょうど日が当たっていて、香坂の髪が茶色く見えた。すごくきれいだ、と思う。こういう表情をした香坂は、すごくきれいだ。
「そっか」
俺は相槌だけを打ち、さっきの香坂のように、さりげなく手を握った。
香坂も握り返してきてくれて、ドキドキはしたけれど、さっきよりは落ち着いた気持ちでいられる。
そして俺たちは、何も話さないでただ手を繋いで、ガラガラの電車に乗り、神楽坂に向かった。