#23.偶然
*
その日の昼休み、弁当を早々と済ませた梓は、「追試受かったぞ!」という声と共に教室に駆け込んできた。
どうやら弁当をさっさと食べたのは、追試の答案用紙を取りに行くためだったらしい。俺はというと、まだのんびりとパンを食っていた。
「何点?」
「……53点」
「ギリギリじゃねえか!」
俺は思わずそう突っ込み、俺の昨日の苦労はいったい何だったんだと心から思った。
「俺の頭で50点取れたことに喜べよな!」
梓は口を尖らせて、答案用紙を俺に押し付けた。見てみろという意味らしい。
なるほど、確かに53点だが―――。
「お前さあ、基本問題だけで53点取ったろ」
基本問題はほぼ全問正解。だけど少しでも応用になると全滅。
俺が呆れたような顔をして見せると、「いいだろ別に。受かったんだから」とさらに口を尖らせた。
「ああ、そういえば椎名は?お前でも受かったから受かっただろうけど」
「まどかちゃんは87点だったぞ。なんでお前、最初から本気でやらなかったんだ、って数学の先生に怒られてた」
87点取って怒られるのも可哀相な話だが、まあ確かにそうだ。追試とはいえそれだけ取れるんだから、きっと元は頭のいい子なん
だろう。
「ふーん」
俺は食べ終わったパンの袋を丸めて、ゴミ箱に放り込む。でも入らなかったので、仕方なくちゃんと捨てに行った。
「久保くん」
「ん?」
振り向くと、椎名がいた。「追試受かったよ」と嬉しそうに言って、答案を俺に差し出す。本当に87点だ。
「……椎名さ、実は頭いいんだろ?」
「そんなことないよ。マグレだって、マグレ」
「マグレで87点は取れないよ」
俺が冗談交じりに言うと、「ほんとなのになあ」と椎名は困った顔をした。
「ま、次からは本気でやれよ」
「うん。でも、今回は追試になって、ちょっと良かったかもしれないな」
椎名がちょっと笑った。やっぱ可愛いなあ、と一瞬思って、何考えてんだ俺は、とその思いを吹き飛ばす。
「なんで?」
「……久保くんに、勉強教えてもらったから」
ぽつりと言って、椎名が恥ずかしそうに笑う。
―――どういう意味だ?
椎名の言っていることの意味がまるでわからない俺は、聞き返すこともできずに黙っていた。
「あ、そうだ。あのね。久保くんって、南沢中の方に住んでるんでしょ?」
「ああ?まあ、そうだけど」
意味のわからないことを言ったと思えば、急に話題が変わる。……椎名ってある意味、梓に似てるかもしれないぞ。
「そっちの方に、大きい本屋さんあるよね?」
「まあ、あるけど」
うちからはわりと近いところにある、でかい本屋だ。本だけではなくCDや文房具も売っている。本が好きな香坂や桐島は、よくそこに
足を運んでいるらしい。
「今日ね、そこに寄っていきたいんだ。それでね、あの……」
だから何なんだ?椎名はなかなか言葉を続けてくれない。なにか躊躇っているようだ。
「あの、途中まででいいから……一緒に、帰ってもいい?」
―――はい?
また謎の発言が飛び出した。なんなんだ。わけわかんないぞ。
「あー……うん……」
俺は頭を掻きながら曖昧な返事をする。よくわからない。よくわからないけど、断ったら可哀相だなあなんて思ってしまったから。
「ほんと?」
「うん、まあ……」
「ありがとう」
椎名は本当に嬉しそうに、すこしはにかんで笑った。
……べつにいいか。今日だけだしな。
香坂のことが頭をよぎったけれど、好きなの、俺だけだし。香坂はたぶん、俺のこと、なんとも思ってないし。
いいよな、べつに。たまたま一緒に帰るだけだし。あいつ、彼女とかじゃないし……。
って、なんで香坂のことばかり気にしてるんだよ。これじゃまるで、言い訳みたいじゃねえか……。
得したような損したような、複雑な気持ちで、俺は放課後を迎えた。
梓には「なんだよ瑛冶だけ!ふざけんな!」と怒られてしまったけど、俺から「一緒に帰ろう」と言ったわけじゃないし、そんなこと
言われても困る。
「一緒に帰るっつっても、バスだぞ。たまたま方向が一緒だから……」
「それでも羨ましいモンは羨ましいの!しかもまどかちゃんから言ってきたんだろー?なんだよ、俺のほうがいい男なのに……」
梓はぶつぶつと呟いている。
「お前、失礼なヤツだな」
「そりゃあ、背は瑛冶のほうが高いけどさ。やっぱ男は中身だよ。わかってねーなあ、まどかちゃんは……」
「なにが?」
いつの間にか、椎名が梓の背後にいた。梓が驚いて「ぎゃっ」と情けない声を上げたので、俺は思わず爆笑してしまう。
「待たせてごめんね。バスの時間、大丈夫?」
「ああ、ちょうどいいのあるから大丈夫」
今は3時30分なので、45分のバスに乗ればよい。
「じゃあな、梓」
俺がにっこり笑って手を振ると、梓が悔しそうに俺を睨みつけた。
だから、そう睨むなって。
べつに俺は、お前と違って、椎名が好きなわけじゃないんだぜ?
「バスって、久しぶりに乗ったかも」
椎名を窓側に座らせて、俺は通路側に座った。
しかしやっぱり椎名はどこへ行っても目立つようで、乗客の9割が光台の生徒のバス内では、ほとんどの男子が椎名をちらちらと見ていた。
「もうすぐ5月だから、暖かくなったよね。桜、いつ咲くのかなあ?」
椎名は柔らかく笑って言った。あまりにも柔らかい笑顔なので、俺もつられて笑ってしまう。
「ゴールデンウィークくらいじゃねえの?」
「開花、遅いよね。北海道は」
小さく言って、椎名は口をつぐんだ。
一方の俺は、窓の外を見ていた。『次は、光台6丁目、光台6丁目です。お降りの方は……』とアナウンスがかかる。
香坂の家は光台6丁目にある。ただそれだけで、アナウンスに反応してしまう自分が恥ずかしくなった。……まあ、毎日のことだけど。
ああそういえば、昨日の約束―――どうしようか。ゴールデンウィークとか、あいつ、空いてるかな。
でも連休だから、岸浜南なら課題がどっさり出るかも。遊んでる場合じゃなかったりして……。
考えているうちに顔がにニヤけてくるのがわかって、すこし焦った。椎名はずっと外を見ているから、ニヤけてるのはバレてないな……。
香坂との約束のことを考えるのは、家に帰ってからにしよう。
俺はそう心に誓って、わざと違うことを考えるのに専念することにした。
『次は、南沢中学校前、南沢中学校前です』
椎名とろくに喋らないうちに、もう着いてしまった。15分とは意外と短いものだ。
「椎名、降りるよ」
「あ、うん」
ぼーっとしていた椎名は、俺が声をかけるとびくっとした。慌てて立とうとして、躓いて転びそうになる。
「急がなくてもいいから」
俺は椎名の腕をつかんで、笑いながら言った。この子、やっぱりどっか抜けてるんだよなあ……。
「あ、ありがと」
椎名がぱっと俺の腕を払いのける。なんだ?と思っているうちに、バスが停車した。
今の俺と椎名のやりとりを見てか、「可愛い彼女がいて羨ましいな」「まったくだ」という他校の男子の囁き声が聞こえた。
―――彼女?椎名が?
それを聞いた瞬間、俺は思わずはっとした。
もしかして、恋人同士に見えてたのか?俺と、椎名って……。
「久保くんは、ここの中学だったんだよね?」
バスを降りて、目の前にある南沢中学校を指差しながら椎名が言った。
「ああ」
恋人、に……見える……よな。そうだよな……。
こんなところ、誰かに見られたら大変だ。特に、噂好きのヤツにでも見られたら。椎名、有名だし、可愛いから目立つし。あっという間に
いろんな人の耳に入るぞ……。
「あのさ、椎名は、本読むの好きなのか?」
本屋は大きいので、ここからでもよく見えた。
「ううん、本なんて、全然読まない」
「じゃあ、なんで本屋に?CDでも買うのか?」
「ううん」
椎名はふふふと笑いながら、「本屋はどうでもいいんだ」と小さな声で言った。
「え?」
「ほんとは、久保くんと帰るのが目的だったの」
―――可愛い彼女がいて羨ましいな。
さっきの男子たちの声が蘇った。
椎名の目的が、俺と帰ること……?
「久保くん、彼女とか、いる?」
信号に引っかかって、立ち止まったとき。椎名が俺にすこしだけ近づいて、こう訊いてきた。
「椎名……」
「彼女、いる?」
いつもの椎名からは考えられないような、強い口調だった。絶対に答えなきゃだめだな、と思う。
でもなんて答える?彼女はいない。けど、好きなやつはいる。
「彼女は……」
いないけど、好きなやつはいる。
そう答えようとしたときだった。
ちょうど青信号に変わって、俺と椎名が歩き出す。もうそろそろ俺んちだなあ……とぼんやりと思ったときに、向こうから、誰かが歩いて
くるのが見えた。
岸浜南の制服だ。チェックのスカートにブレザー。すぐにわかる。
「あの人、岸浜南だ。すごく頭いいんだろうなあ」
隣で椎名が感心したように言った。けど、俺はそれどころじゃない。
あれ、もしかして……。
「……冗談だろ」
俺は思わず呟いた。椎名が「え?」という顔をする。
―――なんてタイミングだ。
「……久保」
香坂が、びっくりしたような顔をして、俺を見た。そのあとすぐに、椎名に目を移す。
マジかよ。こんな偶然、ありえないだろ……。
「……久しぶり」
他になにも言えずに、俺はただ、無意識にそう呟いた。